ロストするキリシマ

以前、尖閣問題で、日中がもめたとき、「日本鬼子」の萌えキャラが、ネットで話題になったことがある。日本鬼子とは、いうまでもなく、日中戦争当時の帝国陸軍の振る舞いをさして、そのように呼ばれたということで、いわば、当時の日本人の非人道的な振る舞いを、歴史教育などで学んだ人たちが、反復して、その残虐さを非難するという意味で使われた。
だから、ここで「鬼」という漢字が中国でどのような意味で使われているのかは知らないが、桃太郎の童話にあるように、頭に角がはえている、西洋人のような、目鼻立ちの存在を、彼らも「鬼」という用語でイメージしているのかは知らない。
また「子」という漢字も、日本のように、女性の名前で使う固有名詞の最後に、「子」という漢字を使うことが多いからといって、それが、萌えキャラの女の子になるというのとは、違うのかもしれない。
いずれにしろ、この、ある種の、「自虐」的な態度は、中国の人たちに、どのようなイメージを与えたであろうか。
世界の人にとって、日本とは、どのように見えているのか。
私は、世界の人の目には、日本とは「ヘンタイ」の国だと思われているのではないか、と思っている。それは、ひとたびネットを眺めれば、分かりすぎるほど分かる。エロゲーから、エロ漫画から、エロアニメから、こういったものが一つの続きのあるものとして、存在している。そして、それらを横で繋ぐものが、

  • ロリコン(子供を性的な魅力の存在と見なすことに比較的、寛容な文化)
  • 東洋的な儀礼の文化

ということではないだろうか。日本がロリコンに比較的に寛容なのは、おそらく、東洋人の顔付きが、大人と子供で、それほど変わらない、のっぺりとした顔立ちであろうこともあるのであろう。
そして、後者とは、さまざまな、スキンシップを含めた、日本社会の身体的接触に対しての、寛容な文化にも関係しているのかもしれない。儀礼的であるというのは、その「範囲」での儀礼を守っている限りにおいて、

  • 過剰なスキンシップ

でさえも、「気にしない」ということである。このことは、日本における、母親による子どもへの過剰なまでのスキンシップの質を考えると理解できるかもしれない。
さて。そもそも、なぜ、ファッションとしての「日本」の「カワイイ」文化が、日本の漫画やアニメやラノベやゲームと、平行に論じられるのであろうか?
そもそも、アニメとはなんなのだろう? アニメとは、二次元キャラによる、物語化である。アニメの特徴は、その「声優」にあるだろう。この「声優」の興味深いところは、例えば、ファッションと比べてみるといい。
ファッションにおいて、なぜか、声は、「仮面」化されない。だれでも、自分の声で、普通に「自己表現」している。このことを逆から言えば、二次元アニメ絵である、萌えキャラは、ファッションと同じく

  • 仮面

なのだ。つまり、二次元アニメ絵の萌えキャラによって、私たちは、ファッションにおいて、メークをするように、自分を「仮面」化する。もっと言えば、これは、その声優が、自らの顔をメークするかわりに、二次元アニメ絵の萌えキャラによって、

  • 化粧

をしているわけである。
アニメ「蒼き鋼のアルペジオ」の世界は、この地球上に「霧」と呼ばれる霧の未知の存在が地球を覆い、その中から、第2次世界大戦における軍艦を模した、謎の超兵器を搭載した艦隊が出現した世界となっている。
この「霧」と呼ばれる謎の相手は、まず、なぜか、第2次世界大戦における軍艦、しかし、その中身は謎の超兵器を搭載している、そういった軍艦を、地球人の前に現す、という不思議な姿を見せる。
このことは、なにを意味しているのか。この「霧」と呼ばれる謎の存在は、非常に人間を意識している、ということである。なぜか「わざわざ」、第2次世界大戦における軍艦を模したものを、地球人の前に見せることは、なんらかの「地球人を学習しよう」というメッセージが含まれていることが分かる。
そのことを顕著にあらわしているのが、メンタルモデルである。上記の、第2次世界大戦における軍艦を模したものは、謎の超兵器を搭載しているが、その最新型においては、メンタルモデルと呼ばれる女の子の姿をした、この軍艦を「動かす」アンドロイドのような存在が、搭載されるようになる。
この場合、そのメンタルモデルは、基本的に、その軍艦と一心胴体としての存在となるわけで、つまり、その軍艦の動作とは、メンタルモデルの意思の操作と「同値」になる。
(これが、日本鬼子の萌えキャラ化と「同様」の、軍艦の萌えキャラ化である。)
第4話は、霧の軍艦である、ハルナとキリシマが、人間の側に与した、メンタルモデルのイオナが操る軍艦の「イ401」が、艦長として、人間の、主人公の千早群像(ちはやぐんぞう)に、まったく歯が立たず、破れ去る場面となる。
では、なぜ、ハルナとキリシマは破れたのか。それは、イオナが艦長に「人間」を迎えていることに特徴がある。
ハルナとキリシマの霧の軍艦には、人間の船長がいない。自分たちメンタルモデル「だけ」で戦っている。このことは、そして、この結果は、メンタルモデルには、なにか人間の「能力」には、勝てない特徴があるのではないか、という推測を我々にもたらす。
ハルナとキリシマは、人間の「言葉」に興味をもつ。しかし、兵器である彼女たちには、人間の「感情」が理解できない。そういった一つ一つの言葉に興味をもちつつも、彼女たちは、その「無意味」なコードに、戸惑う。そういった無意味なコード群に、翻弄されている人間たちが、なにか、無意味なことを延々を続けている、非合理的な存在に思えてしょうがない。
キリシマは、ハルナの援護を受け、イオナと千早群像を、圧倒的戦力で、追い詰める。その彼女の姿は、分かりやすいほど分かりやすい。ちょこまかと、彼女の裏をかき続ける千早群像の小細工に、苛つきながらも、その「抵抗」ぶりに、彼女はゾクゾクとした「快感」を味わう。敵の反撃にあえばあうほど、そういった「相手」を叩き潰すことの「快感」を、彼女は意識する。









ところが、その「結果」は、ある意味、あっけない。むしろ、彼女たちは、自分たちが理解できなかった「後悔」という言葉の「意味」を、自らが、

  • 人間に与えられた

結果によって、「なんとなく」示唆され、理解していくわけである。
メンタルモデルとは、霧という「謎」の存在が、人間を「理解」していくために作られた存在だと言えるであろう。つまり、この「霧」という「謎」の存在は、このメンタルモデルを通して、人間を理解しようとしている。
キリシマの上記のパフォーマンスは、そういった意味で、今のメンタルモデルの、人間の「理解」のレベルに対応している。キリシマが、興奮レベルを上げ、人間との戦いに

  • 快楽

する姿は、今の彼女たちが、人間の「そういった側面」にまで、達っしている、そういった「レベル」に対応している。
漫画の方では、コミックで、この後、ハルナとキリシマは、デザイン・チャイルドと呼ばれる、むしろ、

  • 彼女たちに似ている

人間側のアンドロイドの、刑部蒔絵(おさかべまきえ)に助けられることになる。そして、ハルナとキリシマは、彼女が、むしろ、

  • 自分たちに近い存在

であることを知るのと同時に、彼女によって、人間が言う

  • 友達

である、とは、どういうことかを理解していくわけである...。