改めて「文化の隔世遺伝」について

以前も書いたが、田舎は、交通の便が悪い。ということは、どういうことか? 年寄りが住むには、あまり向いていない、ということだと思っている。というの、年寄りは、たとえ、車の免許をもっていても、いずれ、車を運転できなくなる。すると、どうなるか。自分の周囲しか移動できない。ところが、自分の家の周囲にあった商店街は、次々と廃業して、高速道路沿いの巨大スーパーマーケットに変わっていく。じゃあ、そこに、どうやって行くのかとなると、自分の「子供」に車を出してもらって行くしかなくなる。しかし、一体、どんな「理由」で、わざわざ子供に、そんなことを頼めるであろうか? 大きな買い物でするという口実でもなかったら、まあ、やれないだろう。自然と、外に出なくなる。
私は、ある意味で、ずっと、田舎の「東京化」を主張してきた。つまり、田舎は、東京のように、車で移動するのでなく、電車や地下鉄で移動可能な交通網を構築すべきだ、ということである。そのことによって、こういった公共移動網の「低価格」化を実現して、年金暮らしの、お年寄りの「モビリティ」を高める。
戦後日本において、車は、一種の「若者の文化」であり、「仕事に必要なもの」として普及してきた。しかし、一点、車には欠点がある。それは、年寄りには、乗り込なせないことだ。この欠点を抱える限り、私は「車社会」は、

だと思っている。車社会は私に言わせれば、一種の「姥捨て社会」なのだ! この「困難」を、東京に住んで東京しか知らない人たちは理解していない。むしろ、私はこのことこそが、日本の

  • 急速な衰退

を意味していると思っているのだが、あまり、認識されていないようだ。
年寄りは、一体、毎日、どんなことを考えて生きているのであろうか?
もちろん、言うまでもなく、彼らは「老化」の中を生きている。日々、少しずつ漸進的に、体は動かなくなり、思考はままならなくなり、見た目は、老人の体となっていく。しかし、それは、あくまでも「漸進的」である。つまり、そのこと自体は、人それぞれ、差異はあっても、彼ら自身を「驚かす」ような性質ではない。
むしろ、彼ら自身に「ショック」を与えるのは、彼らが「共に生きてきた」同友が、次々と周りで死んでいく、ということである。彼らは、そんな彼らとの「繋がり」が次々と切れて行く中を生きる。彼らは、周りに「共通感覚」を失っていく。しかし、逆に言えば、ある種の

  • 新しい繋がり

を感じる部分もある。それは、

  • 孫(まご)

つまり、子供の子供の誕生である。私は以前に、「文化の隔世遺伝」について書いたことがある。子供の子供は、自分の

に、じっちゃん、ばっちゃんがいることが「アプリオリ」であることに、後天的に「気付く」。子供の子供は、ある意味で、じっちゃん、ばっちゃんに育てられる。子供の子供は、子供が仕事で忙しいがために、じっちゃん、ばっちゃんにあずけられる。彼らが、仕事の「忙しさ」のゆえに、

  • 必然的

に、そうなるのである。そして、子供の子供は、ある日、「気付く」のである。「自分が何によって構成されているのか」に。
子供の子供の「感性」は、確かに、じっちゃん、ばっちゃん、に「似ている」。本質的な部分で、根源的な部分で、子供の子供は、自分の中に、じっちゃん、ばっちゃんが

  • ある

ことに、後天的に気付く。彼らは、自分が、ある意味で、じっちゃん、ばっちゃんで<ある>ことを、ある日、気付くのである...。