一体なんだったのだろう?

昨日まで二回にわたって、このブログで書いてきたことなのだが、一応、最後ということで、簡単ではあるが、これでけじめにしたいと思う。
大阪の橋下市長については、私は彼の今までの経歴ややってきたことから、ある意味、こういった発言をすることになることには、一定の必然性があったのだろうと思う。
もちろん、政治家としてそれでいいのかには、大きな疑問があるだろう。まず、センシティブな発言をする場合は、政治家はそれなりのチームをつくって、発言のゲラをチェックする体制にしていない限り、多くの「失言」にからめとられて、自分が本来やりたい仕事ができなくなってしまう。
もちろん、だから何かを言いたいわけではないが、私にとって大事なのは、自分がそういった他人の行動を(いい悪いは別にして)「理解」できるかな、と思えるかどうか、だということである。
それに対して、東さんの反応は、そもそも、私には理解できない。どうして、この人は、こういった発言をするのか。それは、いい悪いとは別に、「なぜなのか」が分からないのである。
そういうわけで、彼の過去の発言から、少し気になったところを、確認してみようと思う。

政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間はつねに少数です。それなのに、莫大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのなかで、左翼は自分に都合のよい情報をネットで集め、右翼も同じことをする。

ウィトゲンシュタインは、そもそも生きることそのものの「ゲーム」性を問うたのだと思うが、ウィトゲンシュタインから見れば、人間のあらゆる行動を、いったん「ゲーム」と考えたときに、どうしてももれでてくるような、「隙間」にある「なんとも分類に困る」ような、人間の行動を注目し続けた、ということなんじゃないかと思うわけである。
そういった視点で考えると、上記の「本当に何が起こったか」とか、「自分に都合のよい情報」といったような、「本質主義」的な発言は、どこかナイーブに聞こえる。
つまり、上記の引用のようなことも、一つの「ゲーム」と考えるなら、「本当に何が起こったか」という「表現」で行われるゲームである限り、実際にそれが「本当に何が起こったか」と関係ないものをそれとしてゲームをしていたとしても、そのゲームが「回っている」限り、どっちだろうがどうでもいいわけであろう。
同じように、「自分に都合のよい情報」と言ってみたところで、「実はそうでないかもしれない」わけであろう。それが、情報の物質性なのであって、先験的にどちらかである、なんて臆断が、むしろ、どうでもいいということなのではないか。

ちょっと話の矛先を変えると、たとえば、なぜ歴史の問題すら解釈次第という立場なのかと言われたら、それはぼくがポストモダニストだからです。
リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

なにか「ゲーム」を始めるとき、どうして自分の「戦略」を宣言してから始めなければならないのか。そんなものは、「成り行き」でいくらでも、変わっていくし、変わっていいにきまっている。だって、それが「ゲーム」ということなのだから。
つまり、彼はポストモダニストを「演じている」わけである。だから、

  • うまく演じられているのか?

ばかりを気にしている。だれもそんなことには無関心なのに...。

ポストモダンという思想のせいではないかもしれませんが......だから、ぼくが言いたいのは、ぼくという人格は個別にあるものではなくて、時代性とか、さまざまなものによってつくられているわけです。
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つまり、そういう区別自体が、本質主義的でどうでもいいんじゃないのか。個別にあろうが、時代で決定されていようが、(ジョン・ロック流に言えば)一瞬一瞬で「選んだ」なにかなわけであろう。だったら、どっちだっていいではないか。それが実践ということなわけだから。

大塚さんにとってネットはオプションかもしれないけど、ぼくにとってはそうでないですから。そのダメージが身体的に感覚できるかどうかは、やっぱり世代的なものがあると思います。
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自分が他人の目を気にすることを、きっと「世代論」のせいだと、なにかよそに原因を求めている時点で、その深刻さがあるというものであろう。そんなのは人気商売だからにきまっているんで、だったら、一人でも「生産的だった」と言ってもらえることを、愚直にやるしかないし、その結果どうなったのかを気にしてる暇なんかない、ということじゃないですかね...。