国家と国民の関係

もしも、国家という概念がなかったとするなら、それは、どういったことを意味しているのか。
この問いは、国家を、企業と考え、国民をその企業の従業員と考えるアナロジーによって、少しは理解が深まるのかもしれない。
私たちは、一般に国家と呼ぶが、ようするに、国家とは、国家を運営する政治組織、つまり、政府のことであることが分かるであろう。このことは、企業とは実質的には、経営陣のことを意味していることと同値であろう。
企業の経営陣と、その企業の従業員には、なんらかの「契約」関係がある。この関係が破綻したとき、従業員は会社を辞めた、ということを意味する。
他方、国家においても、政府と国民には、なんらかの関係がある。多くの場合、私たちは政府をあまり意識しないで生きているが、戸籍を登録したり、税金を払ったり、徴兵されるときなど、人生の節目節目で、国家の

  • 強制

に多くの場合、従う。それは、従わなければ、なんらかの政府による「制裁」があるからだが、問題は、それが「嫌」だからといって、政府と国民の、この「契約」が破棄に「ならない」ということである。
もしも、国民が、この政府の政策が「嫌」な場合、どんな選択があるだろうか。

  • 別の国に移住する
  • 政府のメンバーを刷新させて、その「嫌」な政策を、止めさせる。
  • 革命を起こし、まったく違う政治体制の国を作る(または、国家を分割する)

しかし、それぞれは、それぞれに「リスク」がある。一番目の移住の選択は、そもそも今住んでいる所と別の所へ行くことを強いられるわけで、その選択が「いい」ならかまわないが、今の所に住み続けたいと思っているなら、この選択は不満足であろう。
二つ目の政権交代は、さらに政治的エネルギーが必要となる。
三番目の革命は、おそらく、非合法的な行為として、政府からの「制裁」を受けることになるかもしれない。大きな「労力」を必要とするであろう。
さて。
そもそも、「何」が問題だったのか。
それは、国民が政府の行動に「不満」をもつ人が「いる」という事実であった。つまり、そういう人がいる限り、その国家は、どこか

  • 不安定

をまぬがれない、と考えられる。ここで、視点を変えてみよう。
自分を、会社における「経営者」の側、国家における「政府のメンバー」と考えるのである。
こういった人たちは、そもそも、なにが「目的」で日々を生きているのであろうか?
この質問は難しい。というのは、定義がないからだ。
彼らは「自由」に生きている、としか言えない。とにかく、なんでもやっている。
普通に考えるなら、企業の経営者は、その企業を「使って」、お金儲けをしている、と言えるであろう。つまり、その企業をより、お金を儲けさせれば、その経営者は「目的」を果たした、と。
しかしそれは、一般的な話にすぎない。ある経営者は、もっと違った目的を優先しているかもしれない。もしかしたら、その会社を破産させることさえ、なんとも思っていないかもしれない。つまり、自分が経営者であることを維持できなくなることさえ、なんとも思わないかもしれない。
国家もそうである。なにが政府の目的なのかは、実際に政府のメンバーの一人一人がどう振る舞っているのか、にしか答はない。
しかし、もしも「一つ」だけ、彼らに共通する「目的」があるとするなら、それは、

  • 従業員や国民が、「不満」であるために、経営者や政府メンバーの「やりたい」ことが妨げられることを避けたい

ということである。
なぜ、経営者や政府メンバーは、その役割を引き受けたのか。それは、それを引き受けることによって、なんらかの「利益」があったからであろう。ということは、その「利益」を確定するまでは、その役割から下りたい、とは普通は思わないと考えられるわけである。
ところが、従業員や国民が、なんらかの「不満」を訴えたために、彼らのその安定していた役割を追われることになったなら、彼らは「困る」ことだけは間違いなく言えるであろう。
よって、こうである。

  • 従業員や国民を、自分たち経営者や政府メンバーの地位を危うくするような規模で「不満」を抱える人を、なるべく、輩出したくない。

では、これは、どうやったら実現できるか。
経営者や政府メンバーによる、従業員や国民の「マネージメント」つまり、「コントロール」ということになるであろう。

  • 従業員や国民が求めているものを、要求通りに与える。
  • 従業員や国民を、無理矢理強制して、経営者や政府メンバーの求める状態を「維持」させる。
  • 従業員や国民を囲む「環境」を変えることで、彼らを、経営者や政府メンバーの求める方向に「変化」させていく。

一番分かりやすいのが、一番目であろう。もちろん、これができるなら、これが一番いいであろう。従業員や国民の満足度も一番高いであろうから。しかし、問題はいつも、こんなことをできるわけではない、ことである。
ということで、二番目なのであるが、これは、必然的に強力な「抵抗」が予想される。その抵抗を「乗り越えて」もやる価値があると思うなら、やるという手段もあるのであろう。しかし、そもそも、こういった「抵抗」が、わづらわしいから、その代替の手段を考えていたとのだから、あまり、 望んだ結果にならない恐れは大きいと言わざるをえないだろう。
では、三番目についてはどうか。これは、少し、高等テクニックだと言える。
経営者や政府メンバーは、従業員や国民との間に、なんらかの「契約」関係が存在している。つまり、その時点で、従業員や国民は、経営者や政府メンバーが指示する、なんらかの命令には、ある程度の範囲までなら、従おうという意志がある、ということである。
例えば、従業員には、ある店舗のあるオフィスの机に営業時間の間は、坐ってなければならない、といったものである。
そうした場合に、その机に座る場所の環境を、エアコンの温度を少し高めにしておいたとしよう。しかも、手軽に飲める水道もなかった、と。そうすると、従業員たちは、「自然」と、自動販売機で、水を買って飲むことになる。よって、その売上によって経営者は、

  • 給料を払い過ぎた分の元を取れ返せる

わけである。おもしろいのは、この場合、従業員や国民の方にとって、これが

  • 強制

だという自覚があまりないことである。なんとなく変だな、と思うことはあっても、この場合、多くの行動の選択は「自分」で

  • 自己決定

をしているために、深く考えないわけである(このことは、さまざまな、WEBのエントリー画面のデフォルトが、そのサイトの制作側が儲かる設定になっていて、多くの人は、そのデフォルトの設定のまま利用を続けてしまうことと、類似している、と言えるかもしれない)。
もちろん、中には、「なにか変だ」と気付いて、自分で水筒を持ってくる人もあらわれるであろうが、そういう人は、おうおうにして、マジョリティにはならない、というわけである。
この場合、その機能に本質的に作用するものとして、二つあると考えられる。

  • 生理的なもの
  • 文化的なもの

前者は先ほどの例から分かるであろう。おもしろいのが後者である。
中国は今、おそろしいまでの経済成長を、世界で唯一続けている。すでに、GDPでは、世界一の製造業国家になっている。ところが、国民の生活水準は、今だに、世界の貧困国と同列なまでに、貧困層が多い。
中国は、

  • 世界一の富裕国
  • 世界一の貧困国

のこの二つを「両立」させる国、だということである。なに矛盾したことを言ってるんだ、と思ったかもしれない。そうではないのである。この二つは両立するのである。

  • 最も厳しい重税を課す
  • 最も少ない福祉しかやらない

そんなばかな、と思うかもしれない。そんなことをしたら、国民は黙っていないだろう、と。
ところが、この二つが「なぜか」成立するのである。
北朝鮮アメリカは、なめてかかってきた。どうせ、核兵器を作れるわけがない、と。あれほどの国民が飢えに苦しんでいる国が、核兵器など作れるわけがない。いずれ、北朝鮮国民が反乱を起こして、共産党政権は崩壊する。それも近いうちに、と。
ところが、そうならない。
そうならないどころか、北朝鮮は、多くの発展途上国の国々と、国境を結んでいる。特に、アフリカ各国と親密である。
日本のインテリも、欧米のインテリと同じことを言うと「わかってる」扱いされるということで、北朝鮮をバカにしてきた。日本のインテリは、東アジアをバカにしている。そもそも、こんな地域に文化などないとまでに、欧米の言葉ばかり勉強して、欧米の文献しか読めない

  • 文盲

のくせに、欧米の文献を読んでいない日本人を嘲笑し続ける。そして、えらそうに「どうせ北朝鮮はすぐ崩壊する」とばかりに、説教をたれる、というわけだ。
ところがどうだ。いつまでたっても、北朝鮮は崩壊しない。それどころか、世界中の「アメリカや日本など一部」を除いて、多くの国々と、国境を結び、大使館を置きあって、普通に、

  • 経済活動

をしているではないか。
どうして、アメリカや日本は、知りもしない、北朝鮮を「過少評価」するのか。それは、今にも飢えそうな国民がいる国など、すぐにでも滅びる、と

  • 自分たちの裕福さを棚に上げて

思いたいわけである。そうでなければ困る。彼らが「不幸」でなかったら、まるで、自分たちの方が不幸だということになってしまうではないか、と。
だから、なんとしても北朝鮮は「トンデモ」であってもらわないと困るのだ。
しかし、そうであろうか。
北朝鮮は、太平洋戦争後、日本の植民地支配から朝鮮民族を解放した、れっきとした「正当性」のある国家である。国体も、一党独裁をしいてはいるが、少なくとも、専制僭主国家ではない。
また、北朝鮮は、「工業国」である。戦後の国家政策として、日本と同じように、国家主導で工業製品を作り続けてきた。今も軍事部品を作って、アメリカと仲のよくない発展途上国に売って外貨を稼いでいる。
日本人は、北朝鮮が、まさか、高品質な工業製品なんて作れるわけがない、と思いたい。しかし、彼らだって、戦後、ずっと、工業製品を作り続けてきたのだ。日本に負けない品質のものだって、そりゃあ、作るであろう。
北朝鮮が今、国民が飢えて貧しいのは、たんに、アメリカを中心とした周辺国が、経済制裁をしているからにすぎない。つまり、北朝鮮は農業国ではない。日本と同じく、工業製品を輸出して、外貨を稼ぐ国なのであって、国民が飢えるのは、経済制裁によって、外国の食糧を買えないからであろう。つまり、外国から食糧を買えさえすれば、国民の飢えはなくなるにすぎない。そして、その外国の食糧を買うための、商品を作る能力は、この国にはあるわけである。
よく考えてみてほしい。
こういった国は、どうして、体制崩壊するだろうか。
私たちは、なんとしてでも、北朝鮮を「トンデモ」の国だと判断して、彼らを「笑い」たいわけである。なぜなら、彼らを笑えないとなると、

  • 本当は自分たちが「笑われる」ような悲しい人たちということを認めなければならなくなる

からである。相手を軽蔑し続けることによって、私たちは自分の自尊心から自分を守るわけである。
彼らには「自信」がある。それなりの品質の工業製品を作れる自信がある。日本に負けない品質を作れる、と。
そういった国の国民は、そう簡単に、「崩壊」しないのである。
この東アジアを中心とした、韓国、北朝鮮、中国、インド。
こういった国々に共通するのは、長い「文化(=文字書籍)」の蓄積があること。長い「教育」の蓄積があること。そして、そういったものの中から生まれる

  • 国民の高い学習能力

があることである。そして、忘れてはいけないのが、なぜ、彼らが、そういった東アジアにおける「儒教」的な文化活動に、

  • 情熱(=モチベーション)

を傾けられるのか、である。というのは、そういった文化的な示唆が大きいからである。過去の自国の歴史書を見れば、どういった英雄は、どんなことに

  • 誇り

をもって生きていたか。そして、人々は、その英雄と同じように、同じような場面で、誇りをもてる行動をすることに、他人にも自慢できるような、名誉と誇らしさを感じるわけである。
儒教とは、言ってみれば、生まれたばかりの子供や動物を「野蛮」な存在と考えることで、

  • 野蛮な動物

から、

  • 賢者

と呼ばれる、人格者へと人間を高みに至らせる、トレーニングの体系(=歴史学習)を主張し続けてきた、人間活動だったと言えるであろう。つまり、人間は、野蛮なだけの存在から、なぜか、「賢者」と呼ばれるような、誇るべき名誉な知性体へとトレーニングの実践を続けることで

  • 変化

できることを教える社会運動だということである。ここで大事なのは、それが、

  • 家柄

とか

  • 生得的

なものと「まったく」関係ないことである。ただただ、「真面目」に努力して生きている人が、最も「高貴」な人格者になる、

  • なれる

と主張する、どこまでも「科学的」な態度だったわけである。
このことは、どこか、人間は「変われる」ことを強調する面において、ジョン・ロックの、生まれたばかりの「白紙(タブラ・ラサ)」から、教育によって、人間になっていく、という「社会契約」にも共通するような、

  • 文化的慣習の濃密さ

が主張できるであろう。なぜ、北朝鮮の国民は、たとえ、自国の国民が飢えに苦しみながらも、国家転覆を目指さないのか。それは、彼らが、

  • 誇り高く

生きているからである。つまり、国家転覆をするには、国民の同意を得られるような、大義名分がなければならない。もしも、北朝鮮世襲指導者が、

  • 非人格者

であるなら、可能なのだ。しかし、その世襲指導者が、毎月、父親の墓参りを欠かせない、立派な孝行息子であったらどうなるか。
もちろん、国民を飢えさせている時点で、そんな指導者に正当性はない、と言うことは簡単である。しかし、それを言うなら、戦中の日本はなんだったのだ、ということになるであろう。
同じことは、中国にも言える。中国共産党指導部は、今や世界の工場となった、民間部門の製造業で稼いだお金を、ほとんど、国民の福祉に使わない。そうではなく、ことごとく、アフリカなどでの鉱物資源の買い占めに使っている。つまり、どんなに国民の中に、貧困層が存在しようが、中国共産党指導部は、

  • 政府「の」お金を増やす

ことにしか興味がない。今の国民の福利厚生を重要視しない。しかし、たとえそうであっても、なぜか、中国国民は政府に半旗をひるがえさない。
似たようなことは、インドにも言えるであろう。
こういった国々に共通していることは、国民が、

  • 長い伝統と関係した「教養」

をもっていることである。そこから、彼らは「勉強熱心」であり「仕事熱心」であり「我慢強い」。
たとえ、貧しく、飢えをかろうじてしのぐ生活をしていたとしても、

は「高貴」なのである。だからこそ、彼らは飢えや身なりの貧しさよりも

  • 不名誉や人の道に外れる生活慣習

を嫌うし、指導者にもそれを求めるわけである...。