マット・リドレー『繁栄』

長々と書かれているこの本は、一体、何が言いたいのか?

あえて楽観主義者でいようではないか。

これが、この本の最後の言葉である。つまり、著者は世間に並いる、レスター・ブラウンなどの「悲観論者」たちに対して、自分は、その逆ばり、むしろ、人類の未来は明るい、「希望」を語るんだ、というわけである。
その根拠は、実に単純な話で、実際に今までの人類は、過去から進歩しているから、というわけだ。

この本で私は、アダム・スミスチャールズ・ダーウィンの考え方に基づいて議論を進めてきた。人間社会をトップダウン決定論の産物として解釈するのではなく、遺伝子の代わりに文化の変異体が自然淘汰されてきた長い歴史(哲学者のダニエル・デネットはこれを泡沫(バブルアップ)進化と呼ぶ)の産物、そして個々の取引の見えざる手によって発生した創発的な秩序として解釈しようと試みた。生殖によって生物学的進化が累積するように、交換によって文化的進化が累積して知性が集団的になること、それゆえに混沌として見える人間の行為の陰に男女の営みの明確な潮流が認められることをも示そうと試みた。その潮流は上げ潮であって、引き潮ではない。

以前、ジェイン・ジェイコブズの本を紹介したとき、近年の農業は、少し前に比べて、格段に、人間を必要としなくなっている、ということを書いた記憶がある。広大な農地を、数えるほどの人数で、最新のテクノロジーによって作られた高度な農作業機械を使って、膨大な量の農作物を生み出し、市場に流通させられる。つまり、農業という「仕事」に、大量の人が必要なくなっている、と言いたいわけである。
それによって、人々は、田舎の農地に縛られることがなくなる。都会に出てきて、そうやって生産された食糧を、過去に比べても比較的に安価に手に入れ、生活できる。
掲題の著者も言っているように、「分業」つまり「専門化」とは、人間の「集団化」を意味していると考えられる。上記の例にしても、はるか過去において、また、今でもほとんどの動物にとって、自らの食糧の生産と、自分が生きることは区別できないことであった。というか、各個体が行っている「行為」は、どの個体も、違いがなかった。
ほとんどの動物、いや、人間を除いた全ての動物がそうであると言っていいであろう、自らが生まれてすぎにおいては、まだ、生きていく手段を身につけていない段階において、自らを育てるのは、親である。親は、狩猟採集によって食糧を獲得し、子どもに与える。子どもは体が大きくなることによって自立していくわけだが、行うことは、自らの親たちと同じである。子どもを産み、同じような手段によって、子どもを食べさせる。
ところが、人間においては、その様相は、歴史を駆け上がっていくごとに、違ってきている。つまり、親子という

の関係だけでなく、

の関係が重要になっていく。ある人は、そもそも、狩猟採集も農業もやらない。食糧の「生産」的な行為をしない。では、彼らはどうやって生きているのか。なんらかの「交換」によって、食糧を手に入れる。この場合、大事なことは、その人が実際には、狩猟採集や農業を行う能力があるのかないのかには関係しない、ということである。とにかく、彼はそれをやらない。やらない代わりに、「それ以外」のことをやるのである。これが「専門化」である。
この行為の利点は、多くの時間的リソースをその行為に注げることによって、その人が、その専門行為を「極める」ことが可能になる、より技術的な効率化、向上が見込める、ということである。
しかし、私は他方において、この著者の言っていることは、どこか、原因と結果が逆になっているんじゃないのか、という印象をまぬがれない。
というのは、掲題の著者が悲観主義者として罵倒している人たちは、別に、こういった「今までの進歩」を賛美していないわけではないからだ。

人類史上どの世代よりも平和、自由、余暇、教育、医療、旅行、映画、携帯電話、マッサージを享受してきた現代人は、あらゆる機会をとらえて憂鬱な気分に浸る。先日、私はある空港の書店に立ち寄って、時事問題の書棚を眺めた。そこに収められていたのはノーム・チョムスキー、バーバラ・アーレンライク、アル・フランケン、アル・ゴア、ジョン・グレイ、ナオミ・クラインジョージてん モンビオット、マイケル・ムーアなどの著作であり、そのすべてが程度の差こそあれ、以上の四点を主張していた。(a)世界はひどい場所だ、(b)世界はますます悪くなっている、(c)責任は主として商業主義にある、(d)世界は転換期を迎えている。楽観的な本は一冊も見当たなかった。

むしろ、掲題の著者が彼らが悲観論者だという印象「受けた」という「印象論」に、とどめるべき話なんじゃないのか、その「印象」を、まるで、「事実」であるかのように著者が語るところに、どこか、うさんくさい印象を受けるわけである。
(このことは、日本の歴史学の「ただの事実の研究」に対して、「自虐」というレッテルを貼って、歴史という「ただの事実の研究」とは、関係のない運動を始めたリビジョニストたちにも似ているかもしれない。)
このことは、脱原発についても言えるであろう。脱原発を主張している人たちは、たんに「事実」を問題にしているにすぎない。その原発という「危険な存在」をどのように考えるべきなのか、そういった「認識」の上で、原発の「廃棄」を主張しているわけである。
ところが、それを聞いた原発推進ぎみのエア御用たちは、どうも彼らの勘所を刺激してしまうのだろうか、どんどんヒートアップしてきて、どうしても、電気の必要性と原発の必要性を「等価」なことであるかのように語らないではいられない。原発からの撤退は、エヴァの主人公のシンジ君が、悩みに悩むように、

  • 逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ

と、内心の葛藤に襲われる。原発を動かさないと決めることが、まるで、

  • 人類の進歩の否定

であるかのように、掲題の著者には、受けとられる。まさに、「自虐史観」だとしか思われない。その姿はどこか、戦争に突き進む日本のポピュリストたちが、撤退することが、全ての終わりであるかのように、受けとられているようにさえ聞こえる。
エヴァの主人公のシンジ君が「逃げちゃだめだ」と言って、原発を動かして、父親であり自分の上司でもある、父親のゲンドウに

  • 誉められて

デレ顔になっている、なにか、こんな構造が見えてきて、しょうがないわけである。
なぜ、上記の主張は、どこか、「歪」なのか?
それは、人類の進歩が、「一直線」だと考えているから、ではないだろうか?
掲題の著者は、分業と専門化によって、人類が「集団化」したから、進歩なんだ、と言っている。しかし、そもそも、彼は「なぜ」それが、歴史的に成立してきたのか、を問うていない。
なぜ、人々は専門化を選べるのか。それは、言うまでもなく、ニコラス・ルーマンが強調したように「信頼」に依存しているわけである。そもそも、人々が社会的な諸関係に、なんらかの「信頼」を受け取っていなければ、そんなことは不可能なのだ。
このことは、もしも、私たちが、これから先の未来に、食糧を海外から手に入れることが難しくなっていくんじゃないかと思うのなら、地方の広い大地を使って農業をやってもいい、ということを意味しているわけである。
つまり、むしろ、ここで重要なことは、いずれにしろ、「ボトムアップの秩序」によって、現代の社会の、かなりの部分は動いている、という認識の方なのである。
グローバリズムが、フラット化が社会を「繁栄」させると考えるのは、一種の「信頼」が成立しうる「条件」を問うことを忘却させている。例えば、エイズの特効薬が発明されたとして、もしのそれを発明した製薬会社が、莫大な特許を訴えて、未来永劫、天文学的な値段で、お金持ちにしか売らなかったら、また、その発明技術の囲い込みを行ったとしたら、それは「進歩」であろうか?
これと似たようなことが、アフリカで、水道水を民間のグローバル企業が高額で売っていることにも比較できるであろう。
そもそも、20世紀は「戦争」の世紀だったわけだが、これによって、何人が死んだのか。この人数を、掲題の著者は、

  • どれくらいの大きさ

だと見積ることによって、「それでもなお人類は進歩している」と言っているのであろうか。つまり、掲題の著者は、未来に20世紀の戦争並みの殺し合いが起きたとしても、「それでも人類は進歩している」と

  • 言うことを予言している

という意味で、彼は典型的な「楽観主義的原理主義者」なのだ...。

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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