イーヴァル・エクランド『数学は最善世界の夢を見るか?』

いわゆる「ガリレオ革命」と呼ばれていることがある。知っている人はどれくらいいるのだろうか。
私たちはよく「今日は忙しくて、一日が短く感じた」と言うことがある。また逆に、「今日は暇で、一日が長く感じた」と言うことがある。
ここで問題は、「では一日の長さは、実際には、どっちだったのか」と問うたとき、どうなるか、である。
しかし、この質問は、現代人にとっては愚問である。

  • 同じに決まってるではないか、ボケー!

と説教をされて終わりである。こんな常識もない人間と話ができるわけがない、と。
しかし、このことは、私たちの自明性が実際のところは、なにを意味しているのかを問いかけてくる。一日が、毎日同じ

  • 長さ

であると言うことは、実際は何を言ったことになるのか?
というか、これが「自明」になったのは、一体、いつからなのか?
時間の「長さ」という言葉をここで使った。しかし、それはどういうことなのか。そもそも、時間に「長さ」があるのか? いや。「ある」ということを言うとするなら、どういう「意味」で「ある」なのか? 一体、いつから時間に「長さがある」ということが、オーソライズされることになったのか?
もちろんこう言うと、あなたは言うであろう。「じゃあ君は、毎日、朝起きて夜寝て、って、そういう(時間という)間隔を否定するとでも言うのかね。じゃあその間ってなんだというのかね」と。もちろん、「そういう意味」で、なにかをやっている、と言うのなら、いいのである。そうではなくて、

  • あなたも私も
  • どんな場所でも

「同じ」時間が流れている、と言う場合に、そこに「長さ」(共通の尺度)が「ある」と言うから、それって実際のところ、なんなのだ、と聞いているわけである。最初の質問を思い出してほしい。
時間が早く進む。とか、ゆっくり流れている。とか、君と僕では、感じている時間の進み具合が違ってるんじゃないかな、とか。そういう相対的なものとして時間を感じながら人々が生活しているというなら、それはそれでいいわけである。しかし、そうじゃなく、絶対的な「尺度」がある、と、いつ、だれが言い始めたのか、と聞いているわけである。
この問題は、古代ギシリアに戻らなければならない。コンパスと定規の二つによって「高度」な幾何学を発達させた古代ギリシア哲学において、こういった時間がどのように考えられていたのかを知ることは、非常に「自分たちの世界がどういった認識をもって始められていたのか」を知る上において、重要である。

アリストテレスの物理学は、空間の不均一性にもとづいていた。
それによれば、物には本来の場所、その物にふさわしい居場所があり、物にはかならずそこに戻ろうとする。たとえば重さのある物体なら、本来の場所は下にあり、だからこそ物体は下から離れるや戻ろうとする。つまり引きとられないかぎり落下する。このように考えるとき、唯一の安定した状態は静止である。なぜなら運動は一時的に平衡が崩れた状態から回復するための、過渡的で非本質的な現象にすぎないからだ。
これとよく似た考え方は形而上学にも見出される。聖アウグスティヌスの言葉を思いだそう。「主よ。御身はわたしたちを御身のためにつくられました。ですから、わたしたちの心は御身のうちに休らわないうちは不安なのです」(『告白』第一巻第一章)。不安(inquiete)----否定・打消の意味をあたえる接頭辞[in-]のついたこの言葉は、安らぎや静止の外にあること、したがって運動していることを含意する。つまり、神離れた魂も地面を離れた石ころも同じように不安なのだ。

アリストテレス物理学の特徴は、ほとんどの場合、「観察」の結果と合っていることである。実際に、私たちの手から石を離せば、地面に落ちる。まるで、その石にとっては「下」が

  • 本来のそれにとっての「あるべき場所」

のようではないか。つまり、アリストテレス物理学は、運動をなんらかの「否定」、本来的では「ない」状態として表象する。ということは、どういうことか。

  • それとは別の「本来的」な(理想的な)「状態」が「ある」

ということを言っているわけである。つまり、その「理想」を

  • 基準

にあらゆることを考え、その理想の状態から離れている状態を「カオス」と考えるわけである。しかし、そういった「カオス」は、いずれ、

  • 本来あるべき所

に向かう。つまり、これが「形而上学(メタ・フィジクス)」という意味なのであろう。プラトンの対話に「メノン」というのがある。ここで、プラトンソクラテスに、「想起説」を語らせている。

プラトン哲学においては、真理は発見するものではなく、思い出すものである。相次ぐ二つの生の間に、魂は死者と未だ生まれざる者の世界を旅し、永遠で、不変で、完全なもろもろのイデアをもう一度見つめる。これらは魂が地上を旅する間に出会うものすべての青写真だ。「理論(theory)」という言葉にも、そのような知識の概念は見てとれる。ギリシア語の「テオレイン(theorein)」とは「見る」という意味であり、「テオレイア(theoreia = 理論)」とは「見られたもの」という意味である。イデアの中には、物理的運動のようなうつろうものの居場所はない。そのようなものに対して「理論」は持てない。なぜならこの世に生を受ける前に、それを見たはずはないのだから。たた不動なものだけがイデアの完全性といくらかの親類関係を結べる。実際、ギリシアの物理学には静態----専門用語では「平衡」----の発達した理論があった。

アリストテレス物理学においては、物は下に向かうのが「本来性」なわけである。つまり、下に行ききって「静止」することが、その「到達点」ということになる。じゃあ、まだ「落ちきっていない」状態とはなんなのか。これが、言ってみれば、「可能態」みたいなものだ。この物体の「本性」は落ちきることにある。つまり、本来的にはこの物体は、落ちきる。つまり、落ちきった状態こそ「現実態」だということになる。
ここから、プラトン想起説は、そう遠くないように思われる。そういった本来どうあるべきなのか、という状態を私たちが考えることとが何を意味しているのか。本来、というとき、その本来とはなんなのか。
ソクラテスと対話をしている奴隷が、ソクラテスの導くままに推論していたら、自然とピタゴラスの定理に気付く。別に、ソクラテスがなにかをしていたわけではないのに。つまり、その奴隷は、前から知っていた、ということではないか。つまり、いつか、どこかでその奴隷をそのことを知ったということにならないか。
つまり、そういった「本来」といった考えは、私たちがこの地上に生まれ落ちる前に、「見てきた」世界だというわけである。じゃあ、この世界はなんなのか。その「本来」の世界の、

  • まねっ子

へたくそなコピー、模造品というわけである。だとするなら、私たちはどうすればいいのか。この世界で生きることを「耐える」しかない。この混沌とした、偽の世界が、さまざまな「混乱」があることは、この世界が、一種の現世という「地獄」であるのだから、こういった「ごちゃごちゃ」は、ある程度、しかたがない。
やれることとしたら、そういった「本来」の世界を想起して、その「理想世界」に現世を近づける、なるべく近づけることが、せいぜい、私たちがこの世界で、

  • 心の平安

を実現する手段だ、ということになるであろう。
なんともネクラな考えと思うかもしれないが、この考えの特徴は、「動いている」とか「変化している」というようなことは、そもそも、「混乱」の、「間違った」状態だということである。そういうものは、現世が「不完全」だから「ある」にすぎなく、

  • 美しくない

わけだ。「本来的でない」と。
なんとも、現世を忌避した、どこか仏教くさい、「純粋主義」的な色彩をもった思想だが、そもそも、こういった思想はなぜ、定着したと考えられるであろうか。
おそらく、彼らが到達していた「ユークリッド幾何学」が、

  • あまりにも完成しすぎていた
  • 美しすぎた

ことが原因ではないだろうか。定規とコンパスの二つ「だけ」で、あらゆる幾何学理論を完成させていた彼らには、この理論の

  • 完成度の完璧さ

が、あまりにも完全すぎて「宇宙の真理」は、むしろ、この中にある、と思わずにいられなかった、ということなのではないか。
つまり、ここでおもしろいのは、あくまで、「定規とコンパス」というこの「二つだけ」で使った世界だということである。この二つに「制限」されているところが、おもしろい。つまり、なぜ、この二つなのか、がよくわからない。よくわからないが、この二つを選んだことで、

  • 非常に美しく豊穣な幾何学的結果

が、大量に生まれたわけである。こういった結果の美しさと興味深さは、この二つに制限されることがなかったなら、生まれなかったわけである。
そうすると、今度は、この「道具」に、なんらかの

が生まれる。この道具に制限されていることには、なんらかの意味があるのではないか、というような。しかし、そんなふうに考えると、ますます、この二つに固執してしまう。
彼らは、「運動」と聞くたびに、なにか、ゲテモノでも見るように、嘲笑を始める。そんなの、この現世という汚れた世界の混沌でしない、とか。そんなものが、まったくもって、めちゃくちゃなのは、この世界がダメな世界だからにきまってるんで、だから、うにゅうにょと動いているんだ、とか。
つまり、そういったことを「真面目」に考えない。こういったものが滅茶苦茶なのは、そういう堕落した、汚れたものなんだから、ある意味、当然よねえ、と忌避する。
つまり、「真面目に考えない」というわけである。
運動は、ダメである。体育の授業で、子供が前ならえができなく、すぐに、回りの子供にちょっかいをだしていて、ぜんぜん整っていない状態みたいなものだ。
しかしねえ。そんな説明でうまくいくのか。例えば、天空の星座はどうして回ってるんですかねえ。

平衡状態にある物体をそのままにしておけば、ずっとそのままでいるだろう。平衡を破るには物体に力を(できれば直接触れることによって)かけてやらなければならない。この力が運動の原因になる。原因がなくなれば運動は止まるしかない。これがアリストテレスと彼の後継者たちの知的枠組み、現実世界でわたしたちを取り巻くさまざまな運動を理解するための大前提だった。これにはいささか難点がある。たとえば星の動きを説明するとき、彼らは地球をとり囲む巨大な球があると考え、星はその上に固定された光る点で、太陽は毎日その上を移動するのだと信じていたが、この天球がなぜ回転するかを説明するためには、天使や悪魔の軍団がそれを外から押し転がしていると考えなければならなかった。古代と中世を通じ、世界は不可解な運動に満ちた場所で、そのいたる所で物体が急いで平衡状態に戻ろうとしていると思われた。

つまり、話は逆なのだ。なぜ神がいなければならないのか。天使がいなければならないのか。それは、さまざまな「運動」を説明できないから、なわけである。だから、彼ら天使がやっていた、ということにしなければならなかった。つまり、逆にそのことが、神の「存在証明」になっていた、というわけである。
さて。ガリレオ革命の話に戻ろう。

前に、後ろに、大燭台は揺れる。前に、後ろに。大燭台は鉛直の位置を通り過ぎ、向こう側に駆け上ると、一瞬ためらったとに、揺れ戻ってくる。いずれは止まってしまうだろう。周期は変わらない揺れはしだいに小さくなり、しまいには垂れ下がったまま動かなくなる。大燭台のロウソクから金箔の天井に向かって煙が真上に立ち昇る。なぜこの静止位置が、前に、後ろにという、荘厳な規則性をもつシンメトリックな運動より自然でなければならないのだろう。この運動が永久に続くのを妨げているものは何だろうか。運動は自発的に止まるのだろうか、それともまわりの空気や吊り鋼との摩擦のせいで止まるのだろうか。もしかしたら空気や吊り鋼はマイナス要因であり、同じ軌道を同じ周期で永久に往復し続ける大燭台の完全さを損なっているのかもしれない。そうだ、たしかに空気が大燭台を押して運動を続けさせているのではない。このことはロウソクの煙が後ろにたなびいていることからわかる。運動は運動そのものによって続いているのでなければならない。それが止まるのはまわりを取り巻くもののせいだ。それらが正しく整えられさえすれば、大燭台の振子はこの聖堂の脈拍のように永遠に往復運動を続けるだろう。そしていつまでも等間隔に時を刻み続けるだろう。そうなったら折り尺で長さを測るように、その間隔を使って時を測ることができる。

こうやってみると、ガリレオはまったく反対に考えているのがわかる。振り子の運動が止まるとき、アリストテレス物理学では、むしろ、

  • なんですぐに止まらないのか

が問題とされたが、むしろ、ガリレオ

  • なんで止まるのか

にこだわっている。つまり、空気抵抗をなくしたり、吊り鋼をもっと「理想的」にすれば、むしろ、この振り子の運動を

にできるのではないか、と。つまり、力が加わることなく、ずっとこの振り子の運動を継続させられるのではないか、と。
しかし、そう考えると、まったく話が違ってくるわけである。明らかに、振り子は最初、等間隔で動く。どうも同じ早さのようだ。もしこれが「永遠」に続くのなら、その振り子が行って戻ってくる間を、

  • 時間の長さの単位

にすれば、時間は「測れる」と同じことを言っているのではないか、と。
うーん。
ガリレオの言っていることは、正しいかどうか、ということでは、ある意味間違っている。例えば、その振り子を山の頂上にもっていけば、そこは、重力が少し弱いから、振り子の幅やスピードが変わるであろう。もっと言えば、相対性理論からも違うと言うだろう。そういう意味では、ガリレオの言っていることは正しくない。
しかし、ここで問題にしなければならないことは、ガリレオが、「なにも回りが力を加えなければ、同じ運動を繰り返す」ことの方を、

  • 本質的

と考えたことであろう。
振り子とは、一種の「輪廻」である。一回、行ってしまったものが、もう一回、同じところに戻ってくる。それを繰り返すわけだが、もしその往復の間隔が「同じ」と言えるのなら、時間はまるで定規で空間を測るように、

  • 数えられる

ということであろう。つまり、「時間の幾何学」がここに誕生する。
しかし、このことを古代ギリシア的な慣習から考えたとき、何を意味していたのであろうか?

パスカルがほのめかしているように、古代ギリシア人はこの曲線[サイクロイド]を研究する数学的手段をもたなかった。実際この曲線は定規とコンパスだけでは描けないし、代数方程式でも記述できない。

サイクロイドとは、円を一周させたときの円上の一点が描く軌跡であるが、この曲線は、代数方程式では記述できない。今でも、sin とか cos とかで記述される。つまり、代数方程式化できない曲線なのである。
運動を記述する上で、これほど、基本的なものはないと言ってもいいはずなのに、そんな基本的なものさえ、定規とコンパスでは描けなかったのだから、古代ギリシアでは、まったく、扱いたくても扱えなかった

  • 図形

だった、ということである。このように考えてくると、いかにガリレオ革命が重要だったのかが分かるであろう。振り子の「理想」化から、普遍的な時間の概念が確立すると、そこから自然と、

  • 速さ
  • 加速度

が気付かれるように思われる。一定の時間を早く進んだり、ものすごい勢いで動き始めたりというものを記述する数学的概念は、ある意味、あっという間だったようにも思われないだろうか。
このようにして、古代ギリシア幾何学は、ガリレオ革命を通過することで、まったく新しい「幾何学」に進むことになった。まったく、キテレツな形の図形も、その図形の時間変化も、一つの

として考えられるようになった、ということである。ここにおいて、時間は「直線」と区別がなくなる。このように考えるなら、この事態は、言ってみれば、古代ギリシア幾何学のヴァージョンアップだとでも言いたくならないか。つまり、私たちは、確かに、定規とコンパス

  • 以外のなんでも

使うようにはなった。しかし、今、なにを使っているにしろ、やっぱりやっていることは、ヴァージョンアップした形での幾何学なんじゃないか、と。
しかし、そうなってくると今度は、この「運動」なるものの「幾何学」は、私たち人間によって「決定」できるのかな、ということになるであろう。まさに、ユークリッド幾何学のように、公理から導いていけば、あらゆる「運動」は「決定」するのだろうか、と。

質点の運動の記述はガリレオとその後継者たちによって成し遂げられた。これについてはラグランジュの本にすべて説明されている。その次に複雑なのは剛体の運動で、こちらは質点の運動よりはるかに重要である。なぜなら質点は数学的フィクションにすぎないからだ(無限に小さいのにしっかり質料のある物体を思い浮かべてみてほしい)。早々と剛体の運動へと関心が移ったのも当然といえるだろう。
ところが残念なことにこの問題は一般には解けない。今日では、剛体の運動方程式はきわめて特殊な場合にしか解けないことがわかっている。

質点は、ユークリッド幾何学においても存在したように、あの「点」とか「線」とかいってた世界のことである。その点が「重さ」をもっていると言っているにすぎない。
他方、剛体は、一種の実際の私たちの身の回りの「近似」である。私たちの身の回りの物体は、みんな大きさがある。そして、その大きさに「重さ」があるのであって、つまりは、剛体の運動の記述なしに、現実世界の「幾何学」とか言えないであろう。
ところが、そっちの運動方程式は、「ほとんどの場合」解けない(可積分でない)というのである。
このことは何を意味しているのか?

可積分系のおもな特徴は何だろう。また、まそれらを自然科学全般に当てはめると何がいえるだろうか。第一の特徴は、運動方程式が解けるということだ。これは、その運動方程式を満たするべての運動の軌道が計算できる----未来のいかなる時の軌道も任意の精度で計算できる----という意味である。したがって系の未来の状態は、その系の現時点のデータからすべて予測できることになる。第二の特徴は、可積分系が予測可能なだけではなく、安定でもあるということだ。これは、任意のあたえられた時刻における系の状態(位置と速度)をほんの少しだけ変えると、その後の全軌道もほんの少しだけ変化するということである。いいかえると、可積分系では結果は原因に比例する。微かな擾乱(たとえば蝶の羽ばたき)がいつしか大きな擾乱(たとえば熱帯の激しい雷雨)に成長するというようなことは起こらないのだ。

これは言わば、「ちょっとだけずらし」戦法が通用しない、ということである。線形性が保たれているなら、ちょっとずらしても、いきなり、大きく変わらない。変わらないから、微妙にずらして、ずらして、近似できる。でも、ちょっと変えたら、まったく違う図形になってしまうんだったら、そういった対象は、

という感じですかねー。
こういった世界観は、前半のプラトンアリストテレスの話とも関連して、おもしろい。彼らは、本来的であることとか、理想的であるといったような、

に対応させて、現実社会を「仮」の、「不完全」な世界とイメージした。つまり、彼らにとって、

  • 別にパーフェクトが「ある」

ということが前提だった、ということである。そして、それを表象しているものが幾何学であった。ところが、ガリレオ革命以降、幾何学を時間を含めたものになるにつれ、そういった「本来的」だとか「理想的」といったようなメタ・フィジクスが通用しない

が注目させるようになっていく。つまり、ちょっとずつずらして「理念」型に近づけようにも、ちょっとずらすに従って毎回毎回、「まったく違うもの」になってしまうわけだから。
つまり、そもそも「最善」とか「最適」とか、そう簡単に

  • 「一番」を決められない

ものが、多くの考察の対象(幾何学の対象)となってきた、ということである。

ガラパゴス諸島のフィンチの例は有名である。ダーウィンはこの鳥に多くの種があることに気がついた。種によって嘴の形状が異なり、木の実を割るのに適した頑丈な短い嘴もあれば、虫を捕らえるのに適した細く尖った嘴もある。ダーウィンは、これらはすべて大陸に生息していたフィンチの子孫で、もとは一つの種だったのが諸島のさまざまな食物源に適応していくつもの種に分かれたのだろうと考えた。もう一つ、きわめて特殊な適応例寄生虫である。サナダムシは移動や知覚のための器官をもたず、宿主の腸の内壁に引っかかって生きている。環境には適合しているが、他の条件下では生きられない。実際、寄生虫は宿主の外ではあまりにも非力なので、いくら何でも彼らを生存競争の勝者とみなすのは無理がある。しかし彼らはあくまでも宿主を世界として進化しているのであり、わたしたちのように他の可能世界のことなどほとんど気にかけていないのだ。
今挙げたのは単純な例である。フィンチは安定した食物源を獲得しようと戦い、寄生虫は宿主に適応する。しかし、ほとんどの種は食物網(フード・ウェブ)----捕食者と被食者の連鎖で編まれる複雑な生態系----の中で生態ニッチを占めている。そこで事情ははるかに複雑になる。なぜならそれぞれの種の環境は他のすべての種で構成されているからだ。いいかえると、種Aの適応度が測られる世界とは、Aを含めた現存種すべての集合にほかならない。ダーウィンの考えによると、変異をともなう継承のプロセスは、種Aがその世界(種B、種C、および他のすべての種からなる世界)により適合するように、少しずつAを変えていく。だがこのプロセスは種Bにも同じように働きかけてBを変えていく。種Cについても、種Dについても、他のどの種についてもまったく同じことがいえる。その結果、すべての種が同時進行的に進化していくので、どの種から見ても環境はたえず変化しつつあり、どの種もその新しい条件に適応していかなければならない。これは単純な最適化にくらべはるかに複雑なプロセスであり、全体としてどうなっていくのか興味のあるところだ。

しかし、よく考えてみれば、ほとんどの世の中の事象は、こういうものなのではないだろうか。確率論において、簡単に、その事象は

  • 独立

と仮定しましょう、なんてやってしまう。そうして、全体の統計の「平均」をとれば、「なんだ、たいしたことないじゃん」と考えてしまう。しかし、仏教はあらゆるものの「因果」を説いていたではないか。
今週の videonews.com で、アレクセイ・ヤブロコフ博士が、福島第一事故の、WHOやIAEAの事故被害の説明とまったく、かけ離れた甚大な被害を予測しているのは、いわば、

  • 個々人の追跡

から見えてくる姿だということではないか。勝手に「平均」的な仮定を置いて、全体をならせば、「たいしたことねーじゃん」と言いたくなったとしても、それを、当事者たちの一人一人で見ていけば、まったく、そういった「平均」とか関係ない特殊な事情が見えてくる。
博士は、

個人への影響は、目の水晶体の混濁や歯のエナメル質の変質、毛髪や爪などにのこった核物質の痕跡などから知ることが可能だという。
screenshot

私はこういったことは、現在までの科学的アプローチの有効性が問われているのではないか、と思えてならない。
私たちは、どうしても、古代ギリシアプラトンアリストテレスがそうであったように、「本来的」だとか「理想的」だとか、そういった

  • 近似

で考えてしまう。そうして、どうせ福島でも被害を受けるのは、5パーセントもいないんだろ、とか、自分には関係ないというように、個々人の具体的な事情を無視して、行政上のコストから、政策を選択してしまう。しかし、そういった説教は、どこまで妥当なのか。個々人の事情に適合的なのか。
むしろ、ここで問われているのは、どうやって個々人の「事情」からアプローチをする科学的態度が可能なのか、ではないのか。そういった科学的態度とはなんなのか、が求められているのではないのか。そういった「語り方」を可能にする科学的な「言葉」を私たちは生み出してきたのだろうか...。

数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ

数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ