なぜ「風評被害」と非難してはならないか

3・11直後に、荻上チキさんが「流言」という言葉に、必ず、

  • デマ

という言葉をセットにして発言していたわけだが、彼のその分析が、いわゆる、「噂(うわさ)」論をベースに行われていたことに、私は、なにかしらの違和感を覚えたことを記憶している。
というのは、日常会話における、「噂(うわさ)」とは、そもそも、誰が話しているのか分からないし、その内容でさえ、正確に「確定」することが難しい(耳で、なんとなく聞こえたレベルの現象だから)というものと考えられるからだ。
それに対して、ツイッターは明らかに、一つ違っている。それは、まず、「誰」なのかが、もちろん、それを「国家が公式に管理している」本名でないとしても、一つのアカウントとして決定しているし、そもそも、その「人(ひと)」に対して、述べらえた陳述が、文字列として、

  • 決定

していることである。つまり、そういう意味では、これを「噂(うわさ)」と言うことには、違和感がある。
もちろん、荻上チキさんとしては、その二つを分けることに、それほどの違和感がなかったのであろう。実際、例として挙げられていたものには、そのツイッターのつぶやきの内容が、「なんとかということがあったらしいよ」といったような、「噂(うわさ)」を記述したものを使っていたからだが。
しかし、そこには大きな違いがあるのではないか。たとえ、ツイッターによって、そのツイートが次々とリツイートされたとしても、

  • 誰が(どのアカウントが)
  • どういった「文字列」を

パブリックにしたのかは、明確に確定している。だとするなら、それを、「噂(うわさ)」との

で語ることには、やはり、無理があったのではないだろうか。
では、なぜ荻上チキさんは、こういった現象を、「流言・デマ」として、注目したのか。私は、そこには、間違いなく、福島第一原発による低線量放射性物質の国民への影響に対してのツイッターなどでの人々の発言を、

と呼ばれていたことについて考えていたのではないだろうか。つまり、この問題がこれから「深刻」になるということを、あらかじめ、考えていて、この問題にそれなりの答えを、この方向から出せるのでないか、と考えていたのではないか。
風評被害という言葉は、食品メーカーの関係者が、人々のさまざまな言説によって、自分たちに関係している食料品が売れなくなるとき、それらの言説を敵視して言われていた。
しかし、もしそういうふうに言うのであれば、テレビなどで、健康ブームやダイエットブームといって、なんらかの「言説」で、例えば、バナナや納豆のような食糧が、スーパーのレジからなくなるくらいに売れるような現象だって、問題じゃないのか。
なぜ、物が売れるときは、歓迎しておいて、売れないときは非難し損害賠償とか言っているのか。
つまり、たんにそれは、「批評」と呼ばれるべき、個人の言論の自由の範囲のことであって、間違っているなら、たんに、反論をすればいい。つまり、なんで「風評被害」という、

  • 「噂(うわさ)」

の方を問題視するのか。なぜ、発言者にその、

を負わせようとしているか、なのである。
つまり、こういった発言をしている人たちは、結果として、物が売れなくなることの「責任」を、その発言者に負わせようとしている。つまり、

の色彩をどこかもっている(一種のマスコミ・タブーのようになる)。
食品メーカーの損になることを言うと、非難し損害賠償とかまでちらつかせて、言論弾圧をしておいて、食品メーカーの得になることだと、何も言わないというのは、どこか、おかしくないか?
もしも、その言説が間違っているなら、その間違いを、全国の国民に指摘すればいい。それだけのことであろう。それでも、国民が買わないのなら、もしかしたら、その判断には一定の理があるのかもしれない(その国民の行動規範において)。もちろん、ないのかもしれない。しかし、だとしても、

によって、商品の確実な販売量を維持しようとする判断は、長期的にこの分野のメーカーの「腐敗」を結果することにならないか(なんの批評も許されなくなって、商品の品質維持の努力を怠る結果になっていくことは、事の必然であろう)。
例えば、言うまでもないが、日本のコンビニ弁当には、大量の合成保存料、合成着色料といったような合成化学物質が入っている。それは、弁当の裏側を見れば、「法律で決められている」ルールの範囲では書いてある。もちろん、それだけじゃない。遺伝子組み替え食品から、農薬から、防腐剤から、さまざまなリスクがある。じゃあ、それらは「安全」なのか。もちろん、国は「合法」と認めている。しかし、国が認めているから、「安全」とは、また、別の意味であろう。
もちろん、そういったものは、なんの意味もなく入っていることは、考えられない(それなりに入れるには、お金がかかるから。しかし、そういった化学物質を比較的安く東アジアなどから輸入できるようになったから、使えるようになったという意味はあるのだろうが)。腐敗を防ぐとか。しかし、腐敗を防ぐから大量に入れていいものではないだろうし、たんに見た目をよくしようとか、歯ざわりをサクサクさせようとか、そういった栄養となんの関係もない理由で入っているものも多い。
しかし、どんなに大量に入れようが、国が認可しているなら、その「危険」性は認可している国に責任があると考えるなら、それによって被害を受けるかもしれない消費者が「批評」するのは

  • 当然

ではないか。つまり、私たちは、もっと「基本」から考えるべきだ。
例えば、ある薬が発明されたとする。そして、動物実験や人間のボランティアによる比較実験で比較的に「安全」とされたとする。しかし、その安全宣言とはなんなのか? しょせん、そういったものは「ルール」にすぎない。ある一定の条件で、そう決めたにすぎない。当然、そういったものは、もともとの自然界に存在しなかった、合成化学物質で作られているわけだから、そもそも、

  • そういったものが大量に自然界に排出されること

自体に危機感を持たないことの方が、どこかおかしな感覚になっているのではないか。なんらかの物質を生み出し、自然界に流すことは、それ自体が

  • 危険

な行為であろう。
安全などありえないし、安全を証明することはできない。安全を考えるなら、とにかく、全体としての「量」を減らすしかない。
しかし、農薬を使うから安く食糧を作れるのだ、とか、合成化学物質で腐敗させていないから、何日も日もちをするのだとか、そう考えるなら、こういった物質はむしろ、貧乏人を助けているのだから、どうして、食品メーカーが非難されなければならないんだ、と言うとしよう。
しかし、こういったことをもし、食品メーカー自体が言うとするなら、それは、そういった食品を買う消費者が、「どこまで許容しているのか」を前提に話さなければ、意味をなさないであろう。
暴飲暴食をして、どんなに早死しようと、今を享楽的に生きたい、という人なら、まったく、食品メーカーの言うことに同意するかもしれない(そういった人は、たとえ自分が死んだ後、地球が滅びても、なにも思わないだろうが)。しかし、そうでない価値観の人にとっては、まったく話は別になるであろう。
まず、そもそも食品メーカーは「信頼」できるのか? もっと言えば、「信頼」して「いい」のか? しょせん、他人なのだ。私たちの見ていないところで、何をしているか分からない。というか、他人を信用できる「方法」など、存在するのか?
そもそも、他人を信用できないなら、あらゆる食糧を、自分で作るしかなくなる。しかし、それが一番確実だということになるであろう。しかし、それは普通に考えて難しい。
だとするなら、できるだけ、他人の手を介さないようにして、自分の口に食糧を入れるしかない。まず、野菜や肉は、「素材」から必ず買って料理をするとしよう。しかしそれでも、食糧は、長持ちさせたいという需要がある。そこから、多くの合成化学物質が食糧に入る。
それを、できるだけ避けるには、できるだけ、近場で最近作られたものを、そのまま買って、早いうちに食べる、という手段になるであろう。
こういった選択肢の中から、消費者は、自らの消費物の購入を選ぶ。つまり、こういったことは、コンビニの合成化学物質まみれの弁当を消費者が忌避すると言うことが、

かどうかとは、まったく関係ない、ということである(つまり、もしも争点がありうるとするなら、

  • その人が言っていることが「事実でない」かどうか

だということになる)。
風評被害とは、「現象」である。つまり、「噂(うわさ)」という結果である。それは、例えば、ツイッターで誰かが、つぶやいた、といった、明確に内容も含めて確定される状況について言うことはふさわしくない。もしその発言を気に入らないなら、その人に、その発言に対して文句を言うべきである。ところが、それを「風評被害」として非難している人は、その発言によって、他人がマインドコントロールされて行動することの「結果」を問題視している。つまり、その発言者に、

  • 他人の行動の責任

まで追求しているわけである。しかし、そういった「恫喝」は、言論の自由と相性がよくない。他人の行動が問題なら、その行動をした人を非難するべきで、その人の責任の分を発言者に押し付けるべきではない。
風評被害という言葉は、「噂(うわさ)」に対して使われるもので、つまり、だれが言っているのかも、どこで言っているのかも、正確にはどのように言ったのかも、確実に確定できないような、集団現象に対して使われるもので、だれか特定の人の発言を問題にする場合に、風評被害という言葉を使うことは、特定の人に他者の行動の責任まで押し付けようとする行為であり、一種の

  • タブー

をもたらす。つまり、他人の発言を「風評被害」と非難してはならない、ということである...。