ルール主義に先立つルール

(タイトルは、クェンティン・スキナーの『自由主義に先立つ自由』をパロディってみました。どうでもいいですけど。)
私が最近、「ルール」の問題に再度関心をもったのは、ジョセフ・ヒースの『ルールに従う』を読んだからであるが、この本では、私は二つの指摘に注目した。一つは、一般に世間で、

  • 道徳
  • エチケット
  • ルール
  • ゲーム

こういったふうに呼ばれているものを、そもそも、本質的に区別できるのか、という指摘であった。どうして、こういった考え方が重要なのかというと、一般的な、私たちが「本質的」に思いがちな、「道徳嫌い」や「善悪嫌い」への「再考」を促すように思われるからである。
なぜ、道徳や善悪が、このような形で再考されることに意味があると思うかというと、一般に、道徳や善悪が問題とされるとき、なにが嫌われているかというと、その道徳や善悪が

  • 指示している(文学的な)「意味」

が、「本来的」でなかったり、「自然的」でなかったり、つまり、

  • 人工的

であるから、「ニセモノ」だから、というわけである。
(このロジックは、どこかで見たことがないだろうか? 言うまでもない。本居宣長である。)
しかし、である。
上記の視点において、何が言えるのか、で考えてみてほしい。つまり、たとえ、その命題の「意味」が、嘘っぽく見えようとも、みんながそのルールに従っているが「ゆえ」に、

  • 実現されている秩序

は、確実に私たちの生活を「安定的」にしている。

  • だとするなら、

どうして、こういった「秩序」をバカにできるであろうか? だって、こういった秩序をバカにする連中だって、こういった「秩序」によって生まれている安定の便益を享受しているわけであろう。だとするなら、そういった「反抗」って、一種の「不良」ぶりたい連中による

  • 甘え(=悪ふざけ)

だと言えないだろうか。例えば、上記の一覧が興味深いのは、道徳とルールが並列されているだけでなく、ルールと「ゲーム」が並列されているんですね。つまり、ゲームは「ルール」の一種なわけです。
このことについては、宇野常寛さんの『リトル・ピープルの時代』の「第三章 拡張現実の時代」も、ゲーミフィケーションを主題にした議論であった。
そういう意味では、

  • 道徳の精緻化

と、

  • 社会におけるゲームの「氾濫」

は、「同じ現象」だと言うことができるであろう。ゲームは「社会のルール」の濫造品だと考えることができる。
では、こういったゲームの「濫造」が、社会の向かうべき方向だということになるのか。
それについては、次のように考えられる。まず、日本維新の会が言っているような、カジノの濫造は、人々、特に、若者の射幸心を刺激する。当然、お金を使い過ぎて、破産する子供もでてくるであろう。それも「勉強」だと言うのは「ヤクザ」の論理で、カジノの拡大は、それに「対応」した、

  • 人々の射幸心の過激化を考慮した

カジノの制限を求める、「道徳」が

  • 発達

する。
つまり、アンモラルなゲーム(エロゲーを含む)の過激化には、そういったものに対して、あまりにそういうものを「社会的に認知」することへの

  • 道徳の側からの警告

が、社会の内部から生まれることになる。つまり、社会はそういった、多くの

  • 道徳的なルールの「束」

のようなものによって、さまざまにバランスされ、牽制され、規制し合っている状態をイメージする、ということである。
このことは、昔、筒井康隆が、「文学の聖域性」を主張したが、つまりは、そういった一切の「聖域」を認めない、というのが、

  • 社会のルール化(ゲーム化)

の基本的な方向だと考えることができるであろう。
そもそも、なぜジョセフ・ヒースの『ルールに従う』は、上記のリストにあるように、ゲームやルールは、道徳と区別しない、という立場を選ぶのかというと、そこに、ヴィトゲンシュタイン(や、それ以降のプラグマティズムの成果)に対応する

  • 言語論的展開

への、決定的な評価があるわけなんだと思うんですけどね。つまり、言語を「ルール」と区別しない、というような方向なんじゃないですかね。そして、そういった視点が、私たちが幼少の頃から、言語を学習していく過程において、非常に重要な役割を果たしている、と思われる、と。
ヴィトゲンシュタインということで思い出すのは、柄谷行人さんの『探究1』なんですよね。ただ、あそこで柄谷さんが興味をもっていたのは、どちらかというと、ヴィトゲンシュタインが考えるような「ゲーム」が、

  • うまくいかない

と一見、考えられるような場合でも、それはそれで、なんらかの「ゲーム」であり「ルール」がある、というようなものだったように思われるわけです。
そういった延長で、『探究2』の方では、ルソーの「自然人」に注目される。このルソーの「自然人」は、なんというか、上記までで考えてきたような、さまざまな

  • ルール

が発達する前の、各自が独立して、他人を気にしないで生きているような状態を「礼賛」したようなところがあって、そうすると、そういった一人一人は、いわば、他人に

  • 無関心

であることが、基本の姿として考えられている。つまり、柄谷さんの中では、これは、現代において、フロイトが注目した、ナルシシズム神経症と、リンクされて考えられるようになる。
こういった存在は、いわば、社会の民主主義的な合議のメンバーシップに対して、最初から、ネグレクトされている。彼らは、民主主義からハブにされているだけではなくて、そもそも、本人たちが、民主主義に対して、

  • 無関心

なわけである。
ここで、柄谷さんは何を考えようとしているのだろうか? 柄谷さんは私たちの、ある種の自明性に挑戦しようとしている。つまり、民主主義という「ルール」に参加してこようとしない、上記のような存在がいることに対して、

  • でもそれって、民主主義の理念に矛盾するよね?

と挑発しているわけであろう。あるルールが存在しても、必ず、そのルールに従ってこない人たちがいる。そういった彼らを、簡単に

  • ルールの外

に放置できるのか、という話になってくる。あるシンプルなルールが一つあったとする。そうすると、次の「集合」に分かれる。

  • ルールに従う人の集合
  • ルールに従わない人の集合

つまり、有名な「内と外」の話であり、システム論は必ず、こういった構造をしている。
柄谷さんのこの懐疑論的考察は、なにを問題にしているのか? それは、言ってしまえば、

  • 共通のルール

という発想に対する、徹底した「拒否」にあるのではないか。たとえば、

  • ある人

が、自分に「とって」、どれとどれとどれがルールであると思っているとする。ところが、別の人に「とって」は、それらはルールとして受け取られていなかったとする。そうした場合に、どうして、前者の人の認識によって、後者の人は非難されなければならないのか、という話になる。
つまり、前者の人にとっては、「これは正しい」と思っていたとしても、どうしてそれが、後者の人にまで、認められなければならないのか、という

  • 他者論

の文脈で考察されているわけである。柄谷さんがずっとこだわっているのは、人が簡単に他者を「分かる」という傲慢についてであろう。それは、たんに傲慢なだけでなく、間違ってもいる、という

  • 他者の不透過性

に徹底して、とどまる倫理的な姿勢を表明している、と言えるであろう。
しかし、そのことを、さらに進めて考えた場合、どういった話になっていくのであろうか。柄谷さんの懐疑論であり不可知論であり、もっと言えば、「独我論」は、あるシステムやルールが、

  • 無謬

の完璧さを誇るというものではないことを、示唆する。つまり、そもそも、そういったものは、ある個人と個人が、出会い、関係している、その場面における

  • 倫理的な状況

において、始めて、関わってくるものであって、そこを離れて、システムやルールの有効性を語ることは傲慢だということであろう。
よく考えてみれば、そんなことは、当たり前のことで、人によって、さまざまに事情が違うのだから、悩んでることも違うわけで、その人に応じた接し方をするのは、当たり前だし、そうしたコンテクストにおいて、一見、人によって、言うことが違っているようなことも起きるのが、私たちの日常であろう。
つまり、ルールの「無謬性」が「過信」される社会を柄谷さんは批判しているのであって、つまり、ずっとこの人は、人間的に考えている、ということだと思うんですけどね。
つまり、どういうことか。ルールは、あくまでも、私たちが

  • 主体的に関わる

ことなしに、その有効性を担保することはできない。つまり、受動的に関わることを強いられる限り、その有効性を保てない。つまり、ルールは必ず、どこかしらに、参加や自治というアイデアなしに主張できない。そういったものがオミットされる限り、反動的とならざるをえない。
このことを逆に言えば、どうしてもルールには、そのルールに関わってこない「無関心」な人々があらわれることは避けられない。つまり、そういった相手に対して、どこまで、このルールの「無謬性」が主張できるかは、そう簡単ではない、ということになるであろう。
つまり、社会のルールの「精緻化(=細かなルール化)」は、一方において、限りなく極大化していきながら、他方において、それぞれのルールの

  • 厳罰化

は、おそらくより弱まるだけでなく、そのグラデーションは、より「なめらか」になっていくことが考えられる。それは、人それぞれによって、諸事情があり、そして、その内容については、多くの場合、他人には、なかなか理解が難しいからである。
しかし、他方において、上記の柄谷さんの「人間的」な方向での倫理社会の展望に対して、まったく反対の方向に、つまり、ファシズム的、パターナリズム的方向に考える人も当然、あらわれるわけである。
それは、上記において、ルソーの自然人やフロイトナルシシズム神経症を、むしろ、「人間の本性」の方向に解釈していく立場である。これは、いわば、フロイト心理学を、

  • まじめ

に受けとって、社会変革をしていこうという「文学」的立場と考えられる。つまり、こういった属性は、「人間の本能」と関係している、という方向で考えていく。だったら、これはフロイト心理学の応用問題でしかない。つまり、フロイト心理学の徹底した「社会化」こそが、

  • 社会問題の全ての答え

ということになっていく。
しかし、ちょっと待ってほしいのは、そもそも、柄谷さんは、フロイト心理学を、社会的なルールの考察においては、あくまで、ナルシシズム神経症のところまでに、とどめた、ということなのではないか。つまり、彼はそのレベルを超えて、社会のフロイト心理学化を抑制した、ということであろう。
つまり、人間にはさまざまな「本能」が「ある」という、全体主義的議論は、そもそも、民主主義や住民自治に馴染まないわけである。
つまり、そういったものは、本質的に、人々の「自由」に反している。
他者を、「自由で不透過な存在」として扱うことを拒否する形に向かわざるをえなくなる(あくまで、精神分析は、医者が患者と対面する場面において、洗練させたツールでしかないのであって、その「一般化」を社会理論とすることは、全体主義的な結論しか生まないのだろう)。
ジョセフ・ヒースの『ルールに従う』が興味深いのは、最近の、ブランダムなどのネオ・プラグマティズムの方向で考えている、というだけでなく、上記までで述べてきた、柄谷さんが『探究2』の後に、「探究3」として、カント論を始めたことと、ほぼ対応した仕事をされているから、なんですね。
(柄谷さんは、ルソーの自然人を、「人間に無関心」な存在としてイメージしていたはずなんだけど、なぜか、フロイト心理学好きな人たちは、ルソーの自然人を、「性欲の塊で、毎日、異性のことばかり考えている」つまり、「人間(=異性)に関心ありまくり」の偏執狂として、

  • 読み替える

わけなんですよね。つまり、自分の都合で、柄谷さんを解釈するので、柄谷さんが、その後、カント論に行ってからは、完全にドン引きしているわけでしょう。そのことが理解できないし、昔の柄谷さんはよかった、みたいな。でも、上記のように考えれば、実に、自然な流れにしか思えないんですけどね。)
つまり、ヴィトゲンシュタインの言語論的展開の延長において、

  • 「カントの超越論的動機」の可能性の中心

を、この本は考えている。

たとえば、道徳感情論、道徳性が拡張された共感の一形態に根差しているという主張にしばしば基づいている。しかし、「人間社会における大規模な協力は拡張された共感に基づいているのか」という問いは容易に発することができる。これまで見てきたように、その答えははっきりしたノーである。共感は、人間の社会性を説明するメカニズムとして十分頑健なものではない。また共感が、他の仕組みを通して、どのように大規模協力を実現するのに十分頑健なメカニズムへと強化されうるのかを理解することは容易でない。共感は疑うことなくわれわれの道徳的生活の一部であるものの、それはどのようにして大規模な協力が達成されるのかという主要な問いに対する解答にはなりえないし、したがってわれわれを他の霊長類から区別するものを説明しない。

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

つまり、ここで言っているのは、共感は事実として道徳の「一部」ではあるが、道徳は、

  • それだけではない

ということである。このカントの超越論的動機の方向で考えるとき、

  • そもそもの事実性として

私たちの社会は「それだけ」で、実際に構成されていない、という事実を端的に指摘しているにすぎない。
誤解のないように言っておくと、上記のルソーの自然人にしても、フロイトナルシシズム神経症にしても、もっと広く、「子供や外国人」にしても、彼らが、なんのルールにも従っていない、ということを意味していないわけである。つまり、彼らは、私たちと、同じルールを共有していない、ということを意味しているにすぎない。それが、「他者」ということの意味である。
だから、そもそも共感は「成功しないかもしれない」わけである(それが、「他者」ということの意味なのだから)。
(というか、もっと言えば、「悪の弁証法」といって、悪は悪に共感する。イジメは次のイジメへと「拡大」する。イジメは一種のイジメっ子への「共感」なわけで、だからといってイジメっ子に共感することは「悪」だと言っても始まらないであろう。だって、それにはそれなりの「理由」があるのかもしれないのだから。しかし、だからといって、イジメの「拡大」がこれだけ社会問題になっているのに、悪への「共感」は、「共感」だから素晴しい、その方向に行けば、はるか未来には理想の社会が待っているとか言っていたら、たんにウザくないだろうか?)
上記で問題にしているのは、そういった機能の必要性については否定しないとしても、それだけで、人間社会における「大規模な協力」を説明できない、と言っているわけである。

もっと具体的な例をとってみよう。なぜ人々は酔うと不道徳的に振る舞うのだろうか。合衆国における暴力犯罪のなんと40パーセントは、アルコールの影響下にある人々によるものである。したがって、当然のことながら、ルコールが個人に及ぼすどのような効果がそのような規範的秩序の侵害の可能性を高めるのかという問題に関して、かなりの量の研究が存在している。たとえばアルコールが否定的ないし暴力的感情を刺激するかもしれないという仮説が広範に研究され、決定的に否定された。ほとんどの現代の研究は、「脱抑制」理論を改良したものに焦点を当てている。この理論が示唆しているのは、アルコールは何ら特定の感情や行動を喚起しないが、単に規範的コントロールを弱めるということである。文献の中でよく用いられているイメージを使うならば、それはアクセルを踏むようなものではなく、むしろ自分の足をブレーキから離してしまうようなものである。(アルコールが規範的コントロール一般を減退させること、すなわち、人々が無礼に、型破りな仕方で、後先を考えず、そして不道徳的に行動する可能性を高めることも注目に値する。)私には、これは明らかに動機のヒューム主義的理論に反しており、自然主義的なカント主義的理論に都合のよい発見であるように思われる。それは、道徳性が正しい欲求の種類を持つことに関するものではなく、間違った種類の欲求を拒否するものであることを示唆している。
ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

なぜ、ナチスのエリートたちが、次々とユダヤ人虐殺を行ったのかは、つまりは、彼らは「ルールに従った」わけである。つまり、

  • もっと大きな「ルール」

があると彼らは自分に思い込ませることで、日常の「人を殺してはならない」といったようなルールを、自分に対して抑圧したわけであって、つまり、むしろ、悪のルールが、人に善のルールを無視させ、悪の行動を行わせる。
つまり、それだけ「ルール」は、強力だということでもある。
例えば、ここで、私が、ある「思考実験」を言ってみます。最初に言っておきますが、これは、かなり、非道徳的です。あくまで、絶対に実行に移さないことを、最初に心に誓います。
つまり、身近に接している人を、自分が、なんらかの凶器によって、殺すことを考えようとしてみてください。
すると、どうなるでしょうか。おそらく、多くの人は、そんなことを

  • 考えようとすることさえ、抵抗する

んじゃないでしょうか。これが、ここで「道徳」と言っているものの本質です。つまり、道徳は、

  • 「正しい欲求の種類を持つことに関するものではなく、間違った種類の欲求を拒否するものである」

ということを理解する必要があります。道徳は、徹底して「禁止」に関係します。だからこそ、

  • 大規模な協力行動

を成功させるわけです。
上記の、こういった議論には、マイケル・サンデルが、結局のところは、(リチャード・ローティのような)リベラリズムの側に立たず、アリストテレスの徳倫理を評価するコミュニタリアニズムの側を相対的に評価していることとも、大きく関係しているように思われる。

もし人間が非常に頭のいいチンパンジーにすぎず、人間の合理性が、穴の中からシロアリを釣るときにチンパンジーが用いる認知能力の増幅にすぎないのならば、われわれはおそらく道具的推論者となっていたことだろう。また、われわれは非常に非協力的で、語るに値する文化や文明を持たず、150名を超えない原始的集落に住んでいたことだろう。しかし、このイメージは人間知性に対する誤解を表現している。われわれの知性は進化的発展の頂点ではない。また動物界の内部には、そのような方向性を持った明らかな性向は何もないのである。われわれはむしろ、奇妙で、ちょっとありえなさそうな小さな枝分れのようなものである。
ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

人間の道徳性は、明らかにわれわれの種において呈示されているような特定タイプの社会性の帰結であり、より具体的には、われわれの種の中で社会的結合が達成されている仕方の帰結なのである。大集団での協力からそれほどの便益が得られないような種には、そのような必要がないだろう。平均的な血縁度がより高い種は生物学的メカニズムで十分なので、共有した文化を通じた統合を必要としないだろう。したがって道徳性は特殊人間的現象である。
ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

これが、『ルールに従う』の最後の章の最後にある文章であるが、著者の考える「ルール」というのが、人間にとっての「大集団」の「規律」について考えていることが、よく理解できる。
例えば、これを、東京のJRの多くの利用者が作り出している「秩序」について考えてみればいい。あの空間において、なぜ、多くの人たちは、

  • おとなしく、人の流れにまかせて

動いているのか。それは、むしろ、そういった抵抗を何回か行った後にたどりついた「諦念」に近いんじゃないのか、とは思わなくもない。つまり、あの流れに逆らって動けば動くだけ、回りの人との衝突を起こし、そのたびに、個人的に「傷つい」ていたら、きりがないわけであろう。
つまり、この本において考察されている「ルール」や「道徳」は、どちらかというと、こういった形で生まれている、「大集団内での人々の行動」を規正しているもの、といったものと考えるといいんじゃないかと思うんですけどね...。