鵜飼健史『人民主権について』

政治について、「考える」ことは、どこか、不毛な印象を受ける。それは、日本に住む日本人、一人一人に、「政治に望むこと」があるからである。つまり、その「一つ一つ」に「答える」

  • 何か

があると考えると、結局のところ、何を言っているのかが分からなくなるからだ。
私たち一人一人が「政治にやってもらいたい」ことについて、考えるとは、実際にところ、何を言ったことになるのか?
掲題の著者は、「人民主権」なるものの「正体」に迫ろうとする。ところが、その道程は挫折する。それは、そもそも、「主権」という言葉と、「人民」という複数性を表す言葉との相性が悪いからである。

さらにいえば、デモクラシーが「民衆による支配」を語源とするという教科書的な知識が世間の共通認識として受け入れられたとしても、何が「民衆」なのか、何が「支配」なのかについては、客観的で合理的な了解が共有されているわけではない。

政治における概念の多くは規範的な視点を含んでおり、行為者たちが相互に意味内容を十全に理解しあえていると前提することはできない。たとえば、「民意」や「愛国心」などの言葉が政治家やマスメディアから発せられる際に、あきらかに特定の価値観がそこに含まれており、聞く側との意味内容の共有がなされていない情況はしばしば生じている。さらには、ポピュリストと一般的にみなされている政治家がポピュリズム批判を口にする皮肉な情況は、現代社会に生きる人間であれば、誰しもが一度は直面したことがあるだろう。

これが、いわゆる「政治的なるもの」というものの含意である。政治とは、「政治的なるもの」として流通している「用語」によって代わされる、なんらかの意志疎通である。しかし、それらの言葉は、あくまで、「政治的なるもの」の範囲において流通するなにか、でしない。つまり「定義」がないのだ。定義がないにもかかわらず、こと「政治」を意味する場面において、使わないで話されることのなかった、「政治」が、ある種の「合意」をとりつけるまでの間に使われざるをえなかった、「用語」群が、それぞれ担ってきた「政治的なるもの」の、それぞれの役割を示唆してきたわけである。

国家は国民の利益を体現し、国民は国家によって保護されている。このような国家と国民の契約関係がデモクラシーと解釈され、具体的な政治制度はこのイデオロギーの観点から意味づけられている。たとえば、議会制度はたんなる法をつくる機関ではなく、国民の意志を表現する舞台へと解釈がなされる。つまり、形式としてのデモクラシーではなく、国民を介して超越的な次元に接続されたイデオロギーとしての「デモクラシー」が絶対的になる。少なくとも、このような半ば超越的なものとしてのデモクラシーという認識は、非民主的とされる国家に対してのみならず、民主的な国家に生きる人びとに対しても、いまなお強い浸透力を維持している。同時にそれが超越的なものであるかぎり、非民主的だと解釈された国家や地域への暴力的な介入が、その普遍性において擁護されるのである。

政治とは、結局のところ、何を行っているのか。それは、つまりところは、「どうすれば合意されるのか」以上の何かであったためしはない、ということではないのだろうか。
政治とはイデオロギーだというのも、そういう意味で、国民がそれによって、ある種の「満足」をもたらされるなら、それ以上の追求をしなくなるわけである。
だとするなら、その合意には、必ずしも「民主主義的な手続きを経ていない」なにかがありうる、という話さえ、考えられるだろう。それを上記の引用では「超越的」と言う。しかし、もしもそんな超越的な解決が「ありうる」などということを認めてしまえば、あらゆる独裁は、「民主的な根拠がありうる<かもしれない>」みたいなことさえ言えてしまわないだろうか。
民主主義を「民主的形式の果てに実現される体系」の外に想定することは、どこか、独裁的な暴力的な印象をぬぐえない。というのは、そういった「形式」を超えて、上記の引用にあるような「国民の意志の表現」といったような、抽象的な「なにか」を「想定」することの

  • 野蛮さ

をどこかに感じずにはいられないからであろう。どういう形でもいい。そういったものが「ある」と言うことには、なんらかの「民意」を「代表」しようとする、独裁者の「欲望」があるように思われるからである。

シィエスのように「(第三身分としての)国民があらゆるものの源泉である」というテーゼを主張する場合、国民を囲う境界線の存在やそれを顕在化させる権威が説明できなくなる。シィエスの議論では、国家主権が存在する以前の人間がすでに国民として理解されており、自然法の存在は言及されるものの、主体の領域性および憲制を画定する過程のルールの所在はまったく触れられていない。これは、人民と国民の継ぎ目を不問にすることで、国民による国家主権の構成を説明しているといえよう。そのため、シィエスの論理にしたがうならば、「国家主権は国民の同一性を前提しており、国民の同一性は国家主権から導き出される」のである(ベーテルソン 二〇〇六:六二 - 三)。

上記の引用は、国家といった場合、そこに、「国民主権」を表象する「以前」に、必ず、「国家主権」が含意されていなければならない、と言っている。それは、国家ということが言えるためには、それ以前に、

  • 領域

と、それに対応した、

  • 権威

が存在していなければならない、と分析するからである。たしかに、戦後の日本国憲法も、大日本帝国憲法の「手続き」から生まれた。だとするなら、本質的に国民主権は「国家主権」によって、規定されていなければならないことを意味するのであろうか? ヘーゲルの歴史法則ではないが、アジア的専制形態から市民的民主形態が導かれる、という過程を経なければならない、ということになるのか。
いわば、「国民主権」とは、近代以降の世界的な人権意識が強いてきた政治形態だと言えるであろう。実際に、「国民主権」の形式を踏襲することで、政治は一つの安定を示しているようにも思われる。
しかし、そのような安定が、なんらかの形による、「国家主権」によって生まれた「安定」に依存している、という指摘は、私たちに、国家とはなんなのかを再考させる。

たとえば、ジャック・デリダは、国民国家における領域化された主権の存在に対して、人権宣言や国際刑事裁判所などの脱主権国家的な規範や組織が制限を加える点を指摘する(Derrida 2005: 86)。重要なことは、これの普遍主義を体現する諸装置が、国家主権とは区別される別の主権であるという点である。「人権宣言は別の主権を宣言する」(ibid.: 87)。このとき人権宣言は、自由で平等な自立した普遍的な人間を主権者として想定していっる。デリダが提起する問題は、国民国家に依拠した主権と対置され、そしてそれに先行する、普遍主義的な主権が存在する可能性である。

ところが、今度は「主権」という言葉に注目したとき、話は逆になる。つまり、もしも、主権という視点で政治について考えるとするなら、むしろ、国家は

によって、むしろ、「根拠付けられている」とさえ、解釈できる、というわけである。
起源としての国家においては、その地域の「安定」をもたらした、なんらかの地域的な「権力」に根拠を置いていたとしても、その政治システムの「長期的安定」を求めたとき、その「政治的なるもの」は、より「普遍的」な「主体」に根拠を求めざるをえなくなる。
国民の中に、絶対的貧困者がいれば、彼らを「救わなければならない」という「命題」は、むしろ、普遍的な人類における「人権」が「命令」してくるなにかなのであって、そのことの「強制性」は、その地域の慣習的な作法を

  • 超えて

くる、というわけである。

ルソーの構図にしたがうならば、最初の契約の実存が疑われはじめている。代表性への疑念がもっとも明白に現われるのが、代表されるべき「民意」の分裂である。民意はいまや抽象的で没個性的なものではない。各人が共約困難なそれぞれの政治的要求を抱いている。代表制民主主義が完全なものになるにしたがい、代表されるべき意志がますます細分化される。いまなお「私的なもの」とみなされるそれらの多くは、代表制では十分に実現されていないし、されることはないだろう。さらにいえば、政治的要求の多元化は、代表制の前提となる共通了解----「もともとゲームへの参加には同意しているのだから、負けても文句をいうな」----の成立を難しくさせる。こうして民意は代表性としてではなく、代表する者を支持しあるいは批判するために使用されるような、便宜的な方便に貶められる。そして代表制が方便としての民意を独占する。

最初にも言ったように、政治における「不毛さ」は、結局のところ、私たちが政治に求めることが、一人一人違っているんじゃないのか、という懐疑に始まっている。このことは、代表民主制においては、そもそも、自分を代表しているのは誰なのか、ということで表せるであろう。
この前の、参議院選挙において言えば、東京選挙区において、山本太郎議員は、ぶっちぎりで早々と三位当選を決めたことは、そもそも、山本議員に「代表」される都民が誰だったのか、について、私たちに、つきつけているように思われるわけである。
山本議員以外の当選有効範囲にいた立候補者は、みんな、そうそうたる学歴と国会議員にふさわしい職歴の人たちばかりであった。そういう中で、山本議員が自らの、高校中退での芸能人といった、それほど頭のよくない職業に従事してきた彼に対して、どういった人たちが、彼が

  • 自分を「代表」している

と思ったのか、をよくあらわしているように思われるわけである。
早い話が、高学歴エリートの中に、大衆を「代表」している人を見つけられない。彼らが、いかに口先で、大衆をだまそうとしても、大衆は彼らが自分たちを代表していると思えないわけである。
もしも、山本太郎議員が立候補していないとして、高学歴エリートしかいない選挙区において、一体、だれに投票すればいいのか? 誰も自分を代表しておらず、どの立候補者も、大衆を「利用」しようとしているようにしか見えず、いくらでも口先でだまくらかせると思っている連中しか見あたらなかったとき、もし、それでも、ルソーが言うような、

  • 「もともとゲームへの参加には同意しているのだから、負けても文句をいうな」

といった「ゲーム」性に、「納得しろ」と言われて、納得できるであろうか。
大事なことは、こういった「ゲーム」性は、このルールに「納得」している間は続く、という意味以上の「ルール」ではない、ということである。ひとたび、多くの人の「納得できない」という感情が噴出したとき、そもそも、

  • ルソーの言う意味での「社会契約」など「存在しなかった」

という化けの皮がはがれるわけである。
そういう意味では、民主主義は、「結果主義」でもある。民主主義は、「成功している間」において、それとして、正当性が与えられるものであることを意味しているにすぎず、ある時、「結果」において、人々の「納得」を得られなかったとき、簡単に、この民主主義は捨てられる。それは、それ以降もこの民主主義を維持しなければならないという「動機」に欠くからである。

たとえ直接民主制であっても、少数派は集合的な意志を擁した多数派の決定に従わなければならないのは自明である。

このことは、結局のところ、民主主義における「意志」とは、必ずしも「正義」と同値ではないのではないか、という疑いをもたらす。つまり、「意志」が「ある」からといって、その「意志」が政治でなければならない、というふうには、必ずしも、政治の「形式」がなっていないのではないか、というふうにも思うわけである。
つまり、政治を「イデオロギー」と同時に考えることへの懐疑をもたらす。つまりは、私たちが個々に思う「意志」を政治の場において実現していこうとする運動は必ずしも、「正義」ではない可能性がある。では、その「不正義」が、行われてしまう可能性を阻害する「担保」となっているものがなにかと考えると、それが、政治における、さまざまな「形式性」なのではないか、というふうにも思われるわけである。
このことは、憲法97条の3分の2条項の「制限」が、そもそも「国民の意志」を「国民の政治」にさせようとしない「対抗パワー」として作用していることを意味しているわけであるが、しかし、このことは、逆に考えるなら、

  • この憲法を作った過去の「人民」が、幼稚な現代人の「誤謬」を「制限」している

とも考えられないであろうか。
政治は、結局のところ「無力」なのだろうか? それは、3・11を経てもなお、東電からお金をもらって、原発推進放射能など「たいしたことない」を国民にプロパガンダすることで、お金儲けをしていこうとするエア御用たちの「猛攻」に国民は、最後には負けて、国の言われるままに、東電が作る放射能の電気を、いつまでも、買わされ続けるということを意味するのであろうか。原発は危なくない、放射性物質に汚れた食品は食べられる。食べてもガンにならない。福島は安全だ。だから、福島第一がどんなにひどい事故だとしても、何度でも、あの福島の大地に原発は建てられ、建てられ、建てられ、建てられ...。そして、東京に電気を送る。まるで、福島第一の放射性物質は、福島県民を汚し、悩ます、放射性物質は、福島県民が東京人のために電気を送ってやった

  • 勲章

であるとでも言いたいかのように...。

人民主権について (サピエンティア)

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