杉山直樹『ベルクソン 聴診する経験論』

よく考えてみると、「同一」である、ということは、実際に、どういうことなのか、というのは、考えれば考えるほど、よく分からなくなるものだ。
なにかが「同一」である、とはどういうことなのか?
例えば、「自分」について考えてみよう。あなたは、今日の朝、目覚めたときの「自分」と、今の自分が、「同じ自分」であるということを疑うことはない。しかし、言うまでもなく、今日の朝、目覚めたときから、私は、さまざまに変わっている。多くの細胞が死んで、別の細胞が生まれてもいる。自分を構成する細胞は、さまざまに変わっている。さて。この二つを「同じ」と言うことは、何を意味しているのか?
厳密に言えば、朝、目覚めたときと今は違う。というか、そもそも、

  • 時間

という、なんとも、よく分からないものにおいて、

  • 違っている

わけである。これが、「同じ」というのは、何を言っていることになるのであろう?
私たちは、この、なんだか分からない「同じ」という感覚を、自分に対して、一貫して持っている。なんだか分からないが、少し前と、今とで、自分が、「同じ」という感覚を持っている。一瞬前に自分がやったことと、今自分がやっていることを、

  • 一瞬前にそうやっていたのは、自分とは関係のない、赤の他人のやったことだ

とは、思わずに、まるで、その「連続」性を意識しているかのようである。
この、いつまでも続く「自分」というものの「同一」の「感覚」は、実際のところ、なんなのか? 何を意味しているのか?
この問題に、おそらく、もっとも、適切な形で、アプローチしたのが、ベルクソンであろう。

こうした第二の自由概念は、ジャンケレヴィッチが早くから強調していたものである。彼がベルクソン哲学からその基調をなすものとして拾い上げるのは、「有機的全体性(totalite organique)」という観念であった。この観念が、精神的諸存在の基本的なあり方を指し示す。彼はベルクソンにおける「有機化(organisation)」の概念を次のように説明している。「精神的なものは、自分を舞台とする諸変様のすべてを記録し永続化するのだといっても、同時にそれは、瞬間ごとに自らに固有の全体性を構成し直していこうとする。いわばそれは、常に有機的な仕方において、統合的(integral)であり続ける。しかしまたそれは、『外来的』な諸経験を保存しつつ、しかも深い分裂や複数性の痕跡などは留めないのであるから、認めなければならないが、この精神的なものというのは、そうした諸経験を同化(assimiler)し、消化(digerer)し、全体化(totaliser)したのであり、それが経験を変様させたのと同様に、経験もそれを変様したのである。精神的なものはいずれも、その本性からしてある全体化的力能(vertu totalisante)を有しているのであり、それによって精神的存在は外からのいかなる諸変様をも呑み込み、一歩進むごとに自らの全体的有機体、ただし連続的に姿を変えていく一つの有機体を構成し直すのである」。実に反サルトル的な描像だが、こうして描かれているのは「全体の全体への内在(immanence de tout a tout)」であり、「外的」な決定を知らないままに自らに内在し自らに即して絶えず変化生成していく、そうした私のありさまである。その内在のうちに特権的な「決定因」を探り当てた気になっても、実はそれがまさに他を圧する決定因的要素と見えるようになった過程が背後に、顕在的「図」に対する潜在的「地」のように控えており(cf.M586)、たとえ当の要素が「外来的」に見えるとしても、その外来的要素をそれでも決定因として受け止め、そのように引き受けたならばその時にはその要素はすでに「同化」ないし「消化」されている。それによる決定は、先に見たように、ある種迂回した自己決定なのだ。

多くの微妙な問題があることは承知しつつも、それでも最低限、自由論は、それについて自由が言われる何らかの主体の存在を認めるのでなければならないのだ、と言おう。非決定性や偶然性を持ち出しても(簡単なことだ)、それけで「自由」を語ることはできない。伝統的に非決定性や偶然性が自由論において何らかの重要性を有していたのも、それらを確保することによって、何らかの主体による決定のための余地が同時に保たれるからでしかない。主体を確保することこそが難しいのだ。ところで、『試論』は全体として、主体というものを外的物体と変わらない諸状態の集積に解体する連合主義的心理学に対して、私というものの固有の存在をあらためて掲げようとしていた。そして時間的継起をめぐっての考察から得られたその存在様態(有機的な全体性)は、ほとんど媒介なしに、自己決定的生成という自由概念へと私たちを導くものであった。その際の「自由」とは、もはや、私というものが持ち合わせている能力や機能ではなく、むしろこの私の存在様態そのものについての別の呼び名であったのだ。『試論』においては、「私」という存在があること、それが「持続」すること、私が「自由」であること、これは同じ事柄の異なる言い方に過ぎない。

ある「同一」性は、いわゆる、「魂」であり「主体」であり「主観」であり、いずれにしろ、私たちのこの意識が、ある「統一」「全体」をなし、それが「持続」するという、なんらかの「感覚」に関係している。
そして、ベルクソンの慧眼は、それが「自由」と「同値」であることを指摘していることである。
私たちが、自分の行動を「自由」だと思うためには、大事なことは、自分の「同質」性が、意識されなければ、生まれないし。このことは、逆からも言える。
私たちは、そもそも「時間」を理解できない。つまり、私たちが理解する時間であり、歴史とは、常に、「過去」の「想起」、つまり、記憶の呼び出しのことにすぎない。しかし、ここで「記憶」と言っているが、そもそも、これと「過去」とのマッピングは少しも自明ではない。しかし、ある種の蓋然性は指摘できるであろう。
自由とは、その「過去」の記憶から、

  • 「その」行為は、自分の意志でやった

と後付けで、とらえ直す、ことを言う、と考えることができる。つまり、ここで大事なことは、その「行為」自体が、実際にどういうものであったのかを問うていない、ということである。大事なポイントは、後から、その行為を自分が「自由」だったと捉え直すことであり、そもそも、その「過去」の記憶と、今の自分との「同一」性を前提にしなければ、この命題自体が、成り立たない、ということである。
ここで、ベルクソンの考えていることを、一つの「モデル」によって、イメージしてみよう。
まず、今、目の前に、百億個の、小さなCPUとメモリのセットがある光景をイメージしてみよう。
それらは、周囲のそれとネットワークで繋がっており、また、時間の経過と共に、幾つかは壊れて、このネットワークから離れていくが、また、幾つかは、新しい新品として、このネットワークに繋がれてく。
このコンピュータの特徴は、データとプログラムの区別がないことと、計算の実行と同時平行して、そのプログラム自体が、書き換えられていく、ということになる。
私たちは、これを「人間の思考」だと考えるわけである。
ベルクソンが、こだわっているのは、私たち人間の「反応」が、例えば、膝小僧をトンカチで叩いたときに、足首が飛び上がるような、そういった

  • 反射

のような「機械」的な「反応」によって、「構成」されていない、ということなのである。つまり、ベルクソンは、その「人間的」なるものの起源は、どこにあるのか、を問うているわけである。
ベルクソン以前の哲学を見ても、例えば、アリストテレスにしろ、だれにしろ、一つだけ言える特徴は、

  • 非常に単純な「形式」

によって、まるで、「機械」のような、物理学の作用反作用で全てが構成されているかのような、「機械的宇宙観」を示していたことである。
それに対して、ベルクソンがこだわっているのは、

  • ある種迂回した自己決定

つまり、なにかの緩衝材をはさんでいるかのような、すっ、と答がでてこない、なんともいえない、ワンクッションを置いて、あらわれるような、そんな、「手続き」の迂遠さ、なんですね。
まず、人間は、このネットワークに、ひたすら、プログラムとデータを書き込み続ける。ただし、ここでのプログラムとデータは、いわば、その瞬間の、例えば、視覚情報などの「感覚」のことである。この情報は、いわば、どんどん蓄積されていく。たまねぎの皮のように、どんどんと、新しい記憶が、かぶさっていく。そして、大事なことは、おおよそ、このたまねぎの皮は、何度も、「想起」を繰り返すことにより、その記憶の「順序」の情報を保存する。つまり、どの順番で「生起」したのかを、意識せずに、感覚できるようになる。
人間が産まれた最初の頃は、上記のネットワークも、まだ、百億個よりは少ないし、ただただ、その情報を、そこに書き込むことを繰り返す。
しかし、そうしているうちに、その、たまねぎの皮の重なったなにかに、常にアクセスし、電気信号を通しているうちに、その、たまねぎの皮の重なったなにかが返す電気信号の構造と、実際に、生活し、腕や足を動かしたり、目で見たり、口で言葉をしゃべったりすることとの、なんらかの

  • 対応

が「進化論的」な形で、生まれてくる。もちろん、このネットワーク自体が、それほど、磐石な基盤の上にあるものではないが、「おおよそ」として、その応答されてくる信号は、なんらかの

  • 同一性

を生成しうるくらいまでには、ある輪郭を示すようになる。
このネットワークは複雑になればなるほど、不思議な動きをするようになる。
例えば、百億人がオペラを演奏する場面をイメージしてみてほしい。一人一人には、なんなかの楽譜があり、指揮者だかだれかに、あなたは、こんなふうに演奏してくれ、と言われている。しかし、そのオペラが実際に、一度に演奏を始めると、その「全体」からは、なんとも形容の難しいような

  • ハーモニー

があらわれる。つまり、その個々バラバラな演奏は、それぞれが、周りから影響され、なにか「全体」として、意味がある「かのよう」な、「有意味的」なメッセージが「あるかのような」印象を相手に与えるわけである。
では、その「計算」のロジックとは、どんなものになるのか?
それをイメージするには、例えば、

のようなものを考えてみるといい。少なくとも一つだけ言えることは、こんな方程式を解けるコンピューターは存在しない、ということである。
現代の数学は、ある意味で、非常に単純化された「形式」を記述したものにすぎない。しかし、現実社会は、まさに、「百億次の連立方程式」のようなもので、そもそも、いくら時間があったて、解けっこない、というようなものなわけだ。
しかし、そんな「計算」も、実際に動作させてみれば、なんらかの「現象」にはなる。ふわっ、ふわっ、と、微妙なタイムラグをもって、その少しの時間の間に、脳全体に電気が走り、さまざまな箇所が相転移を起こし、活性化し、なんだか、よく分からない熱っぽさを残して、いつの間にか、計算が終わっている。
どうして、こんなふうになってるのか、とか、なんで、こんな挙動をしているのかとか、大抵の場合は、絶望的なまでに説明不可能ではあるが(説明が可能な場合とは、単純なモデルが、うまく説明対象に適合する「奇跡的」な瞬間であるにすぎない)、いずれにしろ、

という、私たちの日々の実践(=自由)は結果するわけである...。

ベルクソン聴診する経験論

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