アニメ「マジェプリ」の意味

以前、私がテレビアニメ「探偵オペラ ミルキィホームズ 第2幕」を見たとき、その前半の3話くらいまでで、軽いカルチャーショックを受けたことを、このブログで書いたことがある。
それは、一期との繋がりもあったのだろうが、主人公の4人の女子高生が、完全に

  • 自堕落

な生活をしているのを描いたからである。彼女たち4人は昼間は、夕方まで寝ている。当然、

  • 学校に行かない。授業を受けない。

そして、日の出を待って、農業を始める。もちろん、彼らの本業は学生である。つまり、授業に出ることのはずだが、その時間は彼らは、寝ている。
まるで、2流大学の学生が、毎日バイトと徹夜マージャンにあけくれる日々を送っているのを描いているかのようであった。
つまり、彼らは、

  • ダメ

であった。ダメのダメダメだった。
しかし、私はむしろ、このことは「本来的」なんだ、と妙に納得してしまった。
事実、日本のアニメは、そういう意味では、「反抗的」だったと言えるのではないだろうか。アニメ「ストライクウィッチーズ」の主人公の一人、エーリカ・ハルトマンの部屋は、アニメ史上、類を見ないほどに、

  • 汚ない

わけである。女の子の部屋が、である。つまり、片付けられない女というわけだが、それだけじゃない、まず、朝、彼女は起きられない。ほぼ間違いなく寝坊する。そんなことで軍人がつとまるのか、と思うだろうが、

  • それとこれとは別

なわけである。そういった普段の生活習慣の自堕落さと、実際の仕事の実績がつりあわない。
それは、上記のミルキーホームズにしても、(探偵としての学生本来の使命に)「目覚め」ると、それなりに勉強もやるわけであるが、どうも「本質的に自堕落である」その本性は、どうも変わらないようだなあ、という感じなわけである。
つまり、どこか日本のアニメは、その若者の人物表現において、どこか

  • 実験的

な革命的なチャレンジングなことが、ずっと試されてきたのではないのか、という印象を受けるわけである。
こういった問題を、日本のアニメで始めて、キャッチーな言葉でクローズアップしたのが、ガンダムにおける

だったと言えるのかもしれない。ガンダムにおいて、ニュータイプとは、人間が地球を離れて、宇宙で生活するようになって、ほとんど宇宙しか知らない世代が現れるようになって、すると、地球生活の慣習が抜けられなかった旧世代には無理なような行動を、平気で、

  • 宇宙しか知らない

若い世代が行動できるようになる。そういった「新しい」つまり「若い」世代の古い世代との「差異」がクローズアップされたわけであろう。
つまり、ガンダムのおいて、その意味することは、より、物理的な環境の差異によってフレーム化されていたため、分かりやすかったと言えるのかもしれない。
しかし、この比喩は、その後、さまざまに「若者論」の文脈で使われるようになる。
ガンダムにおけるアムロは、言わば、「なぜか」ガンダムの操縦が「できた」だけの、ただの少年であった。実際に、民間人であった。つまり、彼は

  • 軍人

としてのトレーニングすら受けていなかった。そういう意味で、アムロの行動は、ただの

  • 本音

だったわけだ。彼は逆ギレを「行動規範」にして、さまざまな人との出会いをきっかけに、成行で戦争に従軍していっただけで、最後まで、なぜ自分がこの戦争に深く関わってきたのかを反省することはなかった。つまりは、そういう意味では、

  • 普通の少年

だったからこそ、「共感」を得られたわけであろう。
つまり、ガンダム以降のアニメは、子供たちの「建前」をやめたわけである。そういう大人世代が「期待」する、嘘の、存在しない、理想の子供を描いても意味がない、と。今の子供の

  • リアル

を描かなければ意味がないと考え始めた。
そうして、今期のアニメ「銀河機攻隊 マジェスティックプリンス」では、もはや、子供たちは、今どきの、ニコニコ動画に流れるコメントを書き込んでいたり、2チャンネルに書き込んでいたりするような、

の子供たちに「進化」している。主人公のチームラビッツ、つまり、ザンネン5の五人は、そもそも、あらゆる意味で、学校の成績の悪い落第生たちだ。つまり、全然エリートじゃない。というか、まず、他の学生にバカにされている。そして、彼ら自身が、自ら、自分のダメを自覚している。
行動がヘタレだし、しゃべり方が、あまり大人の作法を意識して日々を生きている人たちのような、ハキハキとしたしゃべりになっていない。パブリックの場で話すときも、口の中で、もにょもにょ言っているだけのような、いわゆる

  • 本音しゃべり

なのだ。しかし、それゆえにか。彼らは自分たちの「趣味」的モチベーションに関係することになると、

  • 異様な「やる気」

を発揮する。しかし、それはあくまでも、彼らの「趣味」の範囲にすぎない。他人からは、たんにキモいだけだ。
そんな彼らを、「一本釣り」で、軍の最終兵器を任せる「地球の救世主」部隊にひきぬいたのが、謎のリーダー。いつもゴーグルをつけている、シモンである。
彼がなぜ、このどうしようもないメンバーをトップチームに選んだのか。
それは、地球防衛軍の最終兵器となるロボットの「特性」に関係している。このロボットには、人間の遺伝子を組込むことによって、ロボットの反応速度を飛躍的に向上させる。いわば、彼らは、その「相性」のよさにおいて、飛び抜けていた、ということである。それを彼らは

  • 生存防衛本能

と呼ぶ(この本能の驚くべき特徴は、二つのベクトルがある、ということである。「逃走」か「闘争」か。言うまでもなく、本人が前者のモードのとき、このロボットは役に立たないポンコツである。ところが、「たまたま」本人の気まぐれで、後者の気分だったとき、このロボットは、普段ではありえないような性能を発揮する)。つまり、彼にしてみれば、その他の学校の成績は、ほとんど、どうでもいいくらいに、「この」特性値の高さが、本来のこのロボットの性能を向上させることから考えても、重要だった、ということである。
そういう意味で、ここでは、ある反転が起きている。
一般に存在するエリートは、一種のエリート選抜の「フェア」なトレーニングの中で、序列化される。そして、この序列は日々、更新される。そういう意味では、「平等」だとも言えないこともないわけである。がんばって、努力をすれば、それなりに順位も上に行くであろう。
ところが、ザンネン5の選抜の理由は、まったくそういった正規のルートと関係していない。ある

  • 一般には「どうでもいい」と考えられていたような個人の「特性」

が、「たまたま」このロボットの本来的性能を最大限に引出す上で、決定的に重要だった、というだけなのだ(他のロボットなら全然別ということである)。つまり、

  • ある「特性」が極端に絶対的な選抜条件になっているという意味で、エリート選民的でありながら、
  • その「特性」自体が、「たまたま」、どう考えても普段生きる上においては「どーでもよすぎる」項目であるがゆえに、人々がドン引きする

という、ある「反転」が起きている、ということである。ここで重要なポイントは、さまざまな人々の「有能さ」を測る基準が、世界中にはあるはずなのに、なぜか、

  • たまたま

このロボットの性能を引出すには、普段私たちが考えている上では、どう考えても「どうでもいい」と思われるような、「特性」だけが、極端なまでに重要だったという、その

  • 偶然性

だということである。私たちはここに価値の「反転」を見るだろう。リーダーのシモンは、世界中の人々が彼らザンネン5の、残念な感じを嗤っている中、一人、彼らに「敬意」を示す。というのは、彼ら「だけ」が地球を救えるから。そして、そのことを知っているのが、唯一、地球にはシモンしかいないからだ。
しかし、どうであろうか。
こういった作品フレームは、日本のロボットアニメではずっと繰り返されてきた形のようにも思えてならない。ここでは、何が問われているのか。
たとえば、ガンダムアムロニュータイプということで、いわば、新しい人類が獲得した能力「超能力」を獲得した存在と分類された。しかし、このことを別にも解釈できないか。つまり、アムロがやたらガンダムの操縦に才能をみせたのは、たまたま、

という機械の「特性」が、相性がよかっただけ、とも。実際、普段のアムロは、そのニュータイプという才能を、モビルスーツ以外のことに便利に使っているという場面が描かれることは、ほとんどなかったであろう(たまたま、テレビゲームが短時間で得意になるようなこと、である)。
私たちは、多くの場合、自分を一つの独立した存在と考える。そして、その独立した存在の「能力」だとか「価値」というものに、ふりまわされて生きている、と言ってもいいであろう。
しかし、実際のところは、私たちは身の回りの存在と、さまざまな相互作用を及ぼしながら生きている。ということは、本来は、その「媒体」と

  • ペア

にした上での「能力」や「価値」を考えなければ、日常生活においては、なんの「意味」もない、実際に使えないクライテリアだとも言えるわけである。
しかし、この組み合わせは、どれくらいあるのか。もちろん、人間同士のペアの「相性」も含まれる。つまり、「能力」や「価値」といったものは、そんなに簡単じゃない、ということなのだろう。
ニュータイプとは、そういう意味だと考えるべきなのであろう(そのことを、日本のロボットアニメの歴史が示している、とも言える)。
掲題のアニメの主人公である、ザンネン5の五人は、まったくもって、どこにでもいるような、だめな感じの若者である。つまり、彼ら自身の自己評価がまずもって低い。それに対応して、世間の彼らの一挙手一投足への、「評価」も、キモヲタを観察しているかのような反応だ。
しかし、そのことと彼らを「ヒーロー」とする評価が両立するわけである。
第一話において、ザンネン5の一人の、ヒタチ・イズルは、上官の命令を無視して、取り残された住民を守るために最後まで敵と戦う。もちろん、一般の組織において、そもそも、上官の命令に違反するということがありえないであろう。しかし、シモンはこのヒタチ・イズルの行動に、何も言わない。なぜなら、

  • そういった

彼らの行動が、そもそも、このロボットの最大限の能力を引出すことと無関係ではないからだ。つまり、こういったイレギュラーな命令違反は、むしろ、このロボットの能力最大化には「不可欠」なのである。
ここでは、私たちが慣習的に理解しているような軍隊における上官と部下の関係とは、どこか別次元の

  • ゲームのルール

が生まれていると考えられるだろう。上記において、私は一般に「ヒーロー」と呼ばれる存在が備えているような特性と、彼らのダメな特性の、差異にこだわってきた。しかし、往々にして、組織とはそういうものなのではないのか、とも思うわけである。多くの場合、重要な役割を果すのは、なんの特性もない、普通の人の、普通の「慣習的」な行動なわけである。そして、その役割を担った「ヒーロー」は、どこにでもいる、ちょっとヤバい趣味をもったキモヲタだった、というわけであるが、それが誰の「気まぐれ」であろうと、救ってもらった住民にしたら、このザンネン5は、命の恩人なわけであり「敬意」の対象として、侮辱できない、かけがえのない存在なわけであろう...。