仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』

前回、「人民主権」という言葉をめぐって、民主主義を周辺から考えたのだが、今回は、さらに、人間の「集団」性とでも言いますか、「政治」について考えてみたいと思います。
その前に、掲題の本ですが、ここで著者はカール・シュミットの代表作を講義形式で、講釈していっています。この本は、その講義をまとめたような形式になっていて、各章の最後に受講者からの質問に答える形になっています。
私たちはシュミットが、どういった関心を終生もっていたのかを、その出発点から認識することが、おそらく、まず重要なことなのではないか、と思われます。

シュミットの中でも、「決断」と「秩序」の関係は結構変動しているようなので、私としてもづ説明すべきか迷うところですが、恐らく、具体的秩序は「ある」んだけど、はっきり目には見えない、あるいは、「あった」んだけど、崩れかかっている。だから誰かがそれを再発見し、「これが秩序だ!」、と「決断」し、「秩序」を再生させないといけない。ハイデガーのような感じかもしれません。既に、存在それ自体からの呼びかけによって、本来的な在り方へと「覚悟させられている entschlossen」状態にあるのだけど、通常ヒトは、それを受け容れていない。それを受けとめて、自らを「企投 entwerfren」することの重要性を説いたわけです。シュミットにも、そういう、自らが本来属している「秩序」を、”主体”的に選ぶというような発想があって、それをいくつかの異なったレベルでいろんな形で表現しているので、神秘的な雰囲気が出ているのだと思います。

ようするに、保守的な人たちというのは、こういった感じですよね。それは、公務員でもいいけど、ようするに、左翼とか活動家を生理的に嫌悪している人たちは、他方において、自分は政府の政策決定の委員会とかに呼ばれて、小銭を稼いでいたり、もろ、政府からお金をもらって生きている、公務員だったりするわけで、今回の福島第一の低線量被曝にしても、国際機関であるICRPが、LNT仮説という閾値なし、と言っているのに、

  • 閾値が「ある」と「断定」して、福島の人たちを「安心」させることが「決断主義」であり、これをやらない左翼や活動家は、福島の人を不安にさせて嬉々としている「呪い」主義者だ

と。おもしろいのは、いずれにしろ、こういった「断定」が「政治的」に「決断主義」として、「価値あること」と等値されているわけですよね。
しかし、こういったシュミットなりハイデガーの「決断」って、どういうところから来ているんだろう?

ドイツは統一が遅れたせいで、ドイツ帝国になってからも、複雑な連邦制を採用していましたね。アトリックは、全人口の三分の一くらいで、三分の二はプロテスタント系です。カトリックの多くは、南に住んでいすが、シュミット自身は、北西部のウエストファーレン州のカトリックの飛び地のような地域の出身です。カトリック系の政治神学を、全ドイツ的な秩序の基盤にすることはできない。

ここって、すごい、いいポイントをつかまえているんじゃないだろうか。つまり、シュミットは「マイノリティ」なんですね。つまり、シュミットがずっと考えている政治は、マイノリティがどうやったら、マジョリティの圧政から、自分たちの主権を守るか、みたいな話なんですよね。
だから、彼にとっては、「日常」というのは、「受け入れる対象ではない」んですね。日常は「あってはならない」わけです。だって、日常ということは、マジョリティの「支配」の状態なのですから。だから、彼にとって、大事なのは、「例外状況」ということになるんですね。
なんらかの日常の破綻が露呈した状況において、始めて、マジョリティの秩序に、「ゆらぎ」が生じる。だから、マイノリティが活躍する「正当性」が生まれる。それが、

  • 独裁

なんですね。独裁だから、それは「マイノリティが担うことに正当性が生まれる」というわけです。
シュミットが考えていたことは、ずっと、「カトリックというマイノリティ」の

  • 正統と異端

であり、

  • 忠誠と反逆

だということです。
シュミットというと、有名なのは「友敵理論」ですが、大事なポイントは、彼がこのことを「政治的なもの」の「定義」として提示していることなんですね。つまり、友と敵の分類を、なにか、「意味」論的に、そのことが「指示」しているのは何か、みたいに考えてはいけない、ということなんです。
つまり、「友敵」は、どちらかというと、数学における、「無定義述語」のように扱わなければならない、ということなんです。
「友」とは何か、「敵」とは何か。この二つが「指示」する、「象徴」する、その意味、具象、イコンを探そう、みたいな態度が、ダメダメだ、ということです。
「敵」とはなんでしょうか? 最近で分かりやすい例は、ツイッターにおける「ブロック」ではないでしょうか。「敵」という言葉を使うときの用例として、典型的な場合としては、「無視」があるでしょう。つまり、相手と言葉を代わさない、ということです。
相手がいても、まるで、いないかのように振る舞う。こういった態度は「二度と話さない」と

  • 言う

ことから始まる場合が多いです。
こういったケースにおいて、興味深いことがあります。それは、往々にして、「相手」は、そのように振る舞わない、ということです。つまり、一方が相手を「敵」認定しているにもかかわらず、他方は、相手に「好意的」ということが「ありうる」というわけです。
例えば、ある種の利益相反が存在した、としましょう。一方は、原発推進を言うことで、東電からお金をもらって、死ぬまで、東電に寄生して生きたいと思っているとしましょう。そして、東電が危機になるたびに、反原発派を、左翼とか活動家とか言って、「敵」認定することで、東電の危機を救うために、護教的に振る舞うとしましょう。もしも、こういった連中が、福島に来たら、福島の人はどう思うでしょう。原発推進、再稼働賛成という時点で、福島に一歩でも入らせたくない、と思うかもしれません。
しかし、他方において、こういった人たちは、福島の人たちに好かれたい、わけです。彼らの役に立ちたい、と口にする。福島の人たちと「連帯」したいと言う。しかし、大事なポイントは、こういった人たちは、結果として、東電が「有利」になること以外なしない、ということです。だって、東電からお金をもらって、一生、生きたいと思っているからです。
つまり、興味深いのは、友敵理論には、その「非対称性」がある、ということなわけです。
この場合の「友」とは、なんでしょうか。「友」とは「親密圏」となります。つまり、「共同体」です。自分が「親しみ」を感じる相手を総称として「友」と言うわけです。
敵というのは、どこか「自我」に関係しているようにも思われます。それは、敵が、自らに「反発」してくる相手だということです。つまり、自分のナルシシズムを快楽の「まま」にしておかない、ナルシシズムを破壊してこようと向かってきているように「感じている」というところが、ポイントです。つまり、敵は生理的に不快だ、ということなわけです。
こう考えると、この場合の「友」というのは、言ってしまえば、「イエスマン」ということです。なんでも「おおせの通り」とヨイショしてくれるので、ずっと「楽しい」けど、なんの生産性もない時間だ、とも言えるのかもしれません。
シュミットに言わせれば、敵との対立は、それが「ヒートアップ」していけば、その極限においては、戦争や殺し合いという結果は「ありうる」ということになります。
たとえば、いつの日か、カトリックとピロテスタントはお互いの教義を統一して、一つになるでしょうか? キリスト教徒とユダヤ教徒イスラム教徒は同じ旧約聖書をルーツにもつ「コモン」性を感じるようになるでしょうか。日本人と韓国人や中国人は、お互いの文化を「一つのもの」と思えるようになり、「一つの文化」「一つのアイデンティティ」と感覚するようになるでしょうか。
あなたはどうでしょうか? 中国と韓国と日本は、儒教や仏教の歴史的な伝統を生きてきたルーツから、なんらかの「精神的」な「発見」をお互いに対してもつようになるのかもしれません。
ただ、私が素朴に思ったことは「時間」についてです。不快な感情は、

  • 一瞬

です。それは「過ぎ去る」ものです。つまり、たとえ、その感覚がどれだけ「リアル」だったとしても、ある意味、寝て、時間が過ぎれば、その「不調」の感覚は、過ぎ去り、また、元のように「体が勝手に元気になる」というわけです。つまり、完全にその不快感が消え去ることは難しいとしても、

  • 慣れる

わけです。不感症になる。つまり、「学習」をしたわけです。私たちは、いくら年をとっても、中国語や韓国語の勉強を始められるし、再開できる。
こういった「相対化」を経て、私たちは、不感症となり「無関心」となるわけだが、存外にして、こういったものを「平和」と言うのかもしれません...。

カール・シュミット入門講義

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