メタ国家

ここのところ、憲法96条の改正問題が話題になっている。なぜこの問題が評判が悪いのか。それは、

  • 国家のルールの「ルール」の改正

を問題にしているから、つまり、

  • メタ国家

の議論だからである。同じことは、一票の格差についても言える。言うまでもなく、一票の格差があまりに開くことについて、日本の裁判所は「違憲」と判断した。つまり、日本においては、一票の重みが、地域ごとに、あまりに離れることは、憲法意志に反すると考えているわけである。
もしも一票の格差があまりに離れた状態で選挙を行ってある政治家が選ばれたなら、その政治家は「違憲政治家」つまり、

  • 政治家ではない

となるのだから、その政治家が行った政治行為、例えば、その政治家の投票によって法律が成立した場合、その法律は

  • 無効

になると考えられるだろう(少なくとも、そういった政治家の一票が成立に決定的に影響しているのなら)。
このことは、大変におもしろい問題を提起している。ある国家とはなにか、と言ったとき、人々は「あるルールによって運営されている組織体」と考えている。しかし、ルールを運営するのも、

  • このルールに縛られる国民

である。では、そのルールに「違反」するルール運営者を「とりしまる」人は誰なのか、ということになるであろう。
言うまでもなく、違法な一票の格差の状態で選挙を行った「政治家」が悪いことは分かるであろう。つまり、さっさと区割りを直して選挙をすればよかった。それをやらない「不作為」が問われているわけだ。最初は、あまりこの問題に関心がないなどで、見逃した場合はあるだろう。しかし、それ以降いろいろな識者から裁判所から指摘されても直さないとなると、もう

  • 問題外

ということにならないか。前の選挙を行った政府のメンバーは全員、牢屋に入れることくらいやらないと、どうも、この問題は改善されないように思われるが、そのことを実現するための「法律」もないし、だれも作ろうとしないのだから、

  • 少なくとも自主的に牢屋に入れてくれとでも言わない限り

牢屋に入れることすらできない、というわけだ。
たとえば、年金記録のずさんな管理が問題にされたとき、厚生省の役人がネコババしていたんじゃないのか、ということが言われた。というか、役人が管理していたのだが、完全な

  • 機械化(=IT化)

がされていなかったこともあり、いくらでも、役人はその記録を改竄できた。だから記録が残っていないのではなくて、厚生省の役人が自分の家の借金を返したいからと、「あえて」記録に残さないで、そのまま、自分の懐に入れていた、ということであろう。
彼らは、どうせ、だれも後から見直さない、彼らにお金を払う頃には、自分は退職していると、こういった不正汚職を繰り返した。
しかし、問題は、そういった行為が、

  • 厚生省の役人「全員」が行っていた場合

なのである。こんな「窃盗」をそのままにしたら、社会の秩序が維持されないであろう。じゃあ、厚生省の役人は「全員」解雇ということになるであろう。しかし、全員解雇して、牢屋に入れたら、厚生省の仕事は一体、誰がやるのか、また、だれが

  • やれるのか?

私たちは「ルール」という言葉を簡単に使う。しかし、そのルールと呼ばれているものが実際になんなのかを考えない。この問題を、しつこく考えたのが、ウィトゲンシュタインである。
ルールは、多くの場合、主語と述語をもった「文」によって構成される。しかし、こういった「文」が意味を生成するとは、何を言っていることになるのであろうか。ある「文」が意味をもつということは、その「文」を受け取る読者が、その「文」を話している作者が、

  • どういった文脈で言おうとしているのか

を斟酌するからである。つまり、ある「文」には、

  • 無限の「条件文」

が、実は隠れて「添付」されているのである。つまり、本来はこの無限の条件文があって始めて成立している「文」であるのに、その可否の判定を無視して主張を始めるから、おかしなことになってしまう。
私たちは「憲法の意志」を実現するために生きている。もちろん、そう言うと、おれはそんなことはないと言う人がでてくるであろうが、そういう人であっても、法律に違反すれば、牢屋に入れられるのだから、それを避けて生きていると解釈するなら、

  • それが国民の定義

と言うことは可能だ、ということである(これは、どこか、ドーキンスの利己的遺伝子のような話で、人を個人としてみる場合と、「集団」の動きを中心にして、そこに「所属」するメンバーの動態を「説明」する場合の差のようなもので、ルソーの一般意志のようなものは、どちらかといえば、後者の話をしているとも考えられるわけだ)。
そしてこの憲法が行っていることを一言で言えば、

  • 国民は法律を作って、その法律を守ることで秩序を維持しろ

ということになるであろう。では、憲法96条の改正は、何が問題なのか。
それは、この憲法

  • 国民は法律を作って、その法律を守ることで秩序を維持しろ

と「命令」している「部分」の、

  • 加減

の「変更」を目指すものだからである。つまり、ここは非常に重要なポイントで、私はすぐ「上」で、今の憲法は、

  • 国民は法律を作って、その法律を守ることで秩序を維持しろ

と命令している、と書いたが、もしも、このルール自体が、

  • ころころ

と、毎月のように変わったら、どうなるであろうか?
それは「憲法」なのだろうか?
先ほとから言っているように、国家とは、ある「ルール」のことである。ところが、その「ルール」が毎月のように変わるのである。しまいには、その憲法には、

  • 国民は法律を作って、その法律を守ることで秩序を維持しろ

と「すら書かれなくなる」ことさえ、ありうるであろう。ナチスのように、ヒットラーだけに「主権」があるのであって、ヒットラーの言うことには従わなければならない、とだけ書かれた「憲法」になるかもしれない。そして、もし、そんな「憲法」に一度でもなったら、どうやってそこから、

  • 国民は法律を作って、その法律を守ることで秩序を維持しろ

を主張する憲法に「戻れる」のでしょうかね?
憲法96条を改正するということは、国家の「正当性」の基盤を、

  • 流動的

にすることを意味する。つまり、憲法の「意味」を変えるわけである。これ以降、憲法

  • 毎月のように「コロコロ」と内容が全面入れ替えされる

ものになるということを意味し、その頃には、すでに憲法が、

  • 国民は法律を作って、その法律を守ることで秩序を維持しろ

を主張するものでもなくなっているかもしれない、つまり、まったく違う

  • ゲーム

を始めることを意味する。
私たちは、少なくとも今は、憲法が命令して作られている法律は守らなければならないと思っている。それは、少なくとも、そういった法律には、それなりの「権威」があると思っているからである。ところが、憲法

  • 毎月のように「コロコロ」と内容が全面入れ替えされる

ような、

  • 時代

になったとき、はたして、私たちは、その憲法をそれ以前の「憲法」という言葉と

  • 同じ意味で使っている

と考えることができるであろうか? おそらく、

  • 毎月のように「コロコロ」と内容が全面入れ替えされる

ようになったら、まったくもって、その内容に「権威」を感じなくなるであろう。子どものしつけにも使えないだろう。毎月言うことが変わる説教を真面目に聞くわけがない。
そもそも、戦後以降、憲法改正を行った国はアメリカやドイツなど多くあるであろうが、「憲法改正のルール」を

  • 破壊

した国家というのは、あるのだろうか?
まあ、自民党日本維新の会のような、国民から国民主権を奪い、明治憲法のような王権神授説の復活を目指し、戦後の日本が積み重ねてきた、主権在民の秩序を破壊して、国民奴隷制を目指す人たちが、その「目的」を実現する、その前に、

  • この国の秩序を破壊する

ことを最初に実現させようというのは、彼らからすれば「当然」なんでしょ orz。
だって、彼らは戦後のこの国が嫌いなんですから。
嫌いなら、まず、「破壊」って思うんでしょ。嫌だから壊すんだって orz...。