福島第一事故に対する「社会的合意」とは何か?

どうして、私たちの福島第一問題への「不快」な感情は、いつまでも続いているのであろうか?
というのは、どういうことか。
ここでは、なぜ、その感情が「続いているのか」というところにこだわってみたい。
ここで大事なことは、もうすでに、3・11から、かなりの月日が過ぎた、ということである。つまり、3・11直後に見られた、政府や国民の緊急時の「混乱」はすでになくなっている、ということである。
つまり、私たちは「冷静」になった。多くの情報が「整理」された。どういった人が、どういった主張をしているのかが、つまびらかになった。それぞれ、たとえ意見の対立があったとしても、それなりに、お互いの主張を十全に行い、相手がどういった主張をしているのかが、はっきりしてきた。
ということは、どういうことか。
普通に考えれば、もう、福島の人たちは、自分で「判断」できる情報は、そろっているはずだ、ということである。
そこで分かってきたこととは、なんだと言えるだろう? 私は、一番分かりやすい話こそ、(小出裕章さんの言っていることであり、つまりは)放射線を日常的に使う仕事をしている放射線技術者の人たちが、実際に今まで、どのように管理して生活してきていたのか、そこに「全て」がある、と思っているわけです。
だって、考えてみれば、当たり前なわけです。彼らは仕事でやっています。だから、なるべく、規制は緩い方がいいわけです。そっちの方が、仕事が効率的にできるのですから。しかし、無理に規制が緩くなっていて、「危険な仕事」にまで一線を越えていたら、今度はこの仕事を目指そうとする人々が少なくなってしまいます。
つまり、そもそも、3・11以前から、こういったプロフェッショナルな世界においては、「まっとう」な「基準」が採用されていたであろう、ということは常識的に考えれば分かるわけです。それが1ミリシーベルトだったわけであろう。
ところが、3・11直後、当時の民主党政権は、100ミリシーベルトしきい値」説について言及したり、20ミリシーベルト規制という言葉が使われました。
もちろん、なんらかの「緊急時」用のボーダーとして、「一時的」にそういった目安を議論することには、意味があるのかもしれません。しかし、それが長期に渡るとなってくると、話が違ってきます。
民主党の幹部は、「エリート・パニック」問題に言及しました。つまり、もし、本当のことを言ったら、福島県民の多くが「パニック」を起こして、いっせいに避難をしようとして、混乱が起きるんじゃないのか、と。だから、「しょうがなった」と。
しかし、だとするなら、それは「嘘」つまり「デマ」の一種だったということになるでしょう。しかし、その理屈はどこまで正当化できるのでしょうか。というのは、もしこの理屈で「デマ」を流すことが許されるなら、この理由で「お金儲け」をするために、「デマ」を流すことだって許されるでしょう。そしてそれが、

  • トンデモ科学

だったわけですよね。彼らだって、理屈上は「住民を救う」ために、トンデモ科学商品を売りつけているわけでしょう。どっちにしろ、

には変わらない。医者が患者に「安心」を与えるために「嘘」を言うのだってそうです。それを本当に「正当化」できるのか? 一体、どんな根拠によって正当化するのか。
というのは、もし医者の「間違った」治療によって、患者の障害がよりひどくなっていた場合を考えてみましょう。もし、その事実を患者に伝えずに、

  • 安心

を与えたら、どうなったでしょうか。その「犯罪」は、医者によって、闇に葬られたことになります。
もしも、医者が患者に「安心」を与えるために、真実を伝えることが制限されてもよいという場合が存在するとするなら、それらについて、

がなければ、市民の側の「不信」が蔓延しないでしょうか。
ここで、3・11によって引き起こされた、放射線の人体への影響については、次の二つに分ける必要があります。

  • 3・11以降に、「既に」私たちが受けてしまった影響
  • 「これから」私たちが受けることになる影響

前者の問題とは、なんでしょうか。これは、例えば、3・11直後に非常に大量の種類の核種としてばらまかれたと共に、私たちが受けた外部被曝内部被曝のことになります。これらについては、まず、3・11直後のヨウ素などについては、すでに、なくなっており、私たちが、どれくらいの量を被曝したのかが、確認しづらくなったと言われていながら、他方において、非常に「深刻」な量であった可能性が指摘されています。
それとは、別に、今、私たちの体内にあるセシウムなどの放射線量を確認することは可能だと言われています。
では、後者の問題とはなんでしょうか。これは、例えば、私たちが明日から、福島県に移住して、そこで一生過ごしたときに、これから受ける、放射線の量だと考えられるでしょう。
この二つに対して、前者は、どんなに後悔しても、すでに過ぎてしまったことであることが大きな特徴です。つまり、あの場に、たまたま居てしまった限り、それなりの影響を受けたであろうことは、無視できない。だとするなら、それによる健康上の確率的なリスクを長期的に頭の隅に置いておいた方がいい、ということになるであろう。
もちろん、被害者であるという視点においては、それなりの保障を国なり東電に要求していくことになるでしょう。
では、後者についてはどうでしょう。後者においては、今度は「逆」の問題があります。つまり、あえてそこに、い続けないという「選択」がありうる、ということです。
そこに、い続けないというのは、どういうことかといえば、ぶっちゃけ、移住する、ということです。もちろん、そこで、例えば、関西に移住したとしても、そこには、また別の原発がたくさん今もあるわけですが、いずれにしろ、福島第一経由の放射性物質からは、それなりには、遠くなるとは言えるのでしょう。
しかし、この問いは、むしろ、その「逆」が重要です。つまり、移住した人たちについては、それはそれでいいわけです(もちろん、移住したからといって、前者の保障がチャラになるわけではありません。むしろ、そこについての基本的な合意が弱い印象はいなめないのではないか)。大事なのは、あえて、そこにとどまっている人が、どういった条件によって、そうしているのか、ということです。
それは、とどまっていることが悪いということではなくて、そのようにあることの「構造」が注目されます。まず、基本的に、多くの私有地、私有財産福島県内にもっている人、福島圏内の会社で働いている人、こういった人たちは、その土地を離れるという選択「自体」に、

  • リスク

があるでしょう。
では、だとすれば、どのように考えればいいのか、ということになります。
この福島県内の、高濃度の土地に住み続けることについて、どのように考えればいいのでしょうか。
まず、「リスク」という意味では、それなりに「危険」であることを、人々は忘れてはならないでしょう(それが、LNT仮説の意味なわけでしょう )。その上で、政府は、そこで住むことの権利を認める場合、

  • そこに住むことによってもたらされるかもしれない「リスク」に、なんらかの「保障」をするのか?

という政策上の判断が必要になります。しかし、文脈上、政府なり東電は、彼らへの保障を行わないわけにはいかないのではないか? (加害者と被害者の関係が明確ですからね。)
しかし、その「保障」とは、何を言っているのか、という問題になります。
というのは、例えば、ガンという病気を考えてみましょう。ガンになるということは、人の人生にとって、重大な出来事です。しかし、すぐに死ぬわけではありません。また、それなりの治療行為によって、直接、ガンによって死なないかもしれない。しかし、そうだったとしても、その間の治療には、多くの生活のコストを強いられることが考えられます。
また、それ以上に重要なポイントは、その人がガンになる年齢だとも言えます。若い頃にガンになることと、晩年を迎えてガンになるのでは、その生活への「未練」の大きさも違うでしょう。また、放射能の問題では、むしろ、若年層への影響が、老人以上に大きいのではないかと言われてきたことにおいても、この部分が非常に大きなポイントと考えられているのではないでしょうか。
また、その他の病気にしても、はっきり言って、その原因を明確に区別できるのかは疑問ではないでしょうか。白血病のようなものであれば、当然、ガンと同じようにその影響を考えられるかもしれませんが、他の、もっとありふれた病気だとしても、放射性物質を避けるために、なにげなく行っている日常の行動が、さまざまなストレスとなって、それが遠因としてもたされたと大きく考えられるかもしれません。
そこまで考えたとき、そこで生きることを選んでいる人へ、どこまでの「補償」を行うのかは、非常に大きな問題であると考えられます。
さて。
もしも、日本の政府が、3・11を境にして、100ミリシーベルトしきい値」説を

  • 本当の意味

で採用したのだとすると、どういうことになるでしょうか?
まず、上記における「後者」の補償が必要ない、というふうに判断されるのではないでしょうか。たとえば、今日から、外国人の夫婦が海外からやってきて、福島県内で生活を始めた、とします。そして、子どもができました。その子どもは、100ミリシーベルト以下の地域で育てました。
さて。
その子どもに、上記で検討した「下の場合」の「補償」をする必要があるでしょうか? もしも、日本政府の公式見解が、100ミリシーベルトしきい値」説であるなら、その必要性は限りなくグレーになっていきます。つまり、その

  • 根拠

がないとされてくるのです。
これが「公害」問題です。
水俣病がなぜ拡大したのか。それは、既得権益側が、「まだ科学的に証明されていない」と言ったからでしょう。これと同じことが、今回も行われる可能性がある。
例えば、このような思考実験をしてみましょう。子どもの出産には、ある程度の割合で、障害児が産まれると統計的に言えているとします。では、福島で、なんらかの障害をもって産まれた子どもが産まれたときに(または流産したとき)、それは、

ということであれば、その子どもへの、それを理由とした「補償」は受けられない、ということになるでしょう。しかし、この構造は、どこか水俣病に似ています。まだ、科学的に因果関係が証明されていないからといって、なんの手も差し延べなかった場合に、その土地の人たちの「感情」が納得するのか、ということになるわけです。
その場合、重要になるのは、社会的決定(=政治的決定)と呼ばれるべきものでしょう。人間の社会的な営みは、科学的な因果関係の「証明」がなければ、行なってはならないということになると、さまざまな、宙ぶらりんにされた「被害者」が生まれる可能性があります。だとするなら、そういった人たちも含めて、「苦しんでいる人たち」に、なんらかの援助を差し延べる「手段」が用意されているべきなのではないか、ということになるわけです。
まずもって、私たちはこういった問題をどのように考えればいいのでしょうか。私は、上記までで検討してきたことから、次の二つをポイントと考えます。

  • 3・11以前の放射線技術者向けに適用されていた「法律」という「ルール」が、まずもって、私たちがなにを考えるにも、最初に考慮されるべき基準点である(つまり、1ミリシーベルトというボーダーは比較的合意が成立しやすい)。
  • 「エリート・パニック」にしても、医者による患者へのパターナリズム(患者に真実を隠す、一種の「トンデモ科学」)にしても、結局のところ「嘘」は、問題の解決をもたらさない。

その上で、「どういった社会的、かつ、政治的な合意であれば、人々の納得を比較的広く得られるのか」という、

  • 一般的な公害問題

への基本的な認識が問われている。そのように考えるわけです。
そういったことを考える上で、今回の参議院選挙は重要に思われます。今週の頭くらいから、東京では、一時的だったのか、民主党鈴木寛候補と、山本太郎候補の一騎打ちの様相を呈したことで、元官僚の鈴木候補と懇意な、ネット高学歴有識者たちが、次々と山本候補をボロクソ言い始めました。
特に許せなかったのが、山本候補を「ポピュリスト」とか、「差別主義者」と言った、高学歴者たちでした。私は鈴木候補について、たいした知識がないので、ここでこの人のことをとやかく言うつもりはないが、山本候補を誹謗中傷した、こういった連中には、鈴木候補と「比較」することで、山本候補が、それほど学歴がないことや、「たかが」芸能人という

  • 鈴木候補の「輝かしい」職業履歴に比べて「劣る」職業

への「限りない」侮蔑の態度が感じられたわけです。そもそも、この二人の候補を「比較」して、鈴木候補を「絶賛」して、山本候補を dis っている連中が、鈴木候補に負けず劣らずの

  • 高学歴で「輝かしい」インテリジェントな職業履歴

であることに、私は、「恐しい」庶民侮蔑の底意を読み取らないではいられません。
こういった、高学歴連中は、そもそも、山本候補が、「間違っている」と言うのであれば、彼に助言を「与えなければならない」ような立場じゃないでしょうか。むしろ、そういった普通の職業の人が、何人かでも、国会議員になるから、国会は、始めて、「庶民と繋がる」場であることを証明されるのではないでしょうか...。