科学者は本当のことを「言う」のか?

私がインターネットを見て嫌になったのは、311の次の年の夏に、電気が足りなくなるという理由で、関西電力が、大飯原発の再稼働を要請していたのに対し、多くのエア御用的な人たちが、電力会社の主張の側で、電力会社を擁護してた頃からであろうか。
飯田哲也さんなど、市民運動の側が、各電力会社同士で電気の融通をすれば、かなりの余裕があったことを主張していて、事実、その折衝の場で、電力会社自身が、その主張を

  • 認めていた

わけで、そういうわけで、もうすでに論点はそこになかったことは、その場では合意されていて、じゃあどうしようか、と建設的な話し合いが行われていたはずのに(こういった内容のことは雑誌「世界」などで記事になっていた)、なぜかネット上のエア御用たちは、その論点を無視し続けて、その後も、政府や関電の主張を無批判にオウムのように口パクで繰り返し、「電気が足りなくなってもいいのか」と、国民を脅し続けていた。
事実、当時の野田元首相が大飯原発再稼働の会見の時に言っていたことは、どちらかというと、中東状勢が悪化した場合に石油が入ってこなくなったらどうするのか(そもそも、そんなになったら、電気だけでなく日本のあらゆる産業がストップするのだが orz)という、かなり、今の現実の世界政治の状勢からは、どう考えても緊急の課題とは聞こえないことを言って、国民を

  • 脅す

方が中心になっていたわけである orz。
私はその頃から、どうも変だな、と思い始めた。
特に私が気になるのが、いわゆる、政治と純粋に科学的な知識を、ほとんど区別せずに語る人たちのそのデリカシーのなさ、においてであった。
なにか変な気がしてきた。
例えば、上記の例にしても、そもそも自分がどういった理由であれ(自分の左翼嫌いのアイデンティティが「動機」だろうと)、どんな理由であれ、原発再稼働をさせたくてさせたくて、しょうがない人は、そもそも、上記のような、議論の推移によって、もしかしたら原発再稼働が避けられたのかもしれない、なんていう

  • 事実

におそらく耐えられないのではないだろうか。科学的に合理的に、原発再稼働を避けられたのかどうなのかの「科学的事実」に

  • 関係なく

原発の再稼働に反対する連中が「イデオロギー的に嫌い」な人たちが、なんにせよ政治的に、こういった科学的に純粋にどっちだったのかの事実などどうでもよく、

  • 原発再稼働に「有利」になる「行動」だったら、作為でだろうと(不作為だろうと)、なんだってやってやる(なんだってやらないでやる)

という人が多くいたのではないだろうか(こういった態度を、投資家の世界ではポジション・トークというらしい)。
カール・シュミットが政治の本質を「友敵理論」だと言ったということは、政治の場においては、科学者は科学を

  • 政治に利用する

ということである。つまり、シュミットが分析したように、科学者を

  • 友達と敵

に「分断する」ということになる。
たとえば、これも videonews.com で紹介されているが、福島県郡山市の住民が子供たちの集団疎開を訴えて裁判を行ったら、「子供たちへの重大な健康への損害が疑われる」としながら、なぜか、その結論は、住民は政府に集団疎開を求める権利を認められない、という結果になっている。
さまざまな健康上の問題の可能性を認めながら、じゃあ、その後何をすべきという段階になって、政府は、とにかく子供の疎開を政府主導で行うことだけは、かたくなに認めない、ということらしい。
つまり、私が言いたいのは、住民が求めている、ということであろう。それを政府が断っているわけで、だとするなら、考えるべきは、その住民の要求の妥当性であろう。いいではないか。多少、税金がかかろうが、政府がやればいいではないか。なぜ断るのか。裁判所は認めないのか。
つまり、私が理解できないのは、なぜ、科学者全員で、住民の集団避難の政府の援助を「求めない」のか? だって、住民が求めているんですよ? そして少なからず、立ち入り制限とか、地元で採れる食材の流通制限を行っているわけでしょう。いいじゃないですか?
なぜ、諸手をあげて援助しないのだろうか?
むしろ、彼らの方こそ、本当に地元の人たちのことを考えているのかが、疑わしいわけである。
もちろん、彼らに直接そんなことを言ったら怒りだすであろう。俺は共感してるんだ、と。しかし、人がなにを言っているかではなく、なにを考えているのかは、死んでも分からないですからね。私たちは、結局は、態度で判断するしかないであろう。
リスク比較の話もそうだ。
たしかに、中西準子の「リスク論」が言うように、たとえ、低濃度放射性物質には発がん性のリスクがあるとしても、もしも、すでに、老後を過ぎた人たちであるなら、今のリスクによるガンが発現する頃には、寿命を過ぎているかもしれないわけで、だとするなら、彼らをそんなに無理して、移住させる必要はなかったのかもしれない。そういう意味では、避難地域を、そういった高齢の方たちが、どうしても移動しなければならない、とする必要は私はなかったように思われるし、彼らは、地元の汚染された食材を食べることを選択してもよかったと思う。
しかし、そのことと、一般に言われる(特に、池田信夫がさかんに吹聴していた)、自動車事故のリスクや、石炭火力による空気汚染や、過去の中国の原爆実験のリスクなど、他のリスクと

  • 比較

することをまるで「自明」であるかのように語っていたのは、非常に不思議な姿であった。というのは、そもそも、中西準子の「リスク論」は、最終的には、

  • QOL(クオリティ・オブ・ライフ)

に行きつくものだったからである。上記の例がおかしいのは、なんで、私たちは、平均寿命が長く伸びればいい、と

  • 考えなければならない

のか、ということなのである。どんなに寿命が伸びようがなんだろうが、嫌な思いをして生きるなら、「つらい」わけである。動物虐待されて、無理矢理、嫌なものを食わされて、長生きすれば「幸せ」って、どこまで、傲慢なんだ、ということであろう。
私たちは、どう生きれば、自分を「幸せ」と感じるのか。
中西準子が本に書いていたように、この「リスク比較」は、そもそも、難しいのである。それは、人それぞれ、価値観が違うからである。
リスクとは、そもそも「確率論」の話である。ということは、

  • 確率空間

を、どう設定するのか、を決して避けて話すことはできないわけであろう。
(このように考えたとき、明らかに、池田信夫は、中西準子のQOL論を避けて議論をしている。まあ、この人については、専門の経済学にしても、まともに扱っている人っていないでしょう。安冨さんの本にもあるように、もう、一つ一つのポジション・トークを指摘するって段階じゃないでしょうけどね、そのばかばかしさにおいて orz)。
今週の videonews.com の和歌山カレー事件の話は、非常に驚くべき内容であた。というのは、当時の最先端の機械を使って「証明」されたと思っていたことが、まったく、違っていたことが、今ごろになって指摘されているから、である。
私は、そもそも、こんな話を聞いたことがない。
98年の当時の最新鋭の機械「Spring-8」で鑑定をした中井という科学者は、それは「裁判所の見解」だと言ったという。
は?
なに言ってんの? それがおかしいことに気付けるのは、あんただけだったんじゃないの?
これ以降、この時の判決の「功績」によって、この「Spring-8」なるものに、膨大な予算がついてるらしい。
これが、科学者である。
科学者は自分の予算さえつけばいい。あとは、なんとでもポジショントークをするわけである。
大事なことは、科学者に研究のための予算をくれているのは、誰なのか、ということである。予算をくれ、権限をくれている人が、ある政治的利害をもっているなら、

  • 絶対

にそういう人たちに迷惑になることを「言えない」のである。
彼らは、そういう意味で、国民の質問に答えない。それは「クレーム」に答えない、ということである。もしそれが、科学論文であったなら、正規のルートから来た質問に答えざるをえないでしょう。というから、それに答えないことが、その論文のリジェクトの理由になるから(つまり、彼らの言うことは、論文に書いていないこと、というわけである orz)。
つまり、ポジション・トーカーの科学者は、

  • 言いたくないことを言わない

人たちなのである。常に都合のいいことしか言わない。
なんらかの化学物質の研究をしている人は、その発明した化学物質が市場で価値あるものとして流通するようになれば、自分の研究の価値が高まる。とろが、その物質の「危険」性が、疑われた途端、その化学物質は流通できなくなる。そこから、彼らは、

  • 法律で禁止されていないじゃないか

と主張を始める。そりゃそうである。その物質は今、そいつによって発明されたのだから。
さて。
今も、福島第一の事故処理は、迷走を続けている。IAEAは、東電の事故処理にダメ出しをしていたが、なぜ、東電は、水による循環に、ここまで、こだわってきたのだろうか。
私は、ここには、東電が、そもそも、

  • それしか知らない

というのが大きいんじゃないか、という疑いをもっている。つまり、東電は、ずっと、原発を「コントロール」する手段として、水による制御を行ってきた。つまり、彼らがもっているノウハウは、その水しかない、ということなのではないか。
だから、彼らは水で原発をコントロールしている限り「安心」なのではないか。つまり、「いつもやっていること」だから。
しかし、言うまでもなく、この水循環という「つけやきば」は、どう考えても、うまくいっていない。つまり、そもそも、こういった事故の対応として、水循環は正しいのか。
それ自体を疑う段階に来ているのではないのか。
このまま続けば、どんどん、高濃度の放射性物質を含んだ水が、タンクにたまり続けるわけであろう。そんなことを、本当に、続けるべきなのか。
そろそろ、東電が本当に事故処理を行えるような「当事者能力」があるのかを、真剣に考える時期なのではないだろうか。たんに、原発を「機械」として動かすことが仕事であるだけの、

  • オペレーター

会社でしかない東電が、どうして、事故を起こしたプラントの「コントロール」まで行える能力があると考えるのだろうか。
つまり、なぜ、ここまで東電が一社で「囲い込ん」で、対応してきたのか。それが、電源三法によって、事故の一切の「責任」を、電力会社に

  • すべて

押し付けている法律の「建前」だからなわけであろう。もし、東電には「無理」だということになると、この法律の建前が崩れてしまう。電力会社に、原発の事故処理が無理だとなると、じゃあ、そんな危険なものを使うことを許している

が本来、責任を問われなけばならないのに、それを免れている、「タブー」になっているのか、という話に、どうしてもならざるをえなくなる。
つまり、絶対に「製造物責任」の問題に行きつかざるをえなくなる。
いや。むしろ、そこまで行って始めて、人々が、

  • 原発を続けるのか。それとも、止めるのか。

を真剣に考え始めるわけであろう。
私が最も、今の科学者の主張に疑わしさを感じるものが、彼らの放射性物質の影響の「遺伝」されていく可能性に対する説明の態度である。
池田信夫が繰り返す主張に、その可能性を主張すること自体が「差別」だというものがある。
非常に重要なポイントとして、「政治」として、そもそも

  • 差別を正当化する発言を政治的パブリックの場においてやることは制限されうる

という主張は、だれも否定できないであろう。これは、国民主権の重要なポイントであって、どんな人にも、一定の「主権」がある。だから、彼らを、

的な理由によって差別することは認められない。
しかし、そのことと、科学的にどういった仮説を考えるか、を区別することは重要であろう。
つまり、池田信夫放射性物質が人間の「遺伝」に影響しない、というのも、一つの「仮説」なわけであろう。
つまり、彼は二つのことを「ごちゃまぜ」にすることによって、放射性物質の人間の遺伝的影響について研究することを

  • タブー

にしようとしているわけである。
たとえば、この程度の、低濃度の放射性物質に、ほとんど影響がない、としよう。しかし、そのことが、福島県の今の、セシウムが拡散された生態系で、どんな微生物でも起きていない現象かは、また、別の話であろう。
もし、低濃度の放射性物質が、まったく、生物の生態系に影響がないなら、彼らには「この程度」の放射性物質を含有した製品を市場に流通させることの

  • 正当化

が市民から得られるわけである。このことは、彼らが研究している、あらゆる化学物質について言えることで、つまりは、彼らの

  • 死活問題

だということなのである。
それでは、最後に、最初に述べた早野論文について考えてみよう。
私には、逆にこの論文は

  • 恐ろしく

思えた。というのは、チェルノブイリにおいては、だいたい、土地のセシウムの濃度と、住民の被曝量に「一定の関係」があったから、である。つまり、なぜか、今回、この日本においては、その関係が見られなかったのである。
大事なポイントは、今までのチェルノブイリの知見からは、ここに、一定の相関関係が見られることが

  • 常識

だったのである。それが、今回、まったく見られなかった、ということである。つまり、チェルノブイリより「比較的」いいのであれば、ああ、今の状況は少しは楽観視できるのかな、とも思うのだが、そもそも、チェルノブイリ法則があてはまらなかった、ということであろう。ということは、普通に考えれば、「なにかがおかしい」と思うであろう。
つまり、大事なことは、上記の法則がなぜか今回見られない、その「理由」なのである。
つまり、逆なのだ。「なにかをチェルノブイリの状態に戻した」途端に、福島もチェルノブイリにかなり近づくのではないか、という

  • 仮説

が成り立つ、ということである。

ものを売り歩く行商人たちは、三世紀以上も前からサンパウロ都心部の遺伝子の一部となってきた。一七〇〇年代には、この主要都市の細い路地で行商人らが農産物や日用品を売り、農民たちは野菜を売る即席の屋台を町の内外の橋の上に設けた。しかしダウンタウンがオフィス街へと発展していくにつれ、このフリーマーケットのような状況は高級商業地区にはふさわしくないと、不動産業者たちは考えた。そこで警備員を雇って露天商らを追い払った。多くの商人たちにとって、最も手近な移動先はマンドゥアテイ川へ向かう急傾斜の一つを下りたところだった。中東からの移民たちがすでに店舗を構えていた場所である。そのマーケットはベイルートの古き常設市を思い起こさせ、路上の商いは日常茶飯事だっただけに、新参者の行商人らもすんなり溶け込めた。三月二五日を紀年する名のついた通りに、非合法のマーケットが出現したのは偶然の皮肉というものだ。一八二四年三月二五日は、皇帝ドン・ペドロ一世[ポルトガル王家の出身で、ポルトガルからブラジルを独立さえて初代皇帝に就任。在位一八二二--三一年]がブラジル初の憲法を公布した日だ。つまり、法の埒外にある商取引の世界になっているのだ。一〇〇年以上を経た今日でも、ストリートマーケットの存在を認める法令などない。そしてここでビジネスをしている大部分の商人たちは、営業許可を持たず、商業登記もしていなければ法人化もせず、税金も納めていないのである。

「見えない」巨大経済圏―システムDが世界を動かす

「見えない」巨大経済圏―システムDが世界を動かす

上記は、ブラジルの例であるが、こういったことは、世界中にある、というだけでなく、

  • 世界中の「ほとんど」の取引

が実は、こういったフリーマーケット的な、市民が主役の商取引なわけである。
田舎に住んでいて、ある程度、地元に馴染んだ人たちが、まず遭遇するのは、地元のおばあちゃんなどが、家の畑で採れた野菜をリアカーをひっぱって、売りに来てくれる場面であろう。そうして、顔馴染になると、しょっちゅう来てくれるようになって、安いし、あるものは、なるべく、ここで買おうか、ということになる。
こういったことは、田舎では実に見慣れた光景である。お金入れの箱と一緒に、棚に無防備に野菜が並べてあるだけの野菜売り場を、田舎を歩いたことのある人なら見たことがあるであろう。
私が上記の早野論文を見たとき考えたのは、福島の、こういった、おばあちゃんとか、今、なにをしているのかな、ということであった。
早野論文が何を言っているのか。まず、この結果は、いわゆる正規の市場に流通している、スーパーなどで売っている食品が、放射性物質がほとんどない、ということと

  • 同値とは限らない

ということであろう。なぜなら、子供のいる家庭などは、なるべく「福島産と表示のある食品を買わなかった」可能性があるからである。つまり、忌避したんじゃないか、と。つまり、彼らは非常に

  • 努力

をしたのである。これが、決定的に福島とチェルノブイリと違うところなわけである。
つぎに、上記のような、地元のおばあちゃんが、家の裏で採れた野菜を

  • 買わなかった

ということである。つまり、福島における、フリーマーケット的な市場が、

  • 壊滅

した、ということを意味している、ということである。
私は、なにか「気持ち悪さ」を感じる。
福島県は、むしろ、福島第一という「リスク」を抱え込んだことによって、福島県に、「国家主義者」を引き寄せているんじゃないのか、という疑いを感じている。
福島は、リスクを抱え込んだ。つまり、

  • 国家の出番

なわけである。国家主義者が生き生きしているわけである。福島県は危険だから、国家が管理をしなければならないわけである。当然、上記のようなフリーマーケットは「禁止」である。国家が管理していないから。そういう意味では、今の福島は、

みたいになっているとも言えるであろう。市場の正規の流通ルートを通らない商品の市民間の取引を「禁止」できると、いわゆる、政治のスーパーマーケットのような所は、

  • 儲かる

わけである。ということは、そういった大企業の技術と関係のある科学者たちの「利益相反」にもかなう、ということになるのであろう orz。
京大の小出さんは前から、結局は、地元の食品を年寄りが食べるしかない、と言っていたが、いい加減、この問題をタブーにするのではなく、真剣に考えるべき時期なのかもしれない...。