アリエッティの矜持

おととい、「コクリコ坂から」と「借りぐらしのアリエッティ」を、レンタルで、この順番で見たのだが、私が圧倒されたのは、後者であった。
むしろ、私が思ったのは、なぜこの二つは、こんなにも違うのだろうか、ということだった。
それは、この二つの「共通点」を問うことで、答えられるように思われるわけです。
この二つの共通点は、その「アニメーション」としての「ディテール」ではないだろうか。前者は、戦後の昭和の始めの頃の、少し裕福な人たちの、高校生が高校に通えるくらいの裕福な人たちの生活を細かく描写している。
特に、最初の方の、主人公の松崎海(まつざきうみ)が家族の食事を作る場面などは、とても、細かく作られている。
後者も、小人たちが、どのように人間の家の床下で暮らしているのかを、細かな動きを描写している。
では、決定的に、この二つを異質なものにしているのはなんだろう?
前者は、作品の作り方が、一貫して「説明」くさい。つまり、英雄奇譚なわけだ。つまり、最初から、なぜ彼ら、ヒーローとヒロインは、ヒーローでありヒロインなのかが説明されなければならない。なぜ「ハッピーエンド」にならなければならないのかが、作品の最初から、嫌というほど、嫌みったらしく、説明されてくる。
この作品に「他者」はいない。
しかし、その他者を「示唆」する描写が、ないことはない。それが、朝鮮戦争であり、カルチェラタンを取り壊そうとしている、

  • 大人側

である。高校生たちが部活部屋として使っているカルチェラタンという建物の取り壊しの話が、もちあがり、それに、その建物の部屋を使っている学生たちが、取り壊しに反対する場面が挿入されてるわけだが、ここで描かれているのは、学生による「自治」の描写である。
彼らは建物の取り壊しに反対するために、団結して、責任者に、取り壊しの取り消しを求めて、要求する。実際に、その要求を行うために直談判をしに行くのは、代表して、主人公を含めた3人なのだが、いずれにしろ、彼らは、その自分たちの主張の実現のために行動し、ほとんどの学校の学生の賛同を得て、最終的には、建物の取り壊しを撤回させる。
この一連のやりとりは、一見すると、「美しい」話であり、なにもケチをつけるところがないように思われる。しかし、大事なポイントは、そんなに簡単に取り壊しを止めさせることは、一般にはできない、ということである。
こういった行動を止めさせるためには、本当の意味で、彼らを説得できなければならない。団交もいるであろうし、行政官僚たちによる、ジム処理的な嫌がらせに会いながらも、ねばり強く活動をしていかなければならない。
そのことは、現在の脱原発運動が、さまざまに、原発ムラの利害当事者によって妨害されていることからも分かるであろう。
しかし、少なくとも、ここには、学生が「自分たち」で、自発的に行動をしている「内発的」な運動の姿を描いていることは、一定の評価ができる。
大事なことは、これが当事者たちの「運動」だということである。それは、結果が成功するかどうかとは関係ない。私にとって大事なことは、唯一、当事者の人たちが、

  • 自分たちで決めている

ということである。
(私が「ダークツーリズム」というやつが、虫酸が走るのは、ようするにこれが、住民が求めているのかどうかと関係なく行われていることである。福島第一のある建物を、「保存」するには、一体、いくらかかるのであろうか? そのお金をだれが出すのであろうか? そもそも、そんなお金があるのであれば、避難している人に一円でも、お金を援助できないのであろうか。現場の作業員の給料を一円でも上げられないのだろうか? 除染にそのお金を回せないのだろうか?
ようするに、彼らは、住民と関係なく、

  • 世界中の人のため

に、「フクシマ」を利用したい、と言っているわけである。今後起きるであろう、世界中のどこかの原発の事故のために、福島から人々に学ばせたい、と。
ここに来てまで、彼らは、福島の人々に、世界中の人のために、役に立て、犠牲になれ、と要求しているわけだ。
なぜ、福島第一は「保存」されなければならないのか。恐しいのは、それが、「今を生きている福島の人のため」ではない、ことである。福島第一が「保存」されなければならないのは、現地の人たちの生活が今どうなっているのかに関係なく、福島第一という

  • 建物「そのもの」

が、福島の人たち「以外」の人たちにとって、「価値がある」からだ、と言うわけである。その建物を保存しておくことで、福島の現地の人ではない、

  • 世界中の人

が、多くを学べるから、と言うわけである。つまり、もっと言えば、

  • 国や東電は、福島第一の「保存」をすれば、それが「国家の財産」なのだから、多少、福島の人たちに回る福祉が削られてでも、福島第一を保存するたに、こっちにお金を回せ

と言っているわけである(つまり、露骨に言うなら、福島第一の保存とは、国家や東電の「財産保全」の運動であって、つまりは、

  • (住民ではなく)国家や東電の「ため」

にやっているわけだ)。しかし、「保存」とはなんだろう? ただの、鉄の柱は、時間がたてば、すぐに、錆びてボロボロになるであろう。なにかで、コーティングでもするのであろうか。雨水にさらして、そんなに何年も、いい状態を保てるのであろうか。
しかし、こういった活動であっても、福島の住民の方たちが、自分たちへの福祉の供給を減らしてでも、この保全運動を優先させたいと言うのならば、私は「自治」の観点から、そこには「義」があると思うわけである。
私が「ダークツーリズム」を絶対に許さないのは、これをやっている人たちが、ネット上で、品性下劣な発言をし続け、原発推進を、まるで「しょうがない」ことであるかのようにレトリックをろうし続けている、いわゆる

  • 不謹慎運動

になっているからで、こういった、なんの「徳」もない、地元の人たちと関係のない東京人たちによる、素朴な福島の人々をだまして、利用して、お金儲けの手段にしようとしていることに、私は、こういった高学歴の人間たちが、

  • 人間的に恐(おそろ)しい

から、一切の評価を拒否する、と言っているわけである。)
では、他方において、「借りぐらしのアリエッティ」はどうであろうか?
こちらは、一言で言えば、「異文化との遭遇」になるであろう。
ヨーロッパの人が、アメリカ大陸でインディアンに遭遇したのもそうであろうし、この前まで放送されていた、アニメ「彗星のガルガンティア」で、はるか昔に地球を離れて独自の文明を発展させていた人間が、地球に帰ってくることもそうだろうし、そんな彼らが、海底に住むクジライカという「人間並みの知性」をもつ彼らと遭遇することも、そうであろう。
アリエッティの家族は、人間に自分たちが知られたら、この家の軒下から出て、また次の家を探して、旅に出る。
つまり、彼らは人間と共存ができない。実際に、彼ら小人たちは、自分たちの勢力が次第に減少していることを理解していないわけではない。そういう意味では、アリエッティは、なんとはなしに、「人間との助け合い」の関係になることが必要なのではないか、そういったことか可能になるような人間もいるのではないか、ということを、その家の住人で、心臓の悪い、主人公の翔(しょう)という少年との出会いによって、感じながら、この家を離れていく姿が描かれる。
なぜ、この少年は、彼ら小人たちを助けたのか。もし、この少年が、体の弱い病気がちでなかったら、家政婦のハルのように、小人を逃がそうとしなかったかもしれない。お金儲けの手段に使おうとしたかもしれない。
そういう意味では、この作品を、この少年の「幻想」として考えることもできるであろう。
大事なことは、私たちは、この「小人」というのを、なんらかの「比喩」として読まなければならない、ということである。
この世界には、さまざまなマイノリティが存在する。そして、そういったマイノリティは、マイノリティゆえに、常に、存続の危機にさらされている。
この「危機」を「現実」とすりかえて、一切の「マイノリティ」を、この世界から消滅させようとする勢力が、

  • フラット派

である。彼らは、この世界から、一切の差異がなくなることを夢見ている。一切の言語の差異がなくなり、一切の文化の差異がなくなり、グローバリズムは、世界を「効率的」にし、それが「リアル」なんだ、と。彼らは、ようするに、国家であり政府であり、権力者に擦り寄る生き方だけが、唯一の選べる生き方なのだと言いたいのであろう。
それに対して、アリエッティは、自分たちには仲間がいる、と反論する。自分たちは「滅びない」と。
そして、アリテッティは、この人間社会と戦うために、この家から、逃げるわけである。
私たちが見るべきは、このアリエッティが、人間の少年である、翔(しょう)と「対等」の存在として向き合おうとし、誇り高く、彼と対峙していることである。
コクリコ坂から」において、他者はいないというのは、そういうことで、朝鮮戦争における、朝鮮人が描かれることはないし、カルチェラタンを壊そうとした大人たちのリアルな実像が描かれることもない。徹底して外部を排除したナルシシズムの世界。
しかし、他方において、なぜ翔(しょう)という少年が、アリエッティに出会えたのかには、間違いなく、少年の心臓の病気が関係している、と言えるであろう。アリエッティがこの世界に現れえたのは、翔(しょう)という少年の病気が関係している。病気が、アリエッティをそれとしてあらしめることを許したのであり、その病気の深刻さが、アリエッティという「小人」というあり方を「それであっても」肯定させたのであり、つまり、そういった形においてでもない限り、私たちがマイノリティであり「他者」と向き合うことは、そう簡単には起きにくい、ということなのであろう...。