渡邊格『田舎のパン屋が見つけた「腐る」経済』

少し前に、アニメ「少女革命ウテナ」について書いたことがある。私があのアニメに非常に考えさせられたのは、「あらゆる高潔な理想は、時間の経過と共に<堕落する>」ということの意味について、であった。
このことは、例えば、マックス・ウェーバーの「あらゆる権力、あらゆる官僚組織は、時間の経過と共に、腐敗する」と同じことを言っている、と考えることもできるであろう。
むしろ、「悪」とは、もともと、「善であったもの」だ、ということなのである。もともと、悪は善だったのだ! しかし、時間の経過が、その善を悪にする。だから、悪は善に対して、「善をあきらめろ」と諫めてくる。これは、善が「理想」であり、悪が「現実」というふうに対応させても、正しい。
このことは、何を意味しているのだろうか?
つまり、ここで問われているのは、「堕落せずに続いていく」ということが、一体、何を意味しているのか、なのである。
私は、今、この時代に生きている。しかし、こう考えてみよう。この後、百年後、今の「常識」は、一体、どこまで残っているだろうか、と。千年後は、一万年後は。
こういった問いは、何を意味しているだろうか?
フランク・ハーバートのSF小説に、「デューン砂の惑星」というものがある。あの小説は、最初、エコロジーをテーマにしていた側面があった。ある荒廃した大地を、再度、緑豊かな環境にするには、砂漠を人間が住めるような緑ある大地にするには、どのようにすればいいのか。また、そんなことをすべきなのか、といったような。
ところが、この未来小説は、その後も延々と続く。そして、後半、私に大変、印象付けたのは、はるか未来のこの世界に「コーラン」がでてくること、なのである。つまり、キリスト教も、その他の現代のこの地球上の人間の文化も滅んでいる、いや、そんなことは、これだけの未来には「当たり前」と思えるような、それくらいの、はるか「未来」において、なぜか、

だけは残っている、という「設定」になっていることであった。つまり、この著者にとって、イスラム教には、なにか、はるか未来の未来にまで続いていくような、

  • 文化としての「ミーム」の強力さ

を感じていた、ということなのである。
私は、いわゆる「大衆」という言葉に対立する概念として、「エリート」という言葉を使うことに抵抗感がある(しかも、なんの恥じらいもなく「選良」とかいう言葉を使う奴は、まったく、感性を共有しない。まるで、「エリート」でなければ、「良くない」と言っているみたいではないか orz)。それは、なぜかと言うと、彼ら「大衆」は、たんに、一つのことをすれば、まったく「変わる」からだ。彼らは、たんに、

のだ。これは、どういうことか? つまり、彼ら大衆と、いわゆる、「エリート」が、唯一、違っているのは、この

  • 今のこの社会が「どのようにできているのか」を知らない

ということだけだからだ。大衆は、ひとたび、この現代の地球上の人間社会を覆っている「資本主義」が、どのようなシステムであるのかに目覚めれば、

  • まったく違うようにこの社会を見るようになる

ということなのだ。つまり、どういうことか? そのまま、その通りのことである。彼ら「大衆」が、毎日、生きて日々、行っていること、仕事に行ったり、お金を稼いできたり、といったことが、

  • どういうことなのか?

に「自覚的になる」ということである(いや、むしろ、大学という象牙の塔に籠っている大学教授以上に、彼ら「大衆」は、マルクスの意図を理解する可能性がある。彼らの日々行っていることの「視点」から、マルクスは再解釈される...)。
掲題の本は、ある田舎でパン職人をやっている人の書いた本であるが、私が興味をもったのは、「腐る」とは、どういうことなのか、についてであった。

「なるほど。それけだと、そんなに悪いことには思えないのですが、イーストはダメだという人がいるのはなぜですか?」
「いろいろあるんですけど、ひとつは、培養の仕方が問題だっていう人もいます。栄養たっぷりの培養液のなかで酵母を増やすらしいんですけど、そのなかにいろいろ添加物が入って、それが身体によくないって。あるいは酵母の改良をするために薬品使ったり、放射線を当てたりして、突然変異を起こさせるっていう話を聞いたこともあります」
農産物の卸売会社で勤めてたときの経験から、十分にありうる話だと思った。品種改良のために、放射線で遺伝子を壊し、新しい品種をつくりだしているという話を聞いたことがある。それと同じことが、微生物の世界で行われていても不思議ではない...。

本来、小麦粉からパンを作ることは、非常に難しい、職人の技術を必要とする作業であった。というのは、発酵させる菌を加えるとき、多くの種類の菌が一緒に入るので、それぞれの菌で、発酵の仕方が違い、それらが混ざって進行するので、複雑な扱いが必要だったから。それに対して、イースト菌とは、一種の「純粋培養」で、一種類の単一の菌での発酵を意味し、この技術の確立によって、パン作りは、「だれでもできる」作業、つまり、

  • 機械化可能な作業

になった。しかし、「なぜ」そのような「純粋培養」が可能になったのか? これを、たんに、「科学の勝利」と言うことは、ナイーブすぎる。その純粋培養をする「ため」に、どのような「無理」が行われているのか? 例えば、その「純粋化」の過程で、どのような

  • 薬品

が使われているのか? そして、そういった「薬品」が、実際の商品に対してまで、どれくらい残留しているのか...。

日本で流通している小麦粉の90%近くは輸入品で、輸入小麦には、船便で出荷する前に殺虫剤が振りかけられている。輸送中に虫が大量発生するのを防ぐためだと言われている。この殺虫剤が、収穫(ハーベスト)の後(ポスト)に使われるから「ポストハーベスト農薬」と呼ばれているのだ。
収穫後の作物に農薬を振り撒くことは、日本国内では危険だとして禁じられている。ところが、これがなぜか輸入品に関しては当てはまらない。船便で出荷されてから日本に届くまでの約2週間、小麦は、船の上で殺虫剤とともに波に揺られているのだ。
輸入小麦は、日本政府がほぼすべての量を一括して買い入れている。政府は、輸入した小麦を製粉会社に売り渡し(売り渡し価格は政府が決める)、製粉会社は小麦の粒を挽いて(たいていの場合はそれをブレンドして)、小麦粉として販売している。

私が「グローバリズム」を嘲笑する理由は、こういうことである。グローバリズムがどんなに「正論」であったとしても、それが、

  • 何を意味しているのか?

について語らない評論家は、有害無益である。小麦は、そもそも、米に比べて「腐りやすい」食物である。それが、海外から「だけ」、なんらかの、

  • 薬品

にひたらせて運ぶことが許されていることを、多くの人は知らない。つまり、どう考えても、「その分」だけ、海外作物には、「リスク」があるのだ!
当たり前だが、食料は、普通にしていれば、「腐る」。だから、日もちがしないのが、食料なのであって、その基本が変わることはない。そう言うと、だって、コンビニの弁当を一日くらい放っておいても、平気で食べられるよ、と言う人がいるかもしれないが、そういう人は、その弁当の裏を見ればいい。大量の保存料や着色料で

  • 薬品漬け

になっていることを、嫌でも理解するわけであろう。しかし、そう言うと、さらに、「でも、そういうのって<安全>が分かっているから、許されているんでしょ」と反論されるかもしれないが、しかし、この場合の「安全」とは、何を言っているのか?
そもそも、「不要」な「介入」が行われているとき、やらなくていいことがされているとき、「より良くなる」ということはないわけであろう。だったら、それは「リスク」ではないか。この場合に、その量が少なく抑えられているから、大丈夫と言うとしたら、しかし、その「少ない」とは、何を意味しているのか、ということであろう。
それを「少ない」と言う意味はなんなのか? 例えば、私たちの一生に食べるもの「全部」について考えてみよう。その中に、そういった「問題」のあるリスクは、どれだけあるであろうか? つまり、リスクとは「全体」によって、測られるものなのだ。一つの食品の中で、少しだったら

  • 無視できる

なんて言えるわけがない。「あらゆる」リスクの、全ての

が、そのリスクの全体を決めるのだ。だとするなら、その

  • 全体の量

を少なくすることしか、こういったリスクの回避方法はない。
コンビニ弁当が腐らないとは、何を意味しているのか? 腐らないということは、腐ることを、その「薬品」がさせていない、ということである。食料という「生物」に作用して、自然な生物の動きを妨害している。もっと言えば、食品の中にいる

  • 微生物を殺している

わけであろう。つまり、同じことが、それを食べる人間にも言える。

  • 人間の細胞を殺している

ということである。

自然界のあらゆるものは、時間とともに姿を変え、いずれは土に還る。それが「腐る」ということだ。その変化の仕方には、大きくふたつある。「発酵」と「腐敗」------。それを引き起こすのが「菌」の働きだ。
本来、天然の「菌」は、リトマス試験紙のように、「腐敗」させるか「発酵」させるか、素材の良し悪しを見分ける役割を果たしている。
素材が人間の生命を育む力を備えている場合、「菌」は素材を、人間を喜ばせるパンやワインやビールのような食べものへと変える。食べものをより美味しくしたり、栄養価や保存性を高めたりする。お酒のように楽しく酔わせてくれたりもする。これを「発酵」と言う。
一方で、生命を育む力をもたない食材は、食べないほうがいいよと人間に知らせるために、無残な姿へと変える。人間が食べると害にんる。これを、「腐敗」と言う。
「発酵」と「腐敗」は、どちらも、自然界にあるものが、「菌」の働きによって土へと還る、自然のなかに組みこまれた営みだ。つまり、自然界のあらゆるものは、時間とともに姿を変え、いずれは土に還っていく。
けれども、イーストのように人工的に培養された菌は、本来「腐敗」して土へと還るべきものをも、無理やり食べものへと変えてしまう。「菌」は「菌」でも、自然の摂理を逸脱した、「腐らない」食べものをつくり出す人為的な「菌」なのだ。
添加物や農薬といった食品加工の技術革新も、同じような作用を引き起こしている。時間とともに変化することを拒み、自然の摂理に反して「腐らない」食べものを生みだしていく。

このことは、多くのことを示唆してくれている。私たちは「堕落」を恐れる。しかし、堕落とまで言わないとしても、なんらかの意味で、次々と

  • 変化

していくことは、むしろ、自然の摂理なのだ。変化を恐れてはいけない。変化し変わっていくことは、この社会が要求している摂理なのだ。つまり、坂口安吾が言ったように、むしろ、堕落しなければならない。堕落するから、その先の未来について語れる。いや。堕落をしながらも、「本来の理想」を、その状況に対応させて、体現するわけである。
それが、ここで言っている、腐敗に対応する形での「発酵」であろう...。

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」