保阪正康『あの戦争は何だったのか』

私は、なぜ日本が太平洋戦争で負けたのかな、についての「解釈」というのは、とても、今の日本の知識人においては重要な話題ではないかな、と思っている。つまり、もし、あなたが日本の憲法改正が必要だと思うのであるならば、この話題について一定の「見識」を示し、それとの整合性で、憲法改正を語る必要がある、と思っているわけである。
というのは、今の日本の憲法は、たんなる「それ」ではなくて、敗戦の「反省」から生まれた憲法だということなのだ。つまり、それが成功したのか失敗したのかに関係なく、当時の国民が「この憲法に生きることによって、その問題の解決を、みんなで実現していこう」と考え、それを実践してきて、今に至っている憲法だということである。そう考えるなら、これはたんに、

  • 文言だけの問題じゃない

ということなのである。つまり、書かれていないことにおいても、多くのメッセージを含んでいる憲法だと考えなければいけないわけである。
つまり、「なぜ日本が太平洋戦争で負けたのか」を踏まえて(または、みんなでその答えを探究することを未来に誓い)、二度とその失敗を繰り返さないための日本を目指すことを「含意」した憲法だということである。
そのように考えたとき、憲法改正というのは、私は一種の、日本「破壊」ではないかと思うようになってきた。
つまり、なぜか今、憲法改正を声高に主張している人たち全員が、そもそも、「なぜ日本が太平洋戦争で負けたのか」に興味のない人たちだというところが、私に言わせれば、

  • もし彼らに改憲を行わさせれば、必ず「なぜ日本が太平洋戦争で負けたのか」の「失敗」を繰り返す

と思われてならないからである(つまり、彼らはこの問題意識をもっていない人たち、ということである)。
例えば、アメリカのように今の憲法が時代に適応しなくなってきたから、補筆的に条項を増やす、というのなら理解できなくもない。しかし、書き換えるという。96条のような、基本的な、今まで「前提」にされてきた、根本的なルールを変えるとなると、じゃあ、どうしてそれ以降も、社会の秩序は維持されるのかな、という疑問がわいてくる。
ある根本的なルールを書き換えたとき、

  • その「意味」はこうですよ

と、そう変えた人が説明したとして、それでそれが何を意味しているのかが、どうして「自明」だと思うだろうか。人によっては、「いや、この人は、こう説明してるけど、実は違った意図で書き込んだんだ」と主張を始める。しかし、これを変えた人がすでに死んでいて、もうこの世にいなかった場合など、「真意」など、だれにも分からない。
(よく考えてほしい。だから、憲法と法律は分けられているのだ。ロジックのオーダーが分けられているのである。法律においてなら、作った文言の「意図」が二転三転していくことが指摘されることは、日常茶飯事であるが、なぜそれを誰も文句を言っていないのかといえば、つまり、その上のオーダーに憲法があるからであろう。つまり、そもそもどんな法律も、憲法の「制御下」になければ、「正当性がない」からだ。つまり、これがモンテスキュー三権分立なわけである。法は裁判所で憲法に「包含」されるのかを「裁かれる」わけである。ところが、その憲法で「同じこと」をやった場合、どういうことになるか。つまり、そもそもの三権分立を「記述」したところさえ、「うぜー」とか言って破壊しかねない orz。)
そうした場合、恐らく、二つの勢力が、それぞれ、独自の政府を擁立して、日本の南北時代のように、お互いが自分たちの「正当性」を訴えて、レジスタンス活動を続けるであろう。
その後の日本は、今もシリアが血みどろの内戦を続けているが、同じようなことだって起きないとも限らない。
なぜ、自民党に群がる人たちは、憲法改正をやりたがるのか。
自民党は、現在のアベノミクスのリフレ政策による、株価の上昇を「利用」して、憲法改正を目指してくる。彼らがやりたいのは、

  • 戦前の「軍隊」の復活

である。彼らは、それさえ実現できれば、あと他は、どうでもいいと思っている。憲法9条とか基本的人権の破壊とは、そういったことは、周辺的な要請であることを忘れてはいけない。彼らは、

  • 戦中のA級戦犯の名誉回復
  • 戦中の帝国日本軍の「復活」

さえ実現できれば、あとは、日本がどうなったって、どうでもいいのだ。なぜか。日本の明治から太平洋戦争の敗戦まで、実質的に日本とは、

  • 軍隊

のことであった。彼らは

と呼ばれることで、実質的に、日本の「すべて」をコントロールしていたと考えることが可能「だった」のである。というのは、ここで、天皇「の」、と表現されているところがポイントである。天皇のための軍隊でありながら、天皇が実現したいことを軍隊が実現できないなら、「軍隊の存在意義に反する」という考えなのである。
よって、明治以降、日本と軍隊は「同値」になる。いや。これも正確ではない。つまり、

  • 日本 = 軍部

ということなのだ。

「軍部」というのは、参謀本部、軍令部などの作戦部、あるいは陸軍省海軍省の軍務局など、軍の政策や戦略を司る中枢部のことをいう。

つまり、

  • 国民 ⊃ 軍隊 ⊃ 軍部
  • エリート ⊃ 軍部

ここが大事なポイントで、軍部とは、国民全員では「ない」。軍部とは、軍隊内の「指導層」である。いや。たんに彼らが、そうであるということが大事なのではない。彼らにとって大事なポイントは、

  • そうなるように「育てられる」

といったような様相があることなのである。

陸軍の職業軍人になるための第一歩は、陸軍幼年学校から始まる。年齢で言えば満十三歳の時である。高等小学校を終えた者か旧制中学の一年生修了時に、幼年学校を受けることが出来た。
幼年学校は全国に六ヶ所、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に建てられた。いずれも全国で六つの師団が置かれた都市であった。募集人員は年によって変わったが、全国でだいたい二五〇名ぐらいに落ち着いた。日本各地から優秀な人材が選ばれ、入学した。学校教育は官費で金がかからないゆえ、経済的理由で進学するものも多かった。幼年学校に入るということは、地元の誉れであった。
幼年学校では六つの都市で通常三年間教育が行われる(大正九年に制度改正)。
そして幼年学校を終えると、今度は陸軍士官学校に進むことになる。士官学校では、幼年学校から上がってきた者以外に、一般中学を五年生で卒業、あるいは四年が終った段階で新たに受験して入学してくる者もあった。幼年学校卒業者が士官学校入学者の過半数を占めるよう計画された。
士官学校での教育期間は士官候補生時代を含めて大体が四年半で、卒業する頃には二十歳そこそこの年齢となる。卒業した彼らは各原隊に赴き、そこえ少尉となる。こうして将校見習いとして実施の訓練を受けるのである。ちなみに徴兵で入った一般の兵隊にとって、少尉に就くなどほとんどありえないことであった。
さて、原隊に入った将校見習いたちであるが、彼らにはさらなる目指すべき上級養成任官二年以上(昭和期には任官後八年となっていた)の少中尉が対象で、自分が属する原隊の連隊長の推薦、それに三十歳前の二年間だけという期限も設けられていた。試験は一次に学力、二次は口頭試問となっていた。定員はわずかに五〇人という狭き門である。
晴れて陸大に入学すると、そこでの教育期間は三年間、卒業後はキャリア幕僚として扱われる。さらに陸大卒業時の成績上位者一割前後は「恩賜の軍刀組」と呼ばれ、参謀本部の作戦部など軍中枢部に入る特権を得た。まさにエリート中のエリートの存在である。

なんと、満13歳で、自分が将来、「軍部」になるかどうかの第一歩が始まるのである。上記にあるように、最終的に軍中枢の指導層に入るかどうかは、こうやってエリート中のエリートとなった後も、軍内の派閥闘争などもあるが、いずれにしろ、こういった人たちが非常に特殊な

  • 選ばれた人たち

として、生まれ育って、そして、その子供がまた、こういった世界に入っていくという「階級」的な存在であったことを理解する必要があるわけです。
彼らは、自分で前線に立たない人たちである。彼らは、そもそも、運動神経さえ必要ない。なぜなら、自分でやらないからである。軍師と言われたカテゴリーに含まれるもので、その特徴は、

  • 絶対にあやまらない(どんな理屈も他人に責任を押しつける)
  • 絶対にあやまらないことを「やり切った」ことを「勝った」と「同値」に自分を説得する

となる。つまり、一言で言えば、

  • 官僚

ということである。彼らが「実績において優秀」でありうることの「前提」は、彼らが「有能」な範囲でトレーニングされていることにある。つまり、もしここで言っている「有能」が成立していないとき、彼らは、たんに、

  • 人に迷惑をかける

だけの「使えない」存在になり下がってしまう。しかも、やたらと指揮官としての「権利」だけは、天皇の名の下、与えられているから、ひたすら、社会を壊し続けて、社会を滅ぼす。つまり、一種の「ガン細胞」と化す。
こういった意味で、私はエリートとは、その社会にとって、一種の

  • 自殺装置

なのではないかと考えるようになってきている。ある社会システムがあるとき、その社会は、

と同じだけの「欲望」として、

  • この維持されているシステムを粉々に破壊したいという欲望

を「内包」しているのではないか、と考えている。それは、どういうことかというと、

  • エリートの名誉が毀損されていないか?

と関係している。エリートが社会にとって役に立っているということは、そのエリートが暴走していない「から」、なのである。じゃあ、どういった場合に、エリートは暴走するのか。彼らの名誉が傷付けられたときである。彼らが侮辱されたとき、彼らは「キレる」。自分の重要さを、社会を維持するのと同値と考えているエリートは、自らの侮辱の「対価」にふさわしいものは、社会そのものの破壊だと、どうしても考えないわけにいかないのだ。
つまり、エリートの暴走こそ、その社会の

  • がん細胞

なのである。社会は壊れる、エリートの自尊心の毀損によって。
そういった彼ら旧陸軍を決定的に特徴付けたものとは、なんであったのか。それが以下である。

陸軍大学校第一期生たちは、ドイツからのお雇外国人・メッケル少佐からプロシア式の参謀教育を受けることになった。必然的にそこで教材とされたのはヨーロッパの戦争である。日本の軍事事情とは必ずしも合致しない教えも多かったようだ。ただ、彼らが受けたプロシア式教育の中で、後の日本軍隊に決定的に影響を与えることになる。ある重要な事柄がああった。それは「統帥」についての見解である。
「統帥」とは、陸海軍全てを指揮・統率すること、そしてその権限を持つのは天皇である。陸大で学ぶ学生は次のように教えられた。
「帝国の軍隊は皇軍にして、その統帥指揮は悉く統帥権の直接又は間接の発動に基づき、天皇の御親裁により実行し或はその御委任の範囲において、各統帥機関の裁量により実行せしめらるるものとす」(陸大で教えられた『統帥参考』より)
陸軍の軍人は何を使命として、何を目的とするか、それは「天皇に奉公すること」であり、「我々は天皇の軍隊である」と明確に教えられた。それにより陸軍内では、部下をどう指導し、どのような作戦を立てるのか、一本の筋の通った命令系統が出来上がることになった。さらに教えは、こう続く。
統帥権の行使及びその結果に関しては議会において責任を負はず、議会は軍の統帥指揮並びに之が結果に関し質問を提起し、弁明を求め、又はこれを糾弾し、論難するの権利を有せず」
陸軍の軍事行動、作戦、その戦闘報告などの全ては、議会とは関係がなく、批判、疑問、それに報告要請にさえ応じる必要はないのだと。
つまり軍事に関しては、他の統帥権からどのような干渉も受けない、独立した権限として成り立ちうるという考えであった。
昭和に入ると、この「統帥」の名の下で、陸軍は政治の上に君臨する強力な権限を作り上げていくことになる。「統帥」が陸大で徹底的に教えられたという事実は是非とも押さえておかなければならない歴史である。

この「統帥権」こそ、決定的に彼ら陸軍軍部を決定したものはないのではないか。
ここで、掲題の著者が何を言いたいのかを理解する必要がある。これは、当時のプロシアつまり、ドイツの「後進」性を示唆しているのであり、そしてその後進性を日本は継承している、ということなのである。
つまり、プロシアは帝政時代の名残りをひきづる、ヨーロッパの後進国家だったこともあり、国王専制が国家の礎であった。あらゆる命令系統は、国王に集約され、国王から扇状に広がる。
つまり、シビリアンコントロールが、曖昧というか、少なくとも、陸軍軍部指導層に「希薄」になるような教育体制であることが、特徴なのだ。
陸軍軍部は、「誰」の命令を聞かなければいけないのか。
当時戦っていた、アメリカにとって、それは自明であった。つまり、シビリアンコントロールである。「政治家」部門が国家の税制から公共サービスから動かしているように、アメリカにおいては、軍が「政府」部門、つまり、大統領の「命令」に従うことは「自明」である。つまり、従わなければ、軍の最高指導者でも、更迭されるし、そもそも、彼らは、軍のトップが変わるごとに、交代される。
ところが、日本の陸軍軍部とは、マックス・ウェーバーが分析した官僚、つまり、行政官僚制そのものなのであって、言ってみれば、彼らの身分の「正当性」が、完全に、国会や内閣や内閣総理大臣とは別個に

  • 天皇をその「正当性」の根源として

存在しているわけであり、彼らからしてみれば、国会や内閣や内閣総理大臣とは「よく分からないことをやっている人たち」である。さまざまな理屈をつけて、軍の予算をケチってくる、

  • 面倒くさい人たち

くらいの意識しかない。というのは、彼らは生まれてから幹部になるまで、「統帥権」という考えを徹底して刷り込まれるからである。そもそも彼らが従うのは、「統帥」である天皇「しかいない」のである。ということは、どうして他の人の言うことを聞かなければならない理由があろうか。

  • 天皇がOKと言えばOK

に決まっているではないか。だから、彼らは天皇に諫言する。それは、そもそも、「軍隊」のこと「だから」ではない。彼らは、国家を動かす

  • エリート

である。国家の一挙手一投足を彼らが把握しないいわれもないであろう。つまり、政府や国会や内閣総理大臣は「邪魔」でしかない。彼らに言わせれば、こういった機関は、彼ら軍部がこの国を動かす上で、

  • 表面上、邪魔にならない範囲で動いてもらう、効率化のための「なにか」

にすぎない。実際の日本の舵取りは、軍部が決めるのが当然と考えているのである。
もう一度、上記の「統帥権」の説明を見てほしい。彼らの正当性は、天皇にある。つまり、彼らは天皇という「統帥」の「命令」に従っているから「正当」である。天皇の命令が明確に分かる場合は、やることは自明であろう。それに従うのみである。しかし、そうでない場合は、どうなるか。多くの場合、それは「今までの命令全体から自然に導かれる」推理的帰結に従うということになる。しかし、そういった形でも、どうしても曖昧な部分が残る場合、または、今までの慣例に従っていては不都合が予想される場合はどうするか。言うまでもない、天皇にじきじき、お伺いをたてるわけである。もちろん、その場合、自分の「意見」を添え、天皇の判断の参考にしてもらうことは合理的であろう。
しかし、である。
そういった行動(=行政官僚的行為)が、いつも、思った期待に答える結果となるとは限らない。それは、戦争で言えば、作戦の「失敗」に対応する。しかし、問題はこれが「何」なのかの説明であろう。
なぜ「失敗」したのか。こう問うことを、もし「統帥の命令」に帰結させることは可能であろうか。多くの場合、それは難しいのではないか。「統帥の命令通り」にやっていた「のに」失敗した、などと言おうものなら、まるで、統帥が「悪い」と責めているようではないか。
では誰が問題だったことになるのだろう? 軍部のだれもが「統帥の命令」通りにやっていたのに、それが「失敗」だったとするなら、その失敗の原因は「統帥の命令」そのものに帰すしかなくなる。よって、奇妙な話だが、

  • だれも失敗していない

ということにならざるをえなくなる。これが「行政官僚制」の「欠点」である。
そんなわけねーだろー。言うまでもない。当然である。
じゃあ、どうするのか?

その日、東京の軍令部では、満を持した作戦が成功することを確信し、祝宴を張る用意もすっかり整っていたという。後は戦勝の報を待つのみであった。敗北など考えてもいなかった。しかし、いくら待っても「作戦成功」の報告がもたらされることはなかった。
さて「ミッドウェー海戦」で特筆すべきは、敗戦の報を受けた後の海軍軍令部の対応である。敗れたことをひた隠しにしたのであった。「大本営発表」では、
「米航空母艦エンタープライズ型一隻及びホーネット型一隻撃沈、彼我上空において撃墜せる飛行機約一二〇機。(中略)我方損害、航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破、未帰還飛行機三五機」
と、国民にウソの報告がなされた(これが「大本営発表」の最初のウソであった)。
そして国民はもとより、いかに手痛い損害を蒙ったかを陸軍にも教えない、さらに天皇にも正確に伝えることをしなかった。
ミッドウェーで生き残った者たちは日本に戻ると幽閉状態におかれた。故郷との連絡も許されず、入院していた者は病室のカーテンさえ開かせてもらえなかった。

だれも、失敗するはずがない。しかし、明らかに、作戦は失敗。味方は全滅。この目の前の事実。どうやったって、申し開きできるわけない。じゃあ、どうするか?
まるで「それ」さえもが、「作戦」であったかのように「偽装」するしかないんではないか?
大事なことは、「絶対に謝らない」ということである。つまり、謝らなければ、なんとかなるわけである。まず、作戦は敗けていないと、大本営発表を行う。嘘の戦果を並べ立てる。どうせ、海の向うの話だ。国民は誰も見ていない。アウシュビッツ収容所の中にユダヤ人がどんどん消えていっても、彼らが最後に「どうなったのか」を見た人がいない、ような話だ。
皇軍兵士にも口封じである。誇り高き彼らも内心は忸怩たる思いであろうが、上官の命令には従わざるをえない。上官の命令は天皇の命令なのだから、なにか深謀遠慮があるのだろう、とでも考えて、目の前の事実から、心をそらせるしかないであろう。
言うまでもなく、日本軍とは東條英機大将のことであったと言ってもいいであろう。つまり、太平洋戦争以降のその盛衰の中心を占めたのが、事実上彼であったのだから。
しかし、その彼の傾向は、世界のファシストたちと比べても、あまりにも「特異」つまり、日本的なのである。

十月に、陸軍の飛行学校に、学生たちへのねぎらいも込めて、視察に行った時のこと。東條は学生に「B- 29が飛んできたとする。そうしたら、君は敵機を何で撃ち落すか」と問い掛けた。問い掛けられた学生は教科書通りに「一五センチ高射砲で撃ち落します」と答えると、東條は「違う、そうじゃない。精神力で撃ち落すんだ」と語ったという。精神力の好きな東條らしい答えであった。
天皇陛下は神であって、天皇陛下に帰一していれば、国体の輝くこの国は敗けるわけがない。戦っていまだかつて敗けたことのない国なのだから...」
それが東條の考え方だった。ことあるごとに、そう語っていた。

よく考えてほしい。これが、一国のリーダーの言うことなのだ。もちろん、大衆を説得するために、こういう言い方をしているという側面はあるのであろう。しかし、もしも彼本人がこれを本気で考えて生きていたとするなら、あなたは彼がリーダーのチームについて行きたいと思うであろうか?
彼は人々の前で、この戦争の勝利に「自信」があると言う。自信満々に、俺についてこい、と言う。しかし、その「理由」が、これでは、私たちは、どう考えればいいのだろうか。
あなたは考えないだろうか。まず、彼は本当に、日本の戦争の全体を把握しているのだろうか、と。

東條は「絶対国防圏」が突破されつつあるとの報を受け、首相、陸相として、とうとう我慢の限界を超えた。
これまで大本営作戦部が「飛行機を造れ」「船を造れ」といってくる要請に、出来る限り応えてきたつもりである。工場を新設し、国民学校生まで勤労動員して国民に負担をかけて増産してきた。食う食わずの生活のなかで、戦備だに没頭した。それが、できあがっても、あっという間に飛行機も船も撃破されてしまう。
「いったいどうなっているのか。どんな作戦を立てているのか」、そう聞いても、大本営作戦部は、たとえ相手が東條であっても「教える必要はない」の一点張りであった。
これでは埒が明かぬと東條は考え、そして決断する。自分が「軍政」と「軍令」の両方を兼ねようと。首相兼陸相でもある東條は、「統帥権」を持つ参謀本部の総長になることをも画策していった。しかし、「統治権」と「統帥権」を兼ねることは明治憲法に反することを意味した。建軍以来、「軍政」と「軍令」を兼ねた軍人はいない。東條はあえて、そのことに挑戦しようとしたのである。
東條はまず、二つの大権を統べるべき天皇のところに行き、直接上奏し伺った。天皇は東條の願いを聞き、驚いてしまう。
「こういう戦時の時に、軍令と軍政が一体になり、大丈夫か」と天皇は東條に下問している。すると東條は「今の戦争指導者で欠けているのは、軍令であります。戦略、戦術がうまくいかないから、軍政の側に一方的に負担が掛かっています。この二つの有機的な統合を図りたいと考えております」と天皇を説得した。
天皇は何より明治憲法に忠実であった。明治憲法の本分の一つは、「統治権」と「統帥権」が分かれていることであった。東條がどんなに説得しようとも、天皇は決して納得することはなかった。
天皇から了承をもらえなかった東條は、ここであるトリックを弄することになる。
陸軍の中には、「三官衙」と呼ばれる長官の地位がある。「軍令」「軍政」と組織上は分かれているわけであるが、「陸軍」というくくりで何か意思決定をする際には、陸軍大臣参謀総長、それに教育総監の三長官で意見調整が行われた。それぞれ三長官の人事も三者で話し合って決められていた。
この時、東條は、他の二長官、参謀総長杉山元教育総監の山田乙三を呼び、「自分はこれから参謀総長を兼ねることにした」と一方的に告げたのである。これには参謀総長であった杉山が黙っていなかった。「そんなことは承服しかねる。だいいち憲政上、許されることではないではないか」と。すると東條はこう答えた。「これはもう、陛下の了解されていることである」。
杉山は「そんなことがあるはずがない」と、天皇のところに確認に行くことにした。それを知り、東條は今一度「これはもう陛下の了解を得ている」と念を押している。
東條は、自分の話を杉山が聞けば、天皇のところに確認に行くだろうということは予め読んでいた。そしてさらに東條は、杉山に問われた天皇がどう答えるかも、実は、読んでいたのである。
天皇は、精神的に「二・二六事件」の影響をずっと引き摺っていた。青年将校たちを「断固、討伐せよ」と命じてからは、一度も何かに対して断定的に否定する意思表示はしなくなっていた。
東條は、その天皇の心中を正確に察していた節があった。
案の定、杉山に問われた天皇は、直接には否定せずに「人事を変えなければならないことは確かだと思う」というような曖昧な答え方をした。
それを聞き、杉山は「そうか、東條のいったことは本当だったのか。東條はいつのまにあれほど陛下の信頼を得たのか。陛下が了解しているのであれば仕方ない」と判断し、身を退くことを決めてしまった。参謀本部の参謀たちは、杉山に軍令の側は納得していない旨を天皇に伝えるよう促した。しかし杉山は、もうそうした意見すら受けいれなかった。

上記の話は、私のようなナイーブな人間には、驚くべき話に聞こえる。つまり、東條は昭和天皇を「たぶらかした」と言っているのと同じであろう。これが、掲題の著者の歴史研究から導き出された「史観」だとしても、行政官僚と、その「統帥」である天皇との関係が、こういったものであったということは、非常に不思議に思われる。
しかし、その前に、重要なことが指摘されている。つまり、東條が総理であり陸相であったときでさえ、大本営作戦部にアンタッチャブルだったということである。それが、軍政と軍令の分離ということなのだろうが、こういう意味で、まったくもって、東條でさえ、最初は、全体を見て判断できるような、

ではなかった、ということなのである(つまり、ようやく、東條は(ドラッカーの意味での)マネージャーの地位を得たわけであるが、それも、

という高い代償を払ってであったわけである)。よく考えてほしい。こんなことがありうるのか。例えば、日産のカルロス・ゴーン社長が、自社の未来の戦略策定に関われない、と言っているようなものであろう。
つまり、こんな状態で、戦争に「突入」したわけである。さて、だれがアメリカとの戦争を決断したのか、いや、できたのか、と思わないか。

”いったい天皇は自分への不信感を以て内閣を替えろと言っているのだろうか、それとも字義通り、単に内閣を替えるだけでいいのだろうか......”、東條は迷った。迷った末、直接、天皇のところに伺いをたてることにした。
すると天皇は、「閣僚を替えるべきである」と、木戸が言っていた通りのことを繰り返した。そしてこうも続けた。「軍令と軍政というのは、やはりきちんと分けておく方ぎいのじゃないか」。
決して東條に向かって「辞めろ」とは言わない。しかし、これは断定的な言葉を避ける天皇なりの「辞めろ」との意思表示だ、さすがの東條もこのことがわかった。東條という男は、とにかく天皇に対して”絶対忠誠”であった。不本意ではあったが、辞意の腹を固める。
七月十八日、東條内閣は総辞職となった。
実は、東條内閣の総辞職が決まった後、陸軍省内ではちょっとした騒ぎが起こっている。軍務局や参謀本部の幕僚の何人かが、東條を旗頭に、「聖戦必勝派」で固めた政府を作ろうと、クーデター計画を東條に持ちかけたのであった。しかし、天皇から「ノー」といわれた東條は、決してそうした企みに乗ることはなかった。

もはや、なにがなんだか分からなくなってくる。あれほど、憲法違反を犯してでも獲得した、軍政と軍令の権力を、こんなにも、あっさりの手放すわけである。それも、

である。一体、なんなのだろうか。東條は、軍政と軍令の権力の掌握なしには、戦局の立て直しは不可能と考え、より独裁色を強めて行ったのだが、そうして、手に入れた彼の権力による、

  • 作戦立案

によっても、結局は失敗を繰り返す。そして、次第に陸軍から国民からの、信頼を失っていき、求心力をなくしていく。そうすると、簡単に、前に戻ってしまう。しかし、じゃあ、前に戻って前の問題が解決するのかというと、なんの見通しがあるわけでもないわけである。たんに、

  • 天皇の命令には逆らえない

という理由「しか」なく、こう振る舞ってしまうわけである。
独裁者がこれなのである!
さて。なぜ日本は敗戦を受け入れられたのであろうか。これこそ、最大の謎であろう。なぜなら、上記で総括してきたように、日本の「軍部」とは、無謬性によって特徴付けられていたのだから。
言うまでもない。「統帥」、つまり、天皇の意思によってである。それしかありえなかった。いや。本当は、それでさえ、ありえなかったのかもしれないのである。なぜなら、天皇の意思と「国体護持」は同一ではないから、でる。

御前会議の場で天皇は、こう述べている。
「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状を充分考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える」
それを聞くや、出席者たちは全員、すすり泣きを始めた。中には号泣する者もあった。
そして、阿南が涙ながらに、天皇にこう言った。
「これを認めれば日本は亡国となり、国体護持も不可能になります」
この時、「国体護持も不可能になる」という発言を聞くや、天皇は不思議な言葉を発している。
「いや、朕には自信がある。国体護持には自信がある。自信があるから、泣くな、阿南......」
また、こうも語った。
「私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。......必要があれば、私はどこへも出かけて親しく説き諭してもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と。

ある意味、昭和天皇だったから、戦争は終わったのであろう。間違いなく、太平洋戦争は、昭和天皇の「キャラクター」が、多分に反映された戦争であった。昭和天皇が、こういう性格でいてくれた「から」、戦争を終えることができた、とも言えるわけである。
私は上記の一連の話を読むにつけ、驚きの一言である。というのは、なんと言ってみたところで、昭和天皇もまだ、若い、若造ではないのか。そういった天皇に、軍部のエリートたちが、あらゆる判断を委ねて、従おうとし、そして最後には、国体護持の不可能性を前に、みんなで涙を流すわけである。
いや、泣くのはいいが、この場に一体どこに、

がいたのであろう? いや。もしいなかったのだとするなら、どうやって、組織をマネージメントしようとしていたのだろうか。
うーん。
一つだけ言えることは、彼らが「官僚」だった、ということであろう。官僚の本質は、若い頃から、訓練されたことを実行できる「正確」さにおいてある、と言えるであろう。彼らがこだわる無謬性は、こういう意味なのである。
教えられた通りやった。
学校の勉強と同じなわけである。もし、それが間違いだとするなら、教育内容に間違いが入り込んでいた、ということになってしまう。
しかし、人生においては、答えのない問題の方が多いものではないか。試行錯誤しながら、自分の生きる道を切り開いていくものではないのか。
私によく分からないのは、なぜ軍部の「官僚」たちは、当時、日本があのような社会システムになっていて、「なんとかなる」と思えたのか、なのである。どうしても、私には、上記の昭和天皇への、軍部のエリート官僚たちの反応が「幼稚」に思えてしょうがない。もちろんそれが、「天皇主権」ということの意味なのであろうが、それにしても...。
(例えば、5月5日に、長島茂雄松井秀喜国民栄誉賞授与のセレモニーがあったが、長島は巨人に松井が入ってきてから、ずっと、彼の素振りを指導してきたという。あの二人の関係は、どこか、昭和天皇と当時の陸軍軍部のエリートたちの関係にも似ているのかもしれない。儒教国的な国王と、科挙主席の若者たちの、なんとも言えない「精神的」な結びつきが。たとえ、「年齢が逆であったとしても」である...。)
さて。
最後の問題は、なんであろうか。私は、この昭和天皇の英断が、どこまで「成功」したのか、にあるのではと考える。
というのは、現在、日本の自民党を中心とした国政が、憲法改正に憑かれたように、つき進んでいる理由と、それが無関係ではないから、であろう。
上記における、戦中の陸軍官僚と昭和天皇の関係の特徴を一言で言えば、お互いがそれぞれ「依存」し、その関係がズブズブであるがゆえに、その責任を切り分けられない、ということにあるのであろう。
官僚のある行動は、天皇の命令であっただけでなく、天皇の行動も官僚のある諫言と関係する。そうして、お互いがお互いの行動に深く依存し合っていたため、お互いの存在理由を区別して考えられなかった、ということなのである。
自民党の議員がなぜ、憲法改正につき進むのか。それは、彼らの親やじいちゃんが、陸軍幹部だったから、である。つまり、A級戦犯を始めとして、彼らのじっちゃんの

  • 名誉回復

をどうしてもしたいのだ。ここには、間違いなく、日本の儒教的価値観が関係している。彼らは、どうしても、じっちゃんが、不名誉なまま、人生を終えたくない。なぜなら、それを許せば、未来永劫、自らの血族の不名誉に悩まされることとなるから。家名に傷をつけることはできない。
そのためには、おそらく、なんだってするのである。
これが果せるための、具体的な条件としては、なにが考えられるだろうか。おそらく、じっちゃんの直接的な名誉回復は相当に難しいと考えられるだろう。だとするなら、目指すのは、間接的なものしかない。
つまり、実質的な戦中軍隊を「復元」することだということが分からないだろうか。
もしも戦中と同じような制度で動く軍隊が戻ってくるなら、戦後、まっさきに廃止された、戦中の軍隊が

  • 悪いものではなかった

ということの証明になるであろう。大事なことは、その制度が少しでも似てくることである。目的は戦中の彼らのじっちゃんが「やっていたこと」が、現在の基準から見ても、「立派」に見えることである。つまり、現在の戦中回帰である。
こうなることによって、始めて、「戦中のじっちゃんと同じ行動をしている」ことに、誇りをもつ、というわけで、しかしそれこそ、

であることに注意がいるであろう。安倍総理や石破幹事長が、この前、戦車に迷彩服を着て乗っていたのは、アニメ「ガルパン」の影響だけでなく、事実、シビリアン・コントロールを、なし崩し的に壊していきたい、という勢力がいる、ということの素直な反応だと考えられる。
明治から戦後まで、日本の政治がどれだけ、大衆(=右翼)や、軍部内の若者による「テロリズム」に悩まされたのかを忘れてはいけない
(さきほどから言っているように、旧陸軍幹部は「無謬性」を本質としている人たちである。彼らが「戦争責任」を問われたのは、言ってしまえば、昭和天皇が「お前たちが責任を取ってくれ」と言われたからであろう。しかしそのことに、大きな「裏切り」を感じた幹部たち、また、その子孫はいるのではないだろうか。事実、終戦直後に軍内部にクーデター騒ぎがあったことは有名だが、それくらいに、彼らには自分たちが責任を問われることには、「不条理」感があったのではないだろうか。

  • なにも間違っていないのに。

彼らから言わせてもらえば、つまり、子供の頃から教えられてきたことをやったにすぎないわけで、「いい子にしてた」といった感じにさえ思っていたわけであろう)。
憲法改正とは、間違いなく、周辺諸国からは、軍備拡張の「メッセージ」と受けとめられる。この東アジアに緊張をもたらす結果になるわけで、重大な問題をはらんでいることは間違いないはずである。
しかし、上記の自民党などで、憲法改正を推進している人たちの

  • 目的

が、じっちゃんの名誉回復にあるだけに、その運動はしつこく、やっかいなものになることが予測されるわけである...。
(逆に言えば、A級戦犯以下、B級からC級まで、全員、一人として、悪い人なんていなかったと言って、彼らを「犯罪者」から解放して、社会的に名誉な存在だったということにできれば、彼らも、そこまで無理して、戦前の軍隊を復活させようとまではせずに、建設的な次の時代の社会システムを提案できるのかもしれませんけど、まず、この話が国際社会や周辺国との関係から、不可能ですからね。うーん。
でも、逆説的ですけど、それが、彼らが命を捧げて仕えた、昭和天皇の「意思」だったわけですからね。この戦後の日本システムを、昭和天皇が実現しようとして、実際に実現して、今に至っているわけで、つまり、天皇主権を天皇自身が、国民主権に、

  • 変えた

わけでして、それが天皇自身の「意思」だったというところに、戦中陸軍軍部世代の「パラドックス」があったわけですよね。つまり、そうだから、彼らはクーデターを起こさなかったのだけど、昭和天皇も今は亡くなり、彼らの子供や孫には、こういった、自分たちのじっちゃんが心に秘めていた、複雑な感情が、だんだん理解できなくなっている、単純に、怒りと屈辱の感情を生きていたとしか考えられなくなっている、ということなのかもしれませんね...。)

あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)

あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)