中島隆博『共生のプラクシス』

どんなシステムも、時間の経過と共に、次第に「堕落」する。
このことについて、私は、ある種の「逆」の対応があるのではないか、と考える。
つまり、例えば、儒教において、

  • 君子と小人

の対応があるが、私はこれと、

  • 理想と堕落

は対応するんじゃないのか、と考えている。しかし、そう言うと、人によっては、「違和感」をもつのではないか。なぜなら、一般に次のように対応して考えられるからだ。

  • 時間:小人 --> 君子
  • 時間:理想 --> 堕落

つまり、時間の経過から考えると、反対になっている、ということである。しかし、そうではないんじゃないか、と私は考えている。つまり、
この儒教における概念は、どこか、ヘーゲル的なのだ。つまり、正しくは、こうだ。

  • 時間:小人(君子?) --> 小人
  • 時間:君子 --> 君子

ヘーゲルの歴史哲学において、あらゆる現象は、

  • 最後

から考えられる。それは、人間においては「死」から、その人の人生を振り返る、ということである。儒教とは、「教育」の体系である。ということは、このカリキュラムに沿ってやっていけば、普通は、「君子になる」と考えられる。しかし、その人が本当に君子かどうかは、本質的なところでは、他人には判断できない。つまり、その人が君子「である」かどうかを、小人が判断できない。君子でさえ、見誤る。それは、

  • 本人

だけに可能だ、ということである。上記において、前者は、周りは、彼が、高い役職にも就いて、立派な君子だと思っていたのだが、晩年に、晩節を穢して、実は、小人だった、と「歴史的」に判断されている場合である。後者は、そういった瑕疵が、死ぬまでなかった、つまり、

  • 堕落しなかった

と「歴史的」に判断された、つまり、本物の君子だった、と考えられた場合である。つまり、ここにおいて、儒教における、君子の概念は二つの側面によって定義されていることがわかる。

  • 現在残されている「歴史書」に描かれている、過去のその人の生涯を見て、その人が君子「だった」か、小人「だった」かが判断される。
  • 儒教における教育システムを受けることにより、儒者は、高い役職を得て、「君子」になったと見なされるが、実際に、自らが君子であるか小人であるかは、ある意味で、「自分」にしか分からない。つまり、「独り」においてしか明かにならない。

よって、朱子学においては、どうしても「混乱」が避けられない。朱子学における、君子と小人の概念は、ちょうど、現代における、

  • エリートと大衆

に対応している。儒者とは、現代における「知識人」のことである。つまり、朱子学の立場からいけば、君子の「必要条件」に、知識をもっている、という部分があることが前提にある。つまり、君子は「エリート」であることが推論できる。しかし、問題は、

  • エリートが君子か?

というところにあった。この十分条件は必ずしも、正しくない。それは、歴史が示している。しかし、じゃあ、どう判断したらいいのか?

「誠意」は、君子と小人を分割する関門であった。

この関門をまだ通過していなければ、たとえ小善があったとしても、黒の中に白が[わずかに]るようなものだ。しかし、すでに通過していれば、たとえ小過があったとしても、白の中に黒が[わずかに]あるようなものだ。
(『朱子語類』一、巻十五、二九九頁)

この関門の名、はたして「誠意」である。これは、そこを通って悪から善に向かう関門でると同時に、人と鬼、人と賊を分ける関門、そして何よりも、君子と小人を分ける関門である(同、二九八--九九頁)。この引用にあるように、関門の手前にいる小人は、たとえ小善をなしたとしても、それは大きな悪の中では見分けもつかない小さなことにすぎないために、善をなすことにはならない。それに対して、関門をくぐった君子は、その後、小過をなしたとしても、悪には至らず、善の中に居続ける。
そもそも中国思想において、君子と小人の分割はよく知られたものである。そして、この分割は決して対照的なものではなかった。君子が、様々に変奏されながらも一貫して理想とされ、そこに知や善が配当され、権力や文明に与る者とされてきたのに対し、小人は、たえず蔑視され、悪をはじめとする否定的な要素を背負あされ、夷狄や禽獣といった人間の他者として表象されることもしばしばであった。それでも、小人は単純に君子と切り離されていたわけではない。それは、君子を君子たらしめる条件(たとえ否定的であれ)でもあるし、たえず君子に向かって整序されていく機構を作動させる装置でもあった。そして、朱子学はその中でも、最も強力な機構であったのである。
念のために、朱子学の自己啓蒙のプログラムを確認しておこう。
君子は他人から見られることのないその内面において自己啓蒙を行う(「明徳を明らかにする」)。その場合、すでに見てきたように、「誠意」がその枢要をなしていて、「意を誠にする」ならば、一切の虚偽と「人欲の私」は消え去り、「天理の極」が尽くされるはずである。この内面化のプロセスがいったん作動し、完成すると、次に「おのずと」他人である「民」に及び、その他人もまた自己啓蒙をはじめる。朱熹は『大学』の経書本文にあった「民に親しむ」を「民を新たにする」と変更したが、それは君子の自己啓蒙が他者の啓蒙に向かう道筋をつけるためであった。その場合、実に都合のよいことに、この民は「自ら新たにする民」であって、自己啓蒙に成功した(と思われる)君子を前にすると、自発的に自己啓蒙を開始するというのである。ここには、何とも理想的な他人が想定されている。
このように、どれだけ都合がよいと言われようが、朱子学においては、君子と小人の間に連絡があり、小人は君子に向かう自己啓蒙のプログラムの中に位置づけられていた。

中国の歴史は、いわば、官僚腐敗の歴史であった。というのは、そういった「君子」と、官僚の「同一視」が、かなり

  • 寛容

に行われてきたからだ。というのは、上記の引用にもあるように、「君子」において、「小過」がすぐに悪に至らず、善にとどまる、と考えられるから。つまり、大量の「小過」が、当たり前のように蔓延する社会になってしまう。
このことは、現在の共産党一党支配体制においても変わっていない。大衆には、根源的な役人不信がある。そして、相変わらず、役人は、地方に行けば行くほど、腐敗している。このお互いの「和解」は、ほとんど、絶望的であるが、不思議なことに、この二つの極は、それぞれ、

  • この状態のまま、非常に長く続く

ということなのだ。それが、上記にあるように、朱子学的な「エリート正当化」の論理が、補強している。上記の引用にもあるように、朱子学においては、「なぜか」小人は君子を前にして「新たにする」、つまり、

  • 勝手に「いい子」になり始める

と決めつけてる。しかし、このことは逆に言えば、いつまでも、いい子になりさえしないような、「夷狄」や「外国人」は、暴力的に弾圧する、と言っているのと変わらないわけであろう(つまり、朱子学には「他者」がいない)。
よく知られているように、デリダは、フッサールの『幾何学の起源』を考察するにおいて、カントの意味での、「超越論的」という言葉を、フッサール自身が使うその意味において、カントの意図を「超えて」解釈している(つまり、いわゆる「超越的」の意味で使っている)。

デリダフッサールに認めた超越論的な次元は、カント的意味に収まるものではなかった。よく知られているように、カントは「対象にではなく、むしろ対象についてのわれわれの認識の仕方------こえがアプリオリに可能であるべき限りで------に一般に関与する一切の認識を超越論的と名付ける」(『純粋理性批判』B25)と述べている。つまり、「超越論的なもの」は、認識(経験)に先立ち認識(経験)を可能にする条件であった。そしてフッサールもまた、超越としての対象に先行しそれを構成する超越論的な主観性を問う限り、カントの後継者であるはずである。しかし、デリダは次のように述べた。

もしイデー[イデア]がここで超越論的意味を有しており、すぐ後で見るように、超越論的主観性の構成された契機にとっての「彼方」にほかならないと考えられるなら、フッサールは深いところで、超越論的なものの本来のスコラ的意味(アリストテレスの論理学でいう超カテゴリー的なものとしての、一・真・善etc)を、カント的な受容を越えて、しかしまたカント的な企てを進展させる中で恢復したことを見ることができる。
(OG 162*253-54)

フッサールの試みが「超越論的なものの本来のスコラ的意味」を恢復し、カント的な意味を超えていると言う時、デリダは「超越論的なもの」を、「彼方」すなわち<超越>として理解している。しかし、それはいかなる意味での<超越>なのか。パラフレーズしよう。デリダは、イデアが、経験を構成するものとしての超越論的主観性を構成する、さらに超越論的なものであり、可能性の条件という権利に先立つ根源的な<事実性>だと考える。対象の事実性が超越論的主観性に権利上後続するのとは反対に、このイデアの<事実性>は超越論的主観性に権利上先立つ。その限りでの超越、すなわち対象の超越とは区別される<超越>を、デリダは「超越論的なものの本来のスコラ的意味」と述べるのだ。
ただし、確認しておくと、このイデアは、プラトン主義において理解されるような、強い同一性を有したものではない。それは、かえって、イデア的な同一性を産出するものであり、同一性と差異の手前にあるものだ。プラトン主義から解放されたイデア。それを導くのに、フッサールはまず、すでに構成されたイデア的対象が如何にして客観性を有するかという問いから始める。その際に、言語と相互主観性を考察したのだが、それらはイデア的対象が客観化されるために必要な条件であった。すなわちイデア的対象は、それが言語によって他者(相互主観的な)に伝達されていくという意味での「伝承」においてのみ客観化される。だが、そもそもイデア性そのものは如何にして構成されたのだろうか。イデア的対象の「起源」において何が起こったのだろうか。これが次の問いであり、その答えとしてフッサールは、カント的な意味でのイデーという極へ向かって不断に移行すること、すなわちイデア化 Idealisierung を挙げた。このイデア化を措いて、極としてのイデア(無限のイデア)がすでにあるわけではない。あるのはイデア化の運動だけであり、イデアはその統制的な極として想定されるにすぎない。イデアそれ自体を現象学は見ることはできない。しかし、その見ることの不可能性は現象学だけが言いうる。
したがって、この超越論的なイデアは、イデア化の運動(そしてその極としてのイデア)である以上、歴史的である。

おそらく、イデーは、歴史と「理性的動物」としての人間の中に隠された理性とともに、永遠のものである。フッサールはそのことをしばしば語った。しかし、この永遠性は歴史性にほかならず、歴史の可能性そのものなのだ。その超 - 時間性------経験的時間性に対して------は、汎 - 時間性にほかならない。イデーは、理性と同様に、そこにおいて自らを晒す歴史、つまり唯一にして同じ運動なのだが、そこで自らを露呈し、脅かされる歴史の外では何ものでもない。
(OG 156*236)

超 - 時間的でありかつ汎 - 時間的である<歴史性>。繰り返しになるが、この<歴史性>もまた事実の歴史ではない。事実の歴史は、現象学では一貫して最初から還元されている。そうではなく、イデアは事実の歴史を構成する「超越論的歴史性」である。それは、決して現前することがなく、経験的時間を超えた(超時間的)過去においてたえずなされる(汎時間的)伝承の運動であり、今現在においても働き続ける。
後に、デリダはこの超越論的歴史性を、「差延」「反復可能性」「痕跡」「技術などの「概念」によって変奏していくだろう。しかし、それらを通じて一貫して重要なことは、デリダが「超越論的な」という言葉のもので、<超越>という古い語の意味を、新しい仕方で恢復しようとしていることである。だからこそ、それは常に「神」の問題と結びついているのだ。

上記の、カントにおける「超越論的」の意味は、最近、紹介した『ルールに従う』において検討されていたように、それは「超越論的動機」の文脈で、本来は考えられるべきと考えられる(そういう意味では、ハーバーマスに近いということになるか)。
カントの言う「超越論的」とは、私たちが今このようにあることが、そもそも、どういった文脈の中で起きているのかを問う姿勢だと言えるだろう。なぜ私たちは、往々にして、ルールに従っているのか。それは、逆に問うなら、そうやって私たちが今、こういったルールに往々にして従っていなければ、そもそも、成立すらしないような、慣習が、今の社会には、たくさんあるんじゃないのか、と問うことに近い。
(おそらく、ハイデガー存在論は、このカントの超越論的に非常に近いところで、考えている。)
対して、デリダフッサールの、超越論的=超越的については、どうだろうか? デリダは、上記にあるように、それを「カテゴリー」の意味で使っている。つまり、プラトン主義の「イデア」として(そういう意味では、デリダライプニッツに似ている)。
しかし、他方において、デリダは、ここでの「イデア」の実体化に抵抗する。それは、あらゆる「生き生きしたもの」は、絶えず変化することなしには、ありえないから、である。つまり、その「イデア」は、歴史的に定義されなければならない。しかし、ここで言う「歴史」とは、一般の意味での、歴史ではない。それは、ヘーゲル精神現象学が描くような「歴史」であって、私たちが普通に考えるような意味での歴史とは違っている(実際に、彼は、その内実を、旧約聖書の逸話を考察することによって、明らかにしていくわけだが)。
上記にあるように、そもそも、フッサール現象学では、歴史を考察することはできない。それは、歴史は、現象学的還元の対象だから。というか、それは「イデア」だからだ。
もう一度、朱子学パラフレーズで考えてみよう。

  • 時間:小人(君子?) --> 小人
  • 時間:君子 --> 君子

前者は、生前は「君子」として扱われながら、歴史の審判としては、「小人」と扱われた「小人のイデア」である。後者は、生前も死後も、人々が「君子」として扱った「君子のイデア」である。両方に共通するのは、お互い、歴史の審判においては、「小人」であり「君子」であるというイデアは、明確であり、なんの、混乱もない、ということである。
しかし、前者は、生前においては、そうではなかった。そいつは、立派な役職に就き、なに不自由することなく、安穏とした日々を送り、その品性において、後代において、「小人」として扱われる。
ここにおいて、ある「ノイズ」が存在することが意識されてくる。なぜ、生前は、君子として扱われながら、死後、「小人」とされたのか。もし、死後、「小人」とされるなら、生前においても、なんらかの「小人」として、「印」が刻まれていたのではないか。つまり、この人を朱子学は君子にふさわしい役人として扱ってはならなかったのではないか。
ヘーゲルが言うように、歴史は、後から振り返られる。ミネルバの梟は宵闇に飛び立つ。つまり、常に、歴史は「結果=目的」によって、見られる。
このことは、非常に重要な認識である。私たちは、一見、過去の事実を語り、過去の事実にこだわっているように思われる。しかし、私たちの関心が過去にあることはありえない。私たちは、常に、

を生き、今のことしか考えていない。過去は常に、今を「象徴」するための、アイコンでしかない。
私は、いわゆる、日本特殊論が嫌いだ。例えば、神仏習合のような、日本において、世界の宗教が辿り着いたはいいが、それらが、雑居して、併存し留まる、といったような。
しかし、そんなことを言うなら、中国においても、儒教、仏教、キリスト教が、それぞれないとは言えない。少なくとも、学問としては存在している。
むしろ、注目すべきことは、なぜ、この三つが、「混ざる」ことができないのか、ではないのか。
つまり、この三つが、そう簡単に混ざれないのは、その根本において、「前提」とされている教義が、

  • あまりにも違って、お互いが矛盾している

ために、並列させられないから、ではないのか。
仏教は殺生を禁止する。それに対して、キリスト教は、むしろ、動物を殺すことは食料の確保を考えれば、行わなければならない。ところが、キリスト教は、人を殺すことは禁止している。だとするなら、人と動物には、なにか差異がなければならない、ということになる。

すぐに浮かぶ理由としては、人間は死後、生前の行為に応じて、その善悪を審判され賞罰を与えられるはずだから、その魂は不滅であるだけでなく、各自の固有性を維持していかなければならない、だからこそ人間の魂には、動物の魂と異なって、固有性を保証する原理が求められた、というものだ。『天主実義』第三篇「人の魂は不滅であって、鳥獣とは全く異なるということを論じる」には次のようにある。

第語[の理由]。天主の[人間に対する]応報は公平無私なものであって、善なる者は必ず賞し、悪なる者は必ず罰します。現世においては、悪を行った者が富貴や安楽を貪り、善を行った者が貧賤や苦難をなめることがあります。もちろん天主はその人が死ぬのを待って、そのあとでその善なる[者の]魂を取って賞し、その悪なる[者の]魂を取って罰します。もし魂が身体と共に滅びるならば、天主はどうしてその人を賞罰することができましょうか」と。
(『天主実義』第三篇、『天学初函』、四四五頁/九二 - 九三頁)

先ほどの、デリダの議論を考えてほしい。私たち人間は、「生き生きとしている」のだから、そこに「同一性」を主張することはできない。なぜなら、一瞬として同じとは言えないのだから。同じであったら、それは「生き生き」していない、変化していないのだから。
つまり、なぜ、なんらかの「同一性」を考察できるのか? 何が同じなのか? ここで言う「同一」とはなんなのか? 人間は絶えず、細胞が分裂し、ひとときも同じとは言えないはずなのに、なにが「継続」していることで、それを「同一」と考えるのか。自らを「同一」と認識するのか、また、その認識に危うさはないのか。
こういった問題を、ここでは、「倫理」において、考えるわけである。キリスト教において、人間に魂がないと考えることはできない。なぜなら、キリスト教は、死んだ後に、その魂が、善悪の賞罰を行われることと切っても切れない関係にあるからである。よって、魂は、なければならない。そうでなければ、「倫理的な危機」を避けられない。つまり、この認識を捨てることができないのだ。
これが、上記のデリダの言う「超越」性である。つまり、この「超越」性は、「倫理」的にあると言わなければならない。つまり、この「イデア」を捨てられないのだ。
このように考えていったとき、それぞれの宗教の「対立」が、そう簡単に、解消することはないように思われる。つまり、よりディープなところまで突き詰めると、ほとんど、和解の余地がないところまで、行かざるをえなくなる。
この問題を考えたのが、ルソーである。つまり、ルソーは社会契約論の最後の最後で、この社会契約論が、唯一、うまくいく方法として、

  • 市民宗教

なしでは、すませられない、と言ったわけである。

ルソーの「人間の宗教」の定義を再確認しよう。それは、「神殿も祭壇も儀礼もなく、至高の神への純粋に内的な礼拝と、道徳の永遠の義務とに限られているような、純粋で単純な福音の宗教、真の有神論であり、自然的神法とも呼びうるもの」(同、二四四 - 四五頁)であった。この定義通りであれば、それは自然神学ん影響を強く受けたとされる「アメリカ市民宗教」と矛盾しない。そして、その実現としての「世界的市民宗教」とも矛盾しないであろう。

市民宗教は、宗教ではないが、宗教「のように」働くことを期待されるなにか、である。それは、宗教なしでは成り立たないが、いわゆる宗教では、さまざまな対立を乗り越えられないがゆえに、

  • なんちゃって宗教

によって、このアポリアの「全て」を乗り越えようとする試み、だと言えるであろう。

和辻は、孔子と『論語』を宗教性から切り離し、儒教は倫理道徳的な「人倫の道」を説いたものであると論じていった。その際、和辻は孔子を、ブッダソクラテスそしてイエスと並ぶ「人類の教師」と定義しながらも、しかし、孔子あその他の三人と異なり、死の問題に触れなかったし、孔子の伝記にはその死に関するいなる記録もないと指摘することで、宗教性を払拭しようとしたのである(和辻哲郎孔子』一九三三年、『和辻哲郎全集』第六巻、三三七 - 三四〇頁)。
では、和辻の見る孔子の思想の核心は何であるのか。それは、「宗教的な神」ではなく、「人倫の道」である。

道が理解され実現されさえすればそれでよいのである。しかもその道たるや、人倫の道であって、神の道でも悟りの道でもない。人倫の道を踏みさえすれば、すなわち仁を実現し忠恕を行ないさえすれば、彼にとって何の恐れも不安もなかった。だから彼の教説には何らの神秘的色彩もなく、従って「不合理なるがゆえに信ずる」ことを要求する必要もない。すべてが道理なのである。かかる意味において人倫の道に絶対的な意義を認めたことが孔子の教説の最も著しい特徴であろう。

和辻にとって儒教は超越的な神に向かう宗教ではなく、人の日常に根ざした倫理道徳を行うものである。今日の中国での用語法によれば、これはまさに儒教ではなく儒学の称揚である。そして、こうした孔子儒教イメージは、決して和辻一人のものではなく、戦前の日本においては広く受け入れられていたものであった。

和辻哲郎が戦前考えていた、上記にあるような、孔子の「市民宗教」化は、おそらく、京都学派には、共通した認識だったのかもしれない。
ようするに、ちゃんと「立派」であれば、「それでいい」わけである。なんの神秘的な装飾は必要ない。なんの偶像崇拝もいらない。
そのことは、日本の戦中における、「神道」についても、同様の考察だった、ということなのであろう。不幸にして、あのような、ウルトラ国家神道になだれこんでいったわけであるが、京都学派的な認識においては、それらの

  • 市民宗教化

による、穏健な「儒学」化のモチーフがあったのではないか、ということなのであろう。
しかし、その場合に、最初に問うた、「君子と小人」の区別に対しては、どこまで、和解的な含意をもつであろうか。つまり、その「公共空間」は、どこまで

  • 他者

を含みうるのであろうか?
(例えば、日本における、憲法第9条は、一種の「市民宗教」として機能してきた側面があるだろうが、あまり、そういった意味が考えられてきたようには思えないのだが...。)

共生のプラクシス―国家と宗教

共生のプラクシス―国家と宗教