科学者の発言と「バイアス」

3・11以降の、福島県での、低線量放射性物質に対して、ある科学者が、しきりに、「学者の役割として、<どこまでは大丈夫なのか>を、住民に啓蒙する義務がある」、つまり、どこかで

を引いて「あげる」ことが必要なんだ、と言っていたことが、私には、今も、ひっかかっている。つまり、学者の使命として、住民に、

  • ここまでなら大丈夫だよ

と、「えいや」と線を引けなければ「だめ」なんだ、というわけだ。
しかし、そうだろうか?
「公害」とは、そもそも「量」の問題である。しかし、ここで量と言っているのは、ある一瞬における量ではない。それは、自分の全人生に渡って「蓄積」されていく、

  • 全体のリスク

のことである。そういったリスクはもちろん「確率的」に私たちに作用してくるが、その確率は、言うまでもなく、「生涯に渡る全体の量」によって、比例するわけである。
この場合、そのリスクを、例えば、放射線「だけ」で考えることも、あまり意味がない。あらゆる「リスク」は、その「全体」によって、決定する。放射線の危険性だけを避けても、他のリスクに無頓着であれば、全体としてのリスクは下がっていかない。
つまり、どこかに線を引いて、「ここから下は安全だよ」「ここから下は考慮しなくていいよ」と言うんじゃなくて、

  • 自分の人生を「すべて」のリスクの全体がどれくらいの大きさなのか?

を意識して生きる必要があるよ、と言うべきなのだ。
言うまでもなく、コンビニ弁当には、大量の合成着色料や合成保存料などの、自然界にはない、人間が生み出した、人工的化学物質が、大量にふりかけられている。もちろん、その調理以前には、その食材を育てるのに、大量の農薬が使われていたであろう。
そういったものは、「使うことが認められている」。そう言うと、つまりは、「安全」ということだろう、と考えがちである。しかし、それは違う。「認められる」というのは、なんらかの、

  • 手続き

の話なのだ。その手続きを経たから認められた、ということを意味しているにすぎず、つまり、「どこかで線を引いた」ということを意味しているにすぎない。そのことが、そのリスクの大きさを見積もるには、いい目安かもしれないが、そのことが「安全」を意味していることを少しも意味していない。長期的な、服用が全体のリスクを上げることは、普通に考えられる。
大事なポイントは、そういった一つ一つの対象のリスクをコントロールしよう、という態度(「えいや」で、どこかに「線を引く」といった)には、無理がある、ということである。そうではなく、

  • そういった細かな無数の種類の区別なく、「全体」として、リスクを減らしていく

という態度の方が、建設的だ、ということである。どんなに急がしくても、毎日、コンビニ弁当ばかり食べていたら、そりゃ、体に悪そうだ、とか。
では、なぜ科学者は、そういった「線」を引きたがるのか?
おそらく、そこには、私は、生産者の側に立った、「風評被害」のリスクの極小化を意図しているのではないか、と思われる。
もしも科学者が、自分の立場を、生産者側に立って考えるなら、ある商品が、一時的であれ、極端に売れなくなることは、その生産者にとって「死活問題」であることを知っているわけである。そのように考えたとき、こういった科学者は、自分の役割を、なんらかの、社会にとっての、

において考えることが、想定できるであろう。つまり、これを「パターナリズム」というわけだが、しかし、少なくとも、その発言は、

  • 局所的真実

にすぎないわけで、全体に対して、バランスのよい発言をしているわけではない(消費者に、なんらかの「購買行動」をとらせるために、ある部分的な「真実」ばかりを、極端に強調して、その他の、バランスを考えたら、言及しないのは、異常な印象を与えるような部分を、極端なまでに、言及を避ける、ということである)。
しかし、こういった行動は、ある意味、生産者側の「圧力団体」が行っているマスコミへの圧力運動と、ほとんど、同値であることが分かる...。