「ブルジョア道徳」問題

年末に、東浩紀さんが、ツイッターでまた、炎上していましたが(
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)、私はそういった低レベルの「不謹慎」発言を問題視していくことは、「在特会」と同程度の問題と考えているわけで、たとえ、こうやって有識者によって、ツイッターで諫められても、福島の人に謝罪をするわけでもなく、さらに、芸術という名の悪ふざけを、今後、エスカレートさせますと宣言しているわけですから、なんの抑止効果にもならない(そもそも、この人は、他人の話を聞かない人で、一方的に、自分の意見を話すだけの、まったく、対話が成立しない人ですからね)。
つまり、そうではなくて、ちゃんと彼そのものが「やっていること」を定義することが重要だと思っている。そういう意味で、以下の発言は、彼が何をやりたいのかを示していると思う。

ひとの心はとても自由。道徳だけでは切れない。なにかを悪いことだと知っていても美しいと感じ惹かれてしまうこと、なにかでとことん傷ついてもそれをみずから笑い飛ばすようがことがありうる。そんな自由さが人間の未来を作る。芸術は自由の側に立たなくてはなりません。
@hazuma 12月29日 22:06
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芸術は、そもそも、弱者に寄り添うようなものではありえないのです。美とか知とかは、弱者に寄り添う/寄り添わないという判断とは別の場所にある。むかしはその場所を大学や美術館が守ってきた。けれどもいまはそれができない。だとすればゲリラで守るしかない。ぼくのやってるのはそういうことです。
@hazuma 12月29日 22:08
いいわけおじさん - Togetter

この発言は非常に「正直」に自分の立場を表明してますね。彼は、

  • 「道徳だけでは切れない」という<道徳>

が大事だ、と言っているわけです。つまり、逆説的ではあるけど、「ブルジョア道徳家」なんですね(道徳に、社会規範としての機能を期待できなくなった、と。社会の富裕層に課せられていた、貧困層へのノブリス・オブリージュを

  • やらなくていい

と免罪符を与えることを貧困層に「受け入れさせる」という<道徳>なんだ、と。よく考えると、この人が「弱者救済」を一度でも話したことってあるのかなw。哲学とか芸術のバズワードで無知な大衆をけむにまいて、でも、言ってることの中身は、金持ち優遇でしょ。お金持ち相手とだけ対談をやり、お金持ち相手にだけ商品を売れればいいから貧乏人のことなんか関係ない。貧乏人の

  • 話を聞く必要はない

ってことなんでしょうねw)。

  • 美とか知とかは、弱者に寄り添う/寄り添わないという判断とは別の場所にある。

ここで問題なのは、別の場所に「ある」と言い切っていることでしょう。「ある」と言い切ってしまえば、なにか、この世界には、「弱者に寄り添う」と関係のない場所がある、ということが、証明されていることであるかのように語っているわけでしょう。しかし、「関係ない」と言い切ることに、一v体、どれほどの解釈的な意味があるのか、ということでしょう。
この、「言い切り」はなんなのか? つまり、もっと弱者問題を中心に運動をされ、生きている人の視線からは、あらゆる問題は、弱者問題に繋がっているんじゃないかと考えているかもしれない。少なくとも、私なんかは、普通にそれを「徳」の問題と考えたりする。つまり、ここで問われていることは、もともとは、「レベル」の問題であったはずなのに、いつの間にか、「弱者に寄り添う」と「美とか知」が、

  • 別の場所に「ある」

という「存在論」的な、自明性の話に変わっているわけである。
その場合に、「真善美」を、まったく、別のものと考える態度(ある種の、現象学的還元のような「暴力」的な態度)の正当性が、問われているはずなのに、そういった留保もなく、関係ないと言い切る、その態度自体を、私はここで、「ブルジョア道徳」と言っているわけです。
しかし、そういった態度は、どこまで自明なのか? また、どこまで真面目に付き合う必要があるのか。私は、こういった疑問を、彼の最近の著作における「セカイ」系の再考察に対しても、強く印象付けられた。

たとえば、クール・ジャパンの代表として、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を考えてみましょう。一九九〇年代後半に時代を席巻し、いまでも着実にファンを増やしているこの作品ですが、では『新世紀エヴァンゲリオン』の「支持者」としてどのような「社会集団」が思いつくでしょうか。統計がないので個人的観察からの推測にしかならないのですが、この作品はいまや、男性からも女性からも、一〇代からも四〇代からも、地方出身者からも東京都民からも、低学歴のヤンキーからも高学歴のエリートからも、年収数百万円の労働者からも年収数億円の高額所得者からも、ひとしなみに支持されているように思われます。少なくとも、エヴァのファンと言えば○○だ、というステレオタイプはぱっとは思い浮かびません(オタクっぽい、腐女子っぽい、という印象は社会集団の規定ではないので除外してください)。
これはじつにすばらしいことです。でもそれは、裏返して言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』の物語や登場人物をいくら分析しても、現実の日本社会のなかでの葛藤はほとんど見えてこないことを意味しています。『社会エヴァンゲリオン』は、特定の階級的利害やイデオロギーをなにひとつ反映していません。アニメの観客は、現実の反映や昇華を求めて映画館に出かけるのではなく、現実を忘れるために出かけているからです。そして日本ではいつのまにか、そのような「現実逃避」ばかりが、創作物に求められる機能になってしまいました。

たとえば、文芸評論というジャンルは、文学と社会があるていど「公共的」な関係をもってくれていないとそもそも成立しません。ある特定の作品を読み解くことが、趣味嗜好の差異を超えて同時代人がともに生きる「この社会」を分析することに繋がる、そういった前提がないと、すべての評論は、だ自分が好きな作品を深読みし、褒め称えるだけの行為に堕してしまうからです。実際に、いま文芸評論はそのようにして急速に質を落としています。ぼくもまた評論を書くことはむずかしくなってきました。
セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題) (キー・ライブラリー)

ここの記述は、彼が自ら「セカイ」系なるものの「根拠」を示す具体的な例を挙げている場所ですが、読まれて、どういった印象を受けられるでしょうか。まず、最初の一番、読者を説得しなければならない、社会分析の所で、この、たった一つの、よく分からない例で説明しているわけですが、そもそも、これって、どこまで説得的に受けとられますでしょうか(お願いですから、もし、自分が人文系の大学教授で、自分のゼミの生徒が、こんな文章を書いてきた、と考えて答えてもらえませんか。「なに言ってんのw」っていう反応になりませんか?)。
これ以降、この「現実」の、

が、「セカイ」系の「自明」性を意味しているというわけだが、どこまで、この話を「自明」だと思われただろうか?

現代の作家は社会を描くことができません。人間を描くこともできません。だから彼らはかわりにキャラクターを描きます。そして、読者と共有するキャラクターのデータベースに頼ります。
本書はそのような前提から始まっています。ぼくたちはそれを「セカイ系の困難」と呼んでいます。むしろ、そのような流れに抵抗し、文学は社会と人間をしっかりと描くべきだ。キャラクターに頼らずにしっかり人間の他者に直面しろと、そう主張するひとも少なくありません。それはそれで正しいのだと思います。とはいえ、たとえそれが正しかったとしても、もはやかつてのような強い「社会的な現実」など存在せず、なにをどのように描いたとしても、どこかで見たような平板な人間、どこかで読んだような物語しか書き記すことができない、多くの作家がそのような葛藤を感じているのもまたたしかなように思われます。しかし、いま記したような家族的キャラクターの想像力は、その隘路のなかで、象徴界を復活させる(キャラクターを否定する)のでもなければ、セカイ系に居直る(キャラクターを肯定する)のでもない、もうひとつの世界との関わりを指し示しているように思うのです。
現代の人間は「世界」から切り離されています。現代の社会はあまりに複雑で、ぼくたちはもはや社会全体を見渡すことができないし、またさまざまな価値観をもつ人々といちいち向き合うこともできません。そのような無力感こそがセカイ系の台頭の背景にあるわけですが、新井の作品は、それが必ずしも絶対的な孤独を意味するわけではないことを教えてくれています。
セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題) (キー・ライブラリー)

宮台真司を含めて、社会の複雑化によって、古典的な社会の分析手法が通用しなくなっているという認識から、なぜか、より

  • 単純

な、「形式」的、かつ、一様な大衆分析技術にすりかえられる事態が何を意味しているのか、なのである(というか、言ってる本人に自覚がなさそうなのだが orz)。
つまり、セカイ系という概念規定が有効かそうでないかの以前に、このセカイ系とかキャラクターを主張することで、日本における、近年の相対的貧困率の増加や、例えば、北朝鮮の貧困のような、実際に生活苦が起きている「階層」が、まったく、議論の対象にのぼらない。いや。のぼらないどころが、彼は、

  • 意図的

に自分たちの主張に適合しない作品群を、「駄作」や「ノイズ」として、分析対象としない(そういう意味で、宇野さんは、さまざまな作品を分析対象として真面目に取り組んでいる姿勢は、好印象を受ける)。
私は、そういった現象を「ブルジョア道徳」と呼んでいるわけだが、そもそも、彼らのような「高学歴」の連中に、それを望むこと自体が酷だということなのかもしれない orz(世間知らずの、お坊ちゃん?)。
上記にあるように、あらゆる「複雑」化はもはや分析不可能とされ、というか、むしろ、自分たちでそういうことにしちゃったがゆえに、一切の諸関係が、すでに、この社会にはないということにしなければならなくなっちゃってる。つまり、「フラット」に社会がなっちゃった、というふうに振る舞わざるをえなくなっちゃって、つまり、自分で、社会の分析手段を、ことごとく放棄しちゃったがゆえに、追い込まれた先に、最後にもってくるのが、ベタベタの

  • 心理学(笑)

つまり、パパ、ママ、ボクの弁証法というやつで、

  • 家族

の物語、親子関係や恋愛関係で「あらゆること」を説明せざるをえなくなる。なんでもかんでも、マザコンファザコンということにされて、まあ、親子と恋愛という、私的な利害当事者だけの関係だけで、すべての話を閉じ込められるので、弱者救済のような「他者」が登場する社会問題の話をする必要はなくなる、というわけだ。
(オタクは結婚しない、いつまでも「大人」になることを拒否する、幼児化から抜けられない、ダメな社会人だとさ。こんな、つまんない保守オヤジみたいな「説教」しか言えないんだったら、オタクうんぬんはいらないんじゃないですかね。)
そして、まるで、戦前の帝国日本のような「産めよ増やせよ」の礼賛となる。ただ、動物のように、子孫を絶やさず、

  • 無限ループ

のように産み続けることが「希望」だと。つまり、各個人の個性という「人間性(=ヒューマニティ)」や、自然権のようなものが、この複雑化した、ゼロ年代においては、雲散霧消し(無限ループする一人一人の「この」人生は、一人一人にとって、かけがえのない人生なんですけどね。なんなんですかね。2回目の人生で、前の人生が「報われる」とでも言いたいんですかね。一人一人の<人生>をなんだと思ってるんですかね)、ただ、「動物」としての「雌」が子孫を次の世代に産み落とすという「(ブルジョア)道徳」だけが、

  • 希望

として、見出される...(私には、どこか、ナチスの生物学主義に似ている印象を受けるのだが、それも、お互い、ハイデガーの影響を受けているわけで、当然ということなんですかね orz。それにしても、もう文芸批評なんて意味がなく自分もやらなくなったとかって、そりゃあ、結論が「産めよ増やせよ」という、戦中よもう一度、だったら、必要なんてあるわけないwってだけじゃなくて、そんな結論なら、頼むから止めてくれ、ってことでしょうw。今のSFって、そこまで「退化」してるんですかね orz)。