高橋秀実『男は邪魔!』

著者は、多くの人へのインタビューを続ける中で、男性にインタビューすることの虚しさを感じる。なぜなら、男性が言うことは、ようするに「知識」だからだ。つまり、知識なら、別に聞かなくても、調べれば分かるからだ。
男性たちは、例えば、会社の中での自分の「役割」や「立場」を話す。しかし、だとすると、日本中の男性の話すことは「同じ」だと言えないこともない。つまり、それは業界によっての「差異」くらいはあるだろうが、ようするに、それくらいということであって、その構造は、変わらないということである。

例えば「暴言」とは、食事をつくって出す夫が、「またこれを買ってきた」「これは誰が好きなの?」(平成23年1月9日)などと小言を言う。別の夫は、ある日突然付き合っている女性がいることを告白して、「このまま平凡な人生で終わったら後悔する」(平成23年2月7日)などと言い放つ。専業主婦の妻が平日に出かけると「俺の金で豪遊しやがって」(平成23年6月22日)と罵倒して「仕事を手伝え」と命じ、そうかと思うと「お前がいなくてもできる」「俺はお前みたいな能なしじゃない」と侮辱する。妻がベッドに誘うと「夫婦の関係は体だけじゃない。動物はそれだけだが、人間にはほかにもできることがあるはずだ」(平成23年1月20日)と説教を始める...。まさに男の口は禍の元のようで、黙っていればよいものをと思うが、一方でまったくしゃべらないという夫もいる。一日中パソコンとビデオばかり見て自室にこもり、妻が会話を求めると「会話は食事のときにすればいいんだ」(平成23年7月21日)と宣言したりする。不満を告げると逆ギレするというのが無口夫の行動パターンらしく、「お前は何が気にくわないんだ!」「イライラさせるな!」(平成23年1月30日)と暴力をふるったり、中には、「俺は変わらない。誰の言うことも聞かない」(平成23年5月15日)と開き直り、その勢いで「早く別れてほしい」といきなり離婚を切り出したりするそうなのである。

こういったことを考えるとき、私が言いたいのは、そもそも、女性にとって、男性が必要というのが、もしも、社会の福祉の充実によって自明でなくなったときに、その意味はずっと違ったものになるのではないか、ということとも言えるであろう。
たとえば、もしも、女性が魅力的に感じる男性が、世界に数えるほどしかいないとして、それならそれで、そういったエリート男性を「シェア」するような関係だってありうるわけであろう。
つまり、ほとんどの男性が、女性から「無関心」な対象となったとしても、それはそれでしょうがないんじゃないか、と。
つまり、なにが言いたいかというと、女性だって、一人の明確な意志をもつ人間だということである。彼女たちだって同じように、過去からの慣習を生き、自らの、判断において生きている。もちろん、そういった女性の中で、特定の男性を必要とする人が多数を占めていること自体が問題なのではなくて、逆に、そういった男性を必要としなくなる女性が、一人で生き始める「割合」が増えていくことは、現在の福祉社会の理想の実現を考えたときには、現実に認めていくべき話なんじゃないのか、ということなのである。
男性がそうであるように、女性一人一人も自らのオートノミーを生きている。
そのような意味で、次の掲題の著者の妻の行動を概説した部分は、変わった話で、おもしろいかもしれない。

私の言葉を無視するように、彼女は続けた。
「お皿は平たく大きいものから下に置いてピラミッド状に重ねる。こうすれば安定するし、洗剤の泡が自然に下におりて、全体にまわる。細い水で上から洗い、泡がついたまま別の所に一つひとつ積んでいく。逆三角形になっちゃうので二等分して。それを元の位置に戻して上から水ですすぎ洗い。こうすれば洗剤もそんなに使わなくていいし、水道代の節約にもなる。そのためにも食器は下げた時に整えておかなければいけないのよ」
彼女は整えてから洗う。私は洗ってから整えるということで、発想が逆であることに今更ながら私は気がついたのである。
「あなたは一発勝負。横着。だから食器を割る」
老化のせいか、このところ私は立て続けに皿を2枚割っていた。
「私が選びに選び抜いた選りすぐりのお皿をあなたは割る。私は洗う時のことも考えてお皿を買っているのよ。お皿の裏側に環状の突起があるでしょ。『高台畳付』っていうんだけど、持った時にそこに指の関節が自然に引っ掛かるものを選んでいる。力を入れずにすっとフックできるか」
----えーっ!
私は再び驚いた。「機能美」という話は聞いていたが、洗う機能まで考えて整えていたとは知らなかったのである。実際に試してみると、彼女が買った皿はどれも手にぴったり張りつくようだった。
「あなたは対象物が整っていない。だから所作も見苦しいのよ」
あらためて考えるに、私は目に入ったものからランダムに洗っている。いうなれば手当たり次第に洗っているので、動きも乱雑になってしまうらしい。
「私が整えたものをあなたは次々と崩していく。私が整えては崩し、整えては崩し。せっかく舗装した道を破壊しているようなもの。勘弁しろや」
要するに彼女の邪魔をしているわけで、これは大変申し訳ないことである。

何事も「常に整えてからやる」ということ。しかし常に整えるとなると、やりながらも整えなくてはならなくなり、整えることに追われてしまうのではないだろうか。
----なんで常に?
「常に誰かに見られているから」
彼女は即答した。
----見られているだろうか...。
私はまわりを見回しながらつぶやいた。そもそも家の中は見られていないからリラックスできるのではないだろうか。
「実際に見られているわけじゃない。見られている感覚があるのよ」
----例えば、誰に?
「母に」
聞けば、彼女の母親は躾が厳しかったという。米を研ぐにしても米粒を一粒でもこぼすと「農家の人に謝りなさい」と叱られたそうだ。「日常生活がきちんとできないようでは勉強ができてもしかたがない」というのがモットーで、妻は幼少期から家の手伝いと勉強を両立させていたという。家のしきたりを守るというより、どこに嫁いでも間に合うように、つまり汎用性のある立ち居振る舞いを教えられたらしく、彼女は「母の期待に完璧に応えた」。母は15年前にこの世を去ったが、今もその期待に応えるべき日々を過ごしているのである。

彼女は自分が快楽だと思うように生きている。そういう意味で、この掲題の著者の夫に、彼女はいらだつ。「邪魔」なわけである。
そして、その女性が男性を「邪魔」だと思うとき、それは「耐える」問題ではない、ということなのだ。むしろ、

  • ストレス発散

こそ、「正しい」態度だということになる。
そもそも、男性というのはどこまで、必要なのだろうか。今後、社会はよりコンピュータやロボットが人間の仕事を奪うようになるにつれて、仕事人間のサラリーマン・アイデンティティ男たちの、

  • 仕事ができることを自慢する

そして、ちょっと世渡りがうまくない純朴な人を嘲笑するいけすかない彼らの能力が「不要」になったとき、彼らは、はたしてなにで自分のアイデンティティをなぐさめるのだろう。
そういう意味でも、これだけ文明が進化した現在において、それほどの数の男性が必要とされ続けるのかは、考えさせられる問題なのかもしれない。

家畜繁殖学を研究している市川茂孝さんは牛を人間に置き換えて試算していた。

二〇歳代の男子は一回に平均五億の精子を射精する。週に二回採取すると、一年間に五二〇億採れる。一回の授精に、一億使用するとして、五二〇回分になる。排卵期の婦人に二回授精すれば少なくとも六〇%が妊娠すると予想されるので、一人の男子は一年間に一五六人の婦人を妊娠させることができる。一年間の赤ちゃんの出生数は約百五〇万であるから、優秀な青年一万人で需要を満たすことができる。一人が二〇歳代の一〇年間を繁殖に奉仕するとすれば、同年齢の男子約六〇万人の中から優秀な青年を一〇〇〇人だけ選抜すればよい。(市川茂孝著『背徳の生命操作』農山漁村文化協会 昭和62年)

日本の現在の人口を維持するには、男は1000人で事足りる。それ以外は「しょうはないよね」と廃棄処分されてもおかしくないのである。

おそらく、女性が未来においても不要になることはないのだろう。しかし、男性はどうか? アニメ「輪るピングドラム」ではないが、人間の

において、男は、どこまで必要とされるのだろうか。このアニメにおける、主人公の二人の男の子と一人の女の子は、親を失い、社会システムから逃走し、三人で子供たちだけで共同生活を始める。誰にも必要とされない、社会にとっての

  • 透明

な存在として。まさに、彼ら3人のように、多くの男性は、現代という成熟社会において、だれからもその存在を求められて生きていない。そういう意味では、彼らこそ「透明」な存在なのであって、90年代以降のサブカルが共有していた問題意識だったのではないか。
たとえば、そういう文脈で考えるなら、上記の引用の、現在の牛という動物の「家畜」としての戦略が、実際、ほとんどの雄を必要としていないことが、そのことを示唆しているとも考えられる、というわけでなのである。

「問題は生殖リスクです。生殖リスクは圧倒的に女性のほうが高いんです。出産は命懸けですし、生まれてきた子供を自分の血液、つまり母乳で育てるわけですから。妊娠して3年間はありとあらゆる危険にさらされるわけですからね」
----そうですね。
「ところが男性のほうは、理論上は3分で済む」
----3分?
射精ということか。
「しかも、大抵の場合、命に別状はないですし。ですから、つがう相手を選ぶフェロモンセンサーの精度も女性のほうが著しく高いんです。100人にひとり、あるいは1万人にひとりを選ぶくらい。例えば、若い女性が100人とハグするとするでしょう。たとえ全員がイケメンであっても90人に対しては気持ち悪いと思うはず。快不快がはっきりしている。すごーく好きとすごーく嫌いという振れ幅が広いんです。だから『運命の人』と行ったりするんです。本能レベルで確信する。確信が深いんです」
----男のほうは...。
「男性は本能の領域では確信がない。確信が持てない。もともと脳にそういう機能がないんです。腹の底から『あないかいない』とは思えない」
私が「そうなんでしょうか」とつぶやくと、彼女はきっぱりと否定した。
「思ったとしてもそれはあくまで想念です。恋をするにしても想念的な恋なんです」
「思ったとしてもそれはあくまで想念です。恋をするにしても想念的な恋なんです」
左脳で、理屈で恋するということなのだろうか。それを考えるのも左脳なので、答えが出ても左脳の答えでしかない。
----でも、発情はするわけですよね。
自らを省みれば、男も発情する。そして発情する相手とそうでない相手がいる。
「男性の発情は女性につられるんです」

そもそも、福祉とは「誰の」福祉なのだろうか? 近代の福祉システムは、それは徹底して個人に対してであった。そのことは、国民主権とも関係している。主権者としての個人が、飢えて死のうとしているなら、その人自身の主権を行使するということの意味がわからなくなるであろう。これが福祉である。
ところが、そういった延長において、先進国の多くは、のきなみ少子化に悩まされるようになる。もちろん、周辺の発展途上国においては、まだ、人口増加の方が問題と意識されているわけで、両者を合わせれば、とんとんじゃないか、と思うかもしれない。
しかし、そのことは、なにか根本的な問題の解決にはなっていない印象をぬぐえない。というのは、いずれ、発展途上国も、先進国になるからだ。それは、世界的な福祉の充実が避けられないと考えるなら、当然、世界中の国々が十分な福祉を国民に提供する形になっていくことは、避けられないと思うからである。だとするなら、当然、世界中の国々が

にいずれはなっていく、と思われるわけである。
なぜ、少子化になるのか。それは、生まれてくる「前」の子供には、福祉が「ない」からである。つまり、子供が産まれることのモチベーションが社会にはないのである。つまり、それが国民主権だということであろう。私たちが国民主権というとき、その国民の中には、産まれる「前」の子供は入っていない。つまり、

  • 未来の人間の人権は、過去において保証「されていない」

ということである。例えば、非常に高齢の老人がいたとし、その老人にとって、自分があと何年か生きる「人権」には関心があるが、まだ、産まれてもいない子供が「産まれるべき」と考え、その未来の子供のために、寄付をしようとか、そういったモチベーションをもてるだろうか、というような話になってくるわけである。
たとえば、こういった問題を、国家主義、つまり、パターナリズムによって解決していこうという方向は肯定しうるであろうか。国家は国民を必要とする。ところが、国民は子供を産まない。それは、「自分」の「福祉」と、

  • 自分ではない他人

である「自分の子供」が、ひとたび「福祉」という関係において考えたときに、「繋がらない」からである。
このように考えてきたとき、たとえば、福祉の単位を、個人ではなく、家族や親子や夫婦のような「関係」に与える、という発想が生まれないだろうか。しかし、このことは、ある意味、国民主権

  • 否定

とも聞こえるわけである。つまり、なぜ国民は子供を産まなければならないのか。それは、

  • 国家を維持「させる」ため

ということになるであろう。ということは、

  • 国家が維持させるレベルで「国民」を「生産」すればいいんだね

という一種の「パターナリズム」になる。
国家主義者は、そもそも、国民など、どうでもいい。国家さえ維持できれば。国民とは、そのための手段なのであって、その範囲で、国民を「強制」するわけである。
しかし、そもそも国家をなぜ維持しなければならないのか。その理由は、多くの場合、不明である。ルソーの一般意志によって、社会契約があるからといって、なぜ、それを維持しなければならないのか。面倒くさかったら、今すぐ、国家の維持など、やめてしまえばいい。それは、アナーキーを求めるということではなくて、いくらでも、

  • 流動的

な社会組織の形成を許すことには、合理性がある、ということである。
東アジアにおいては、儒教はなぜか、土着の信仰と結びつき、日本では、お盆の習慣や、正月などの行事とも関係が深くなる。その流れで、先祖崇拝と素朴な血族間の「共同体」を、自明の前提として、社会組織を形成してきた。
こういった儒教的な信仰には、どこか、上記のエリート国家における、ほとんどの「無用」な男性を、

  • 透明

な存在にしていく、社会的な動きに対して、一定の歯止めを与える効果があるとは言えなだろうか。
一見すると反語的に聞こえるかもしれない。アニメ「輪るピングドラム」における、主人公の三人の血の繋がりのない、両親のいない、

  • 兄弟

は、たしかに、彼ら「だけ」の「共同体」を作らずにはいられなかった。しかしそれは、逆に言えば、多くの人たちがなぜ、彼らのように、

  • 疑似的な共同体を作ることを強いられていないのか

が、そのもの、儒教的な土俗的祖先信仰を、日本人を始めとした、東アジアの人々が生きているから、ということを意味するのだろう。
(上記における、掲題の著者の妻が、彼女の「母親」を常に意識して生きていることと、彼女が自分の夫と夫婦生活を続けていることは無関係ではない。)

妻をはじめ、私たちは様々な分野でご活躍の女性たちにお話をうかがいました。自分たちがダメであることを事前に表明しているせいか、皆さんからは忌憚なきご意見を聞かせていただきました。いずれも身に沁みるご指摘ばかりだったのですが、聞いているうちに私はこう感じました。
怒る女性は美しい。
と。怒っている時の女性は美しい。たとえ怒っていなくても、怒るべき時に怒っている女性は美しい。つまりニコニコしていても「ああ、この人は怒るだろうな」と感じさせる女性は美しいと思うのです。考えてみればダメな男を相手にしているわけですから怒って当然。怒るということはちゃんと相手にしてくれているということなのです。

なぜ、怒る女性は美しいのか。それは、怒るということが

  • 無関心では「ない」

ということを意味するからである。つまり、怒られることこそが男性のレゾンデートルであり、「快楽」だということになるであろう。現代という無関心社会において、そもそも、無関心でない態度が「存在」すること「そのもの」が

  • めずらしい

わけである。それは貴重な「天然記念物」なのであって、もっと言えば、社会は女性の管理職を求めている、とも言えるのかもしれない。
このことを今期のアニメで考えてみるなら、アニメ「翠星のガルガンティア」の、船団長の補佐のリジットは、べつに怒ってはいない。しかし、上記の引用にもあるように、怒っていないことが「怒るだろうなと感じさせる」ことと矛盾しているわけではない。
アニメ「フォトカノ」において、主人公の前田一也(まえだかずや)は、カメラに目覚める。ある日。自分がカメラをいつも持ち歩き、レンズを覗くようになってから、

  • 世界が変わった

と思うようになる。近年の電子情報化社会において、映像はなにもめずらしいものではなくなった。ネット上は、膨大な動画にあふれ、女性を被写体としたポルノ情報で氾濫している。
そのように考えたとき、カメラになにか、先進的な意味を感じることは難しく思われるかもしれない。しかし、カメラとは、

  • 対関係

を意味するものであることを理解する必要がある。つまり、カメラは、相手との相互作用であり、そもそも、

  • 写す人にとって意味のあるもの

なのである。それは、ある一瞬。決して、二度とは巡ってこない、その一瞬。相手は、その人に写すことを「認める」から、写るのであって、そうでなかったら「写らない」からである。
いつも一人で風景を撮影している、写真部の、実原氷里(さねはらひかり)や、どこか孤独な深角友恵(みすみともえ)など、今後の伏線がうかがえる登場人物が描かれる中、第三話は、生徒会長の
室戸亜岐(むろとあき)
の、学校のプールでのスクール水着姿でのセクシーショットの回であった。彼女は分かりやすい

  • 怒る女性

であろう。さて。怒る女性は美しい。だからこそ、セクシーショットなわけである(話がつながった)。
主人公の前田一也(まえだかずや)が、カメラをもちレンズを覗くようになってから、「世界が変わった」と思うようになったということは、なにを意味しているのか。別に、写真をとらせてくれたからって、相手が自分にほれているわけじゃない(それは、先ほどから述べているように「ほとんど」の男性にとって、かなわない望みなのだから)。つまりそれは、一つの、

  • マテリアルな関係

なのだ。男は女性に怒られて「快楽」するように、写真という間接的な関係に快楽を覚える、というわけである...。

男は邪魔! 「性差」をめぐる探究 (光文社新書)

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