戦争と性暴力2

うーん。ひとまず、今回の件について、私なりに問題だと思う点をもう少しくわしく整理してみよう。
まず、橋下市長の発言については、とにかく、日本の戦中の従軍慰安婦が「必要だった」と明確に述べたことであろう。
これについては、(池田信夫すら言っていたように)そもそも、従軍慰安婦に日本政府が関わっていたのかどうか(そういうことを示す証拠物件があるのか)のファクトではなく、それが日本(政府・軍隊)にとって(というか、彼の口ぶりからは、そもそも軍隊というものにとって)、必要なものだったという形で、踏み込んだ発言をしている、というところに特徴がある(つまり、彼は「価値判断」をしてしまっているんですね)。
つまり、これは、従軍慰安婦に対して、軍が関与していたのかどうかの事実関係と関係ない、ということである。しかし、もし必要だということになるなら、橋下市長は、従軍慰安婦の人たちが「自分の意思ではなく嫌々やらされていた」という人たちに、

  • でも、「あなたたち」は必要だった

と言っているというわけである。よく考えてほしい。ここで、「必要」という言葉が非常に大きい意味であることを。従軍慰安婦(つまり、英語で言う「性奴隷」)の人たちが、必ずしも、「自分でやりたいと思ってやった」という人たちではなかった(そういう人が多かった)ということでは、みんなが合意しているわけである。たしかに、それが戦争というものだ、と言ってもいいでしょう。
争点だったのは、その従軍慰安婦の運営に、日本政府や日本軍が関わっていたのかいなかったのか、そして、それを証明する資料があるのか、が問われていたわけである。
ところが、それに対して、橋下さんは、

と言っているわけである。整理すると、

  • 必要だったのだから、当時の日本政府や日本軍が従軍慰安婦を利用したことは「反省しなくていい」。
  • ところが他方において、当時の戦時下の状況を考えても、ほとんどの従軍慰安婦(性奴隷)が「自分がやりたいと思ってやっていない」ことを、みんなが認めている(戦争とはそういった悲惨な状況だと)。

もはや、日本政府や日本軍が実際の運営に関与していたのかどうかではないわけである。必要だと言ってしまっているのだから、そこから必然的に、日本政府や日本軍が従軍慰安婦(性奴隷)を利用したことを「認めなければならない」と橋下さんは、その「必要だった」という発言によって、人々に求めているわけである。
もし「必要」な従軍慰安婦(性奴隷)を民間が運営していなかったなら、政府はどうしたであろう? 「必要」なのだから、民間以外の手段を使って、集めたであろう。だって、「必要」なのだから。
つまり、今回橋下さんの発言の立場にたつ人がいるとするなら、彼らは次のような主張を認めざるをえなくなるわけである。

  • もはや日本政府や日本軍が従軍慰安婦(性奴隷)の実際の運営に関与していたのかどうかを問うことが意味がなくなる(協力的な自分たちの需要を見たす民間がなければ、自分たちで行うことを「積極的」に検討することには「正義」があるという立場であることを認めたのだから)。
  • ほとんどの「自分がやりたいと思ってやっていない」従軍慰安婦(性奴隷)の人たちが、結果としてその行為をさせられたことは、「そういった活動が日本にとって必要だったのだから、日本政府がそういった組織を使ったことを責めることはできない」となり、そもそも日本政府や軍の関与があったのかどうか以前に、その道義的責任を当時の日本政府や軍に問うことはできない(なんらかの「犯罪」の意識が彼らになかったなら、この行為自体の責任を問えない)。

いずれにしろ、橋下さんの大きな問題は、彼が従軍慰安婦(性奴隷)の「価値判断」を、変えたことにあるわけである。
たとえば、橋下さんは政治家として、これから、どういった法改正を目指すと予測できるであろう。まず、日本の自衛隊が、もし戦争に巻き込まれた場合を考えて、従軍慰安婦(性奴隷)の「常設」を求めることになるであろう。なぜなら、ひとたび、戦争となれば、必ず必要になる(彼の主張)からである。よって、国民から、どのようにして、従軍慰安婦(性奴隷)を集めるのかの議論を始めることになる。つまり、彼の持論である

  • 徴兵制の復活

の女性版である、

ということになるだろう。言うまでもなく、戦場に民間人が近づけるとは限らない。しかし、従軍慰安婦(性奴隷)が必要だと彼が言うのだから、なんとかして、兵士のいる場所に来てもらわなければならなくなるであろう。つまり、最初から民間が行うことは不可能なのだ。
しかし、それですむだろうか。
まず、兵士がさまざまな「要求」をしてくることが考えられる。美人がいいとか、若い娘がいいとか。しかし、橋下さんの考えに賛同する国民は、その必要性には同意しているのだから、あとは、どこまで兵士たちの「需要」に答えるのか、ということになるであろう。大事なことは、国民的合意によって、橋下さんの考えに賛同した国民が、目指す制度だということである。当然、国民は、男性なら徴兵制に進んで参加するであろうし、女性なら、「進んで」公営従軍慰安婦(性奴隷)に参加する、という形になる、ということであろう。
つまり、これが「必要」ということの意味だと、私は考えるわけである。
それに対して、東さんが「「慰安婦は必要だった」は問題発言なのか?」が語っていることは、どうも、上記の橋下さんの主張に対応していない。
つまり、カール・シュミット的に言えば、戦争が深刻化した状況という「極限状況」では、あらゆる悪は「相対的」に考えるしかないんじゃないのか、ということになる。つまり、こう考えるなら、そこではすでに最初から、「極限状況」になってしまった場合における、「相対的な悪」の評価の方法の話に議論が変わっている。
この辺りで、彼の「極限状況」における人間=動物論みたいな話が展開されて、それに同意するのかどうかを問いかける話の展開になるわけだが、しかし話がかみあわないのは、多くの場合、日本の自衛隊にしても、アメリカ軍にして、別に、「極限状況」ではないわけであろう(実際、自衛隊にまでなると、ほとんど、災害復旧とか、戦闘行為と関係ないことをやっていることの方が多いんじゃないのかとさえ言いたくなる)。というか、そもそも、「極限状況」を仮定して行う議論に、一般的な妥当性があるのだろうか、という疑問がある。つまり、「極限状況」が起きた場合を「前提」にした議論をしてしまったら、なんとでも言えてしまうんじゃないのか、ということなのである(つまり、カール・シュミットの議論に私たちが同意できるのか、彼の「極限状況」や「機会原因論」に賛同できるのか、と似たような議論になっているように思われる)。
もっと言えば、橋下さんの「慰安婦は必要だった」論には、明らかに、軍隊そのものと「慰安婦」をセットに考えなければならない、という、

  • 過去の大戦という「一回性」に縛られない

一般的な「軍隊」論といった性質があったわけで、それについても、東さんは、対応して話していないように思われる...。
うーん。橋下さんの発言が海外のメディアまでとりあげるようになっている状況では、あまり軽はずみな議論は慎む方向に、今後は進むということなんですかね...。