福島第一事故と「遺伝的影響」

福島第一事故をきっかけとして、低線量放射性物質の人体への影響がさまざまに議論されるようになった。それと期を一にして、放射性物質が人体に影響することと、その影響が、「子孫へ遺伝的に継承されていく」ことの二つについて、さかんに話されるようになった。
しかし、その議論の趨勢は、どちらかというと、「デマ=風評被害」論の延長において、続いた印象がある。
広島長崎の被曝影響の調査から、「遺伝的影響はみつけられなかった」という、一部研究者の「疫学的結果」から、福島第一の事故による、福島県人への「遺伝的影響」を語ることは、「デマ=風評被害」であり、そういうことを嬉々として語っている人は、「呪い」主義者だ、というわけである。
しかし、私たちは、そもそも、そういう「保守主義決断主義」にうんざりしているから、東電を許せなかったのではないか。東電が「原発安全神話」を、マスコミへ、大量のCMなどにより、お金を注ぎこみ、議論を抑圧してきたから、あのような結果になったのであり、今さら、

  • 議論の抑圧

を主張する御用学者の、311以前と変わらない自己正当化が「ゆらいだ」から、311以後があるのであって、その事実をふまえない、楽天的な主張だと言わざるをえないであろう。
そもそも、人間における、子孫への「遺伝的影響」とは、なんなのだろうか? なぜ私が、今さらのように、このような疑問をもちだすのは、以下のような「アポリア」を考えざるをえないからだ。

  • そもそも私たちは福島の事故がなくても、日常的に「遺伝子変異」は起きているし、子や孫に、それらが遺伝している。つまり、それらと福島第一で起きることになる「遺伝子変異」を「区別」できない。
  • そもそも遺伝子変異は「いつも」起きている。つまり、その「原因」が福島第一に「よって」起きたのかを「区別」できない。
  • そもそも「何」を遺伝子変異と言っているのかが、よく分からない。どんなに遺伝子のさまざまな場所に変異が起きたとしても、その「表現型」つまり、見た目が、普通の人となにも違わないことは、一般的だとさえ言えるかもしれない。
  • そもそも、「何世代後」になって、その影響が現れたら、それが「福島事故の影響」と定義したらいいのかが分からない。福島事故の影響で、ある決定的な変異が起きていたが、その「表現型」が、10世代後まで現れなかったが、たまたま、11世代目が、さまざまな組み合せの関係で「表現型」に影響がでたとき、それが「福島事故の影響だった」と遡及させる方法がない。
  • そもそも、福島第一の事故による放射性物質が、人間の「生殖細胞」に影響を与えるまでの「メカニズム」がよく分からない。ここで言っているのは、「生殖細胞」を「作る」細胞の「遺伝子」が問題にされているのか、生殖細胞を作るの時の「体内環境」にある福島事故由来の放射性物質が生成過程に与える影響による変異を問題にしているのか。それとも、胎児が母胎内にいるとき母親の体内にある福島事故由来の放射性物質が胎児が細胞分裂をしているときに与える「影響」によって、胎児の大きくなったときの生殖細胞に影響を与えるのか。そもそも、そういったものを「分別」する手段がない。
  • 今回の事故によって、何十年、何百年と放射性物質の排出が止まらなかったとき、「いつ」の福島第一の放射性物質が、遺伝的影響を与えたのかを区別する手段がない。そもそも、福島第一から吐き出された放射性物質は、ずっと、周辺環境にとどまるのであるから、そういったものが、「いつ(=何世代後)」の子孫に「直接の影響」を与えるのか、または、与えたのかを、「区別」する手段がない。
  • 体内において、一方で、福島第一の放射性物質が遺伝的影響を与えようとしているとき、では、その時の、その環境にある「その他のもの」と、どっちげ影響したのか(直接的影響なのか)を区別する手段がない。
  • そもそも遺伝的変異は「悪いことなのか」がよく分からない。むしろ、変異することによって、獲得された形質が進化的に「優位」である場合だってあるように思われる。
  • たとえば、福島第一の影響によって子供に遺伝され、ある障害者が生まれたとして、「そのことが、その子にとって不幸なのかが分からない」。別に、なんらかの障害があったとしても、学校に行けてもいいし、教育を受けられてもいいし、市民として当然の権利として、仕事をし、結婚もし、子供を産み育て、年金をもらうのは、「当然」であろう。つまり、「何」が起きたら「問題」だと言っているのかが分からない。
  • たとえば、福島第一の影響によって子供に遺伝され、その「影響」によって、子供が流産したとき、「だから問題ない」と言うことの根拠が分からない。生まれた子の命の灯が、母親から生まれることなく、ついえたことを、なぜ「だから問題ない」と言うのか(それって「子供を産めない体」と言っているのと変わらなくないか)。
  • 例えば、ある人のある行動が「遺伝=本能」なのか、「癖=慣習」なのかを区別する「手段がない」。なぜ「ある遺伝子」があると、「ある行動をするようになる」と言えるのか、その「因果関係」がまったく分からない。

上記のような話を、一言でまとめるなら、それは「環境」という言葉になるのではないか。ようするにこれは、「環境汚染」の話なのである。
なぜ、日本の科学者の議論は、「感情的」なのか。
それは、日本において、理系の学者が、実際のところは、

にあるからであろう。彼ら、理系の大学の教授たちは、日頃から、工業系の企業の人たちと深い付き合いがあるだけでなく、そもそも、彼の「教え子」は、そういう企業にビップ待遇で受け入れてもらう。だから、こういった学者が、そもそも、企業批判などできるわけがないのだ。
私が高校生くらいの頃、自分が住んでいた田舎のある都道府県の中の、少し都会だった海岸沿いの方に行ったことがあったのが、そのとき、強烈な化学物質のツンとくる臭いが、地域一体に充満していた記憶がある。つまり、なんらかの化学物質を扱う工場がそこにあって、普通にそういった物質を空気中に吐き出していたわけである。ただ、最近そこに行ったら、その臭いは、なくなっていた。
同じような話なのかは知らないが、大学を卒業して、東京に上京してきた頃、自転車でいろいろ回っていたとき、とにかく、国道沿いの通りが、非常に汚かったことが記憶にある。石原都知事がまだ、規制をする前で、見るからに、道が汚かったし、なにか、煤のような黒いもので、道の上がほこりっぽかった。
私が言いたかったのは、ようするに、少し昔は、日本は工業都市であった。だから、そういった製造過程で作られる有毒な物質が、工場の外に出ていることは、日常茶飯事だった。そうやって、なんの無毒処理もすることなく、外に出す

  • から

儲かったのではないだろうか。
理系の学者たちが、日本における最悪の公害となった、あの「水俣病」が起きた後も、

  • 毒さえ薄まれば...。

と「呪詛の念」をつぶやいているのはそういうことで、日本の社会は常に、そういた「工業系企業」側の「利益追求」の論理と、戦ってきたわけである。企業とは利益追求の組織である。少しでも経費を削減できれば、「儲かる」。御用学者は、そういった企業の「要望」に答えることで、「飯の足し」にしている連中ですから、彼らは、なんとしてもその

  • ギリギリ

の、大衆が「これくらいはしょうがない」と思わせるところを狙って、さまざまなレトリックで攻めてくる。つまり、それが彼らの「仕事」なのである。
大事なことは、大衆は、そういった御用学者の「脅し」に屈服してはならない、ということである。彼らが儲けを一円でも多くしようと、攻めてくるのに、なにも対抗できない限り、福島第一の事故は、何度でも、繰り返す。そもそも、彼らの言っていることが、「企業の儲けを一円でも多くするため」の言葉であることを受け止めて、

  • たんに自分たちがどうしたいのか

を求めていかなければ、それは「市民の利益」には、いつまでたってもならない、ということである...。