経験論の重要さ

以下では、少し変なことを書いてみたい。
1) アニメ「翠星のガルガンティア」において、主人公のレドは、はるか昔に地球を離れ宇宙に飛び立った地球人の子孫である。彼らは、それ以降、母国であるこの地球との接触を一切断って生活してきた。レドが、地球に来たのは、たまたま機械の故障による偶然であった。
レドは、今の地球の慣習をまったく知らない。すべての大地が海に埋没し、人々は、船であり、海上に浮かべた鉄骨の櫓の上で暮らす人々から見れば、どこか

  • 赤ん坊

のようなものである。このことは、未開社会に、日本やアメリカの先進国の人々が訪問するときに、彼らから受ける対応と同じである。
つまり、どんなに図体が大きくても、この未開社会内の、大人が備えているべき慣習をもたないという時点で、レドは「大きな子供」なのだ。
2) ゴールデンウィークに、実家に帰ったとき、弟の、1歳になる子供を、私は、せっかくだし、だっこしてやろうと近づいた。回りの大人は実に、当たり前のように行っているので、私は、同じような結果になるのだろうと思っていたのだが、見事に、私を警戒して、泣きだした。
往々にして、始めて見る大人の場合、その子供はだっこされそうになると泣くという傾向があるということを、弟は言っていたが、つまり、私はそういった、その子供の「傾向」性を知らなかった、というわけである。
3) 私たちくらいの年代は、子供の頃は、まだ、パソコンは普及していなかった。田舎だったということもあるが、まだ、ウィンドウズ95もろくに登場していなかった頃なので、当然ということなのであろうが。ただ、いわゆる、テレビゲームは、普及していた。私はあまりやらなかったが、ファミコンなど、私の兄弟はよくやっていた。
先日、私は、両親に、iPad を買ってあげたのであるが、この二人の両親は、ほぼ戦後すぐくらいの生まれで、まず、こういったテレビゲームもやらない。パソコンもやらない、コンピューター知らず、知っているとしたら、かろうじて、テレビくらいの、コンピューターと無縁の生活をしてきた人たちであった。
私は、多少、好奇心もあって、そういった彼らに、

コンピューターおばあちゃんといっしょに学ぶ はじめてのiPad入門

コンピューターおばあちゃんといっしょに学ぶ はじめてのiPad入門

という本と一緒に、プレゼントしたわけだが、

  • 予想「以上」

に彼らは、使いこなせなかった。このことは、私にとって、けっこうカルチャーショックであった。
おそらく、彼らが、日常的に、ファミコンのようなテレビゲームに親しんでいたのなら、こういったことはなかったのあろう。なぜなら、ファミコンは「趣味」であって、やることが「楽しい」という感情とセットにあるからだ。
まず、テキストボックス、リンク、ボタン。こういったものが、「そういうもの」という「概念」が、彼らには、ないのである。私たちは、WEBの画面を見れば、だいたい、ここでなにをするのかは、こういったコンポーネントの配置から予想がつく。まあ、大抵、似たりよったりの考えで作るからだが、彼らには、そもそも、そういった「アイデア」が、ないわけである。
よって、彼らがこういったものを理解するスタートは、「ノールール」なのだ。WEBの画面を目の前にして、彼らが考えることは、

  • なんのルールもない世界

である。ある所を触るとなにかが起きる? 押すとなにかが起きる? そもそも、そういった「想定」や「予測」しらない。画面でなにかの表示が始まると、「何かが勝手に始まった」としか思わないし、それらと、自分の「操作」が結びつかない。
大事なことは、彼らにとって、今、この iPad の画面で起きていることの「ルール」についての一切の知識がない、ということなのである。
彼らは、そのスタートから、これがなんなのかを、

  • 今までの彼らの「経験」との「アナロジー

で理解していこうとするわけである。
彼らは、ある意味、本に書いてあることを、一個一個やっていくことは可能なのだが、その「応用」についての「想像力」が、ほぼ「ない」わけである。
そして、その本に書いてあることをやることが、「一連」の手続として、「一つ」になってあるだけで、「それ」が概念によって分節化されない。そのため、私が操作している「合間」に、なにかをやること、その操作が、なになのかが気になって、それまで「覚えよう」としてしまう(魔術において、手続きが重要なように、あらゆる操作には、一つの一貫した「意味」があると、どうしても考えてしまうわけである)。
とりあえず、天気予報や、料理や編み物などの情報を調べられる(見られる)ことが分かって、多少は、「役に立つ」という印象は持っているようであるが、まあ、半年くらい、部屋のオブジェとなっていそうな印象もある orz
彼らに私が伝えようとして、苦労したのは、そもそも、この iPad が、「無限」の可能性があることを理解させることであった。例えば、WEBの画面から、無限にさまざまな情報を「探せる」と、いくら口で言ってみても、その

  • イメージ

が、そもそも、彼らの中にないわけである。私たちは、今まで、WEB上に、なにがあるのかを、長年の検索生活によって、知っているから、「ここまでのことができる」という「イメージ」を、自分の中にもっている。ところが、彼らには、そもそも、その「経験」がないわけである。
なにも知らない人が、「いろいろなことを知ることが可能だ」ということを、文章としては分かったとして、じゃあ、どうやって、イメージさせればいいのであろうか。
こういったものは、ただただ、「成功した体験」を積み重ねてもらうしかないのであろう(しかし、そんな「苦労」を、高齢の方たちが進んでやるものですかね)。
確かに、iPad には、「可能性」がある。しかし、そういう意味では、「中途半端」な印象を受けなくもなかった。あれを、高齢の人にポンと渡して、使いこなせるところまで行くのは、相当にハードルがある。
4) 上記で私が検討してきたのは、すべて、なんらかの「経験」が、「予測」の範囲内で納まらなかった例であると言えるのではないか、と思っている。
つまり、往々にして、経験というのは、予測と合わない、ということである。
近代科学の最先端の、ダークマター、宇宙物理学においても、なぜ、夜空は暗いのかという

  • 経験

についての「説明」から始まっているように、物理学を始めとした、あらゆる自然科学が、徹底して「経験」の説明体系であることは、よく考えてみると、驚きではないだろうか。
この前から、一ノ瀬さんのロック人格知識本を読んでいるのだが、この本は、まさに、ロックの「可能性の中心」を探究した本だと言えるのではないだろうか。
一般に、ロックは多くの哲学者に、その「矛盾」を指摘されてきた。つまり、おそらく、近代の人々の感覚では、なかなか、読んですぐ、ロックの「意図」が分かりにくい記述になっている、ということなのではないかと思われる。
しかし、一ノ瀬さんではないが、問題はロックが「首尾一貫」した主張を続けていると考えられるのかどうかであって、そう思えないとするなら、なにが問題になっているのか、そしてその問題が、そもそも、当時のロック自身にとって「本質的」だったのかを考えなければならないであろう。

以上のような筋道で浮かび上がってくるロックの人格の捉え方は、一見奇抜でラディカルに思われるけれども、実はわれわれの日常的感覚と決して背反しない。それどころか、かえって、永遠な真理を希求するという哲学の伝統的な発想に縛られる限り抜け落ちていきがちな、われわれの日常的了解の機微を、ロックの捉え方はうまく拾い上げることができる。それはたとえばこういうことである。われわれは通常、家族を自分にとってかけがえのない人格と見なし合って生活している。しかし、そうした見なし合いのなかには、もしかしたら一瞬のうちに家族の人格性が変容してしまうかもしれない、そういうことがありうる、という暗黙の了解も織り込まれていると言うべきである。だからこそわれわれは、家族の言動や表情の変化を気遣い合い、暗黙のうちに確認し合う、法的にいっても、実感からいっても、人格性がゆらぎがちだと考えられる老人や精神疾患者や子供の場合に、こうした気遣い合いと確認し合いの契機が一層顕在化する。痴呆の症状を呈しつつある老人が眠りから覚めたとき、非行に走りつつある子供が遊びから戻ってきたとき、われわれは様子を尋ねる。それ何げない家族の触れ合いだが、そこには、人格性を確認し合うという営みが間違いなく潜在している。そしてその裏には、人格というものは変わりうる、という冷静な了解が控えているのである。ロックの議論は、こうした日常的な実感をそのまま取り込むことができるのである。

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

一ノ瀬さんは、この本で、ダイナミックな人間の「実践」過程を、知識とか人格といったような概念と結びつける。人々は、一瞬一瞬において、「暗黙の同意」、「明示的な同意」、これを繰り返す。それを、相互に行っている。それ、

  • そのもの

を知識や人格と考えるわけである。だから、この認識は、一瞬にして変わるかもしれない。絶えず「同意」を反復し続ける実践的な運動として考える、ということである。
つまり、ロックは究極的な「経験」論者だった、ということなんですよねー。うーん。
しかし、こういったダイナミックな絶えず、前進していく「実践」過程は、例えば、新しくアメリカ合衆国を作るとか、発展途上国が、植民地から独立して、民主主義国となるとか、こういった

  • 前に進もうとする国家形成運動

に非常に相性がいいように思われるのだが、どうであろうか...。