山田孝男『小泉純一郎の「原発ゼロ」』

猪瀬東京都知事の辞任によって、東京は再度、都知事を選ぶ選挙を行うことになった。しかし、このことは、都議会がオール自民公明党状態になっている今において、事実上、自民党が猪瀬さんを追い出したという状況に近い。彼は、議会の中に、自分を擁護してくれる勢力を作れなかった。というか、彼は、ある意味において、そういうことに関心がなかったのではないか。彼は、自分が「正しい」と思うことをやることにしか関心がなかった。その彼が行う「正しい」ということが、都民のどれだけの後押しをもってやれるのか、というふうには、懸念を強くもたなかった。彼はエリート主義だったがゆえに、大衆を軽視した。おそらく、彼も、彼の支持者も、猪瀬さんがこうした辞めた後も、この問題の重要さを考えることはない。猪瀬さんが辞めることになったことは、そういう意味で必然であり、これからも、同じことが繰り返される。
3・11以降、猪瀬さんは都知事になる前から、明確に、脱原発依存を東京から始めることを実践していたが、現在の自民党原発再稼働推進派の圧力に抗えずに、東京独自でのLNG発電所の開発などの計画を後退させていった。それはつまりは、原発を再稼働させれば不要になる、という考えを意味していたわけで、つまりは、猪瀬さん自身が、本気で、東電と戦って脱原発を行うことに全てを賭けていたわけではなかった、ということを意味していたと受け取られた。しかし、もしそうであるなら、猪瀬さんは、残りの任期で何をしたかったのだろう? 彼が東京の原発ゼロ政策を転換して以降、彼は急速に都民の民意を失ったように思われるが、どうであろうか?
自民党から推薦を受けて立候補している舛添さんは、「ぼくも脱原発」と言った。しかし、他方において、脱原発だけを選挙の争点にするのはいかがか、とも言っている(舛添さんが、過去に、原発推進的な「夢」を語っていた人であるのは有名なわけで、立候補をする、その場で突然「ぼくも脱原発」と開き直られたら、だれでもうさんくさい目で見たくなるでしょうけどねw)。このことは、今の日本人を二つに分ける非常によいメルクマールだと思っている。

今の日本人は、だいたい、この二つに分類できると私は思っている。普通は、原発推進派と脱原発派の二つだと考えられているが、そもそも、本当の意味での原発推進派というのは、日本には存在しない。それは、小泉純一郎が言っている通りで、そもそも、原発推進派というのは、意味不明の概念である。
一般に、原発推進派と考えられている勢力とは、つまりは、上記の、「ぼくも脱原発」派のことである。彼らの特徴をまとめるなら、

  • もしも世界の趨勢として、原発を止めていかなければならないとするなら、日本も世界に遅れをとるわけにはいかないから、「いずれ」は原発を止めなければいけないよね。というか、ちゃんと考えたことないから、よく分かんないけどw

つまり、どういうことか?
「ぼくも脱原発」派の特徴は、「原発推進派とケンカをしたくない」人たちなのである。彼らは、こういった「原発推進派」と

  • 仲良く

することで、「もっと自分が実現したいことをやりたい」のだ。つまり、一言で言えば、「原発無関心派」ということになる。彼らは、原発などより、もっと「大事」なことがあるのだ。そのことに比べれば、原発がどうなろうが関係ない、と言いたいのだ。
この典型的な一人が、今の総理大臣の安倍さんであろう。彼がなぜ総理大臣になれたか。それは、彼が原発推進派の言うことを聞いたからであろう。彼にとって、原発推進

  • どうでもいい

ことなのである。自民党は前の選挙で、原発推進と言って選挙をしたわけではないのに、今では、基幹電源として位置付けると称して、日本中の原発原子力規制委員会の安全審査にかけて、「合格」にして、日本中の原発を動かそうとしている。
原発が動くことは、大手電力会社の経営改善が目的なだけでなく、その大手電力会社に大量の資金を提供している、大手銀行の経営問題として死活問題だということである。そもそもこの、原子力事業に大量のお金を投資してしまっている大手銀行は、原発ゼロとなれば、当然、その

  • 経営責任

を問われる。そのことを嫌う銀行は、なんとしても、原発事業を続けようとしている。今、原発を本当の意味で維持しようとしている勢力とは、ほぼ、この二つ(大手電力会社と、そこに大量の資金を提供してしまっている大手銀行)くらいと考えていい。
この二つにとって、自分たちのような「図体の大きい経営体」が生き残る手段としては、今までのような、総括原価方式を自明とした非資本主義的な独占体制を、政治によって維持する方向でしか、そもそも、考えられないのであろう。
しかし、言うまでもなく、原発問題は<倫理>問題なのだ。原発を続けることが、倫理的に許されるのかが問われているときに、自分がこの会社に、直近の「損失」を生ませる結果になるようなことを決断できない、といったような、目先の利益にしか興味のない選択を許せるのか、が問われているわけであろう。
長期的に考えて、もしも、今原発を止めることが、この日本にとって良いことなら、それはひいては、上記の大手電力会社や大手銀行にとっても、国民を支持を得られ、長くこの国で仕事をやっていけることを結果する

  • 良い決断

であるはずなのだが、こういった長期的なヴィジョンで決断のできる地位にいる人は決断をせず、目先の利益にとらわれる「役人」的なサラリーマンが、原発推進を強行していく、ということなのであろう。
これがいわゆる、アーレントの言う、「アイヒマン問題」というやつで、役人が上司の命令に逆らえるわけがないじゃないか、となる。つまり、だれもがサラリーマンのこの日本では、脱原発なんてできるわけがない、ということになる。
(しかし、そう言ってしまうと、じゃあ、その役人それぞれの間の「差異」を無視するのか、ということにならないだろうか。役人の中でも、極端に過剰適応して、嬉々として、ユダヤ人をサディスティックに殺すことに一生懸命になった連中と、なんとかして、上司の命令を避けようと、抑制的に統治を運営した地方の役人との差はないのか、ということにならないか。)
なぜ、安倍総理は、脱原発を言えないのか? それは、彼にとって、脱原発より大事なことがあるからだ。彼は、脱原発を「売って」、その彼にとって大事なことを買ったのだ。
脱原発を「売れ」ば、原発推進を言いたい連中の、「助け」をかりることができる。彼は、その勢力を政治的な「味方」とすることで、

  • 独裁政治

を実現してきた。つまり、脱原発を「売る」ことで、彼が本当にやりたい、憲法改正A級戦犯の名誉回復を、彼の政治生命の続く限り実現する、ということである。
なぜ、原発ゼロは政治の争点にしなければならないのか? それは、原発が非常に「特殊」な既得権益の温床であるがために、

  • 非常に大きな「政治的抵抗」

が、どうしても避けられないからなのだ。こういった問題は、どうしても、「選挙」や「住民投票」といった、「民意」によって、政治の

  • 正当性

を変えないと、変わらないからなのだ。

私の結論から言うと、これから日本の核ゴミの最終処分場の目処をつけられると思うほうが楽観的で無責任過ぎると思うんですよ。一〇年以上前から最終処分場の問題は、技術的には決着しているんですよ。それが、なぜ一五年以上かかって、一つも見つけることができないか。事故の前からなんですよ。政治の責任で進めようと思ったができなかったじゃないですか。それを事故の後、「これから政治の責任で見つけなさい」というのが必要論者の主張ですよ。このほうがよっぽど私は楽観的で無責任だと思いますよ。

フィンランドは、今、四基原発を持っている。そしてこのオンカロという施設は二基分しか処分できないが、あと二基の原発の核燃料はまだ場所は決まっていないと言っていた。しかも国会でオンカロ建設で決められているのは、いかなる国の核の廃棄物をも受け入れないということである。
地震がない。そういう国ですから。しかも岩盤で。これで決まっているのかといったら、いやまだ最終審査が残っているという。なんでか、岩盤のところどころで水が漏れている。水が漏れているか漏れていないか調べなきゃいけない。一〇万年もつかどうか調べないといけない。四〇〇メートル掘ればだいたい水は出てくる。全部岩盤だからそんなには出てこない。
翻って日本を考えてみると四〇〇メートル掘らないうちに水なんて、しょっちゅう出てきますよ。温泉出てきますよ。しかもね。二基分のゴミだけでも二キロ四方の広場だ。五四基、四基は廃炉にすると決まっており、福島の五、六号も廃炉が決まっているが、最終処分場をどれだけ造らないといけないのか。

興味深いのは、自民党はこの小泉さんの「挑発」に刺激されて、政府主導で、最終処分場の候補地を指定しようとしていることである。
まさに、「アイヒマン問題」であろう。役人は政治家の

  • 無茶ぶり

によって、不可能なことを「やれ」と命令される。ちょうど、安倍さんの靖国参拝を、世界各国にいる日本の外交官に「無問題化しろ」と、無茶ぶり、しているのと同じである。
原発推進派は、最終処分場を決められないのは、政治の問題だ、と、政治の不作為を批判する。しかし、元総理として、小泉さんは、そういった批判に、なかば逆ギレのような形で、反論する。つまり、政治が決められないのは、決められないことに、

  • 合理性

があるから、と。
火山国の日本のどこを掘ったって、温泉が吹き出してくるし、断層に突きあたる。「最終」処分なんてできるわけがない。そんなところに「捨てる」なんてできるわけがない。そもそも、捨てるなんて不可能なのだ。唯一の「安全」な対処方法は、徹底した、未来永劫の「監視」しかない。一瞬たりとも、目を放してはならないのだ(その行為自体が、なんのお金も生み出さないけど、やらないわけにはいかない orz)。

個人的な著書ではないんですよ。ロッキーマウンテン研究所の会長をしているのですから、研究所が出版した『新しい火の創造』という本です。この専門家集団による本を読んだところ、なんと、「アメリカで脱原発が必要」と説いているんです。しかももっと進んでいる。「二〇五〇年には脱原発、脱石油、脱石炭、脱天然ガスが実現できる」という本です。
うかうかしていると、日本は先を越されてアメリカが脱原発を進めるかもしれない。

こういった前向きのことを考えようとせず、むしろ、今だに

を語りたがる日本の知識人には、どこか、吉本隆明の非常に悪い「影響」を感じなくもないが、そういったしがらみのない、小泉さんや細川元首相のような、過去の政治リーダーが、こういった発言を、なんのけれんみもなく始めていくと、雰囲気は変わっていくのかもしれない。
それにしても、この突然の、小泉さんの応援による、細川元首相の都知事選出馬の動きはなんなのだろう? ここには、おそらく、安倍首相の靖国参拝などによって、アメリカの大統領と首脳会談ができないし、中韓との首脳会談もできなくなっている、日本の今の安倍首相への

  • 不信任

の動きを含意しているのではないか、と考えるのが自然なように思われる。このまま、安倍首相に首相の座に居座られることは、非常に「危険」な水域に達してきたように思われる。おそらく、その「危機感」を感じ始めた、日本の経済関係者が中心となって、現状の打開を模索した動きの一つとして受け取るのが自然なのであろう。
しかし、私がむしろ、掲題の本を読んでリアルに感じたのは、以下のような発言だ。

------昔は原発推進でしたね?
「そりゃそうだよ、当時は政治家もみんな信じてたんだよ。原発はクリーンで安いって。3・11で変わったんだよ。クリーンだ? コスト安い? とんでもねぇ、アレ、全部ウソだって分かってきたんだよ。(原発は安全で安上がりなエネルギーと強調する)電事連電気事業連合会)の資料、ありゃ何だよ。あんなもの、信じる人(今や)ほとんどいないよ」

私は、いわゆる、科学者たちが分かっていないのは、こういった「プライド」の高い政治家であればあるほど感じている

  • 自分たちが馬鹿にされた

という「怒り」なんじゃないか、と思っている。科学者や官僚は今まで嘘を言ってきた。政治家を含めて、国民はみんな、そう思うようになった。もちろん、それを科学者だけのせいにするのはおかしい、と言うのは「正論」であろう。しかし、3・11で起きたことを、具体的に、原理的なレベルで、あの事故の前から

  • 分かっていた

のが、科学者であろう。じゃあ、なぜ、こういった科学者は、3・11以前から、もっと大きな声で、警鐘を鳴らしてこなかったのか。なぜ、そうだったのか?
つまり、そうである限り、別の問題においても、同じような失敗を何度も繰り返す。このことを総括することなく、当の科学者が政治家の半可通を馬鹿にするのは筋違い、ということである。
2CHネタであるが、アニメ「ストライク・ザ・ブラッド」の決めゼリフで言えば以下だ。

  • 細川元首相「ここから先は俺のケンカだ!」
  • 小泉元首相「いいえ、先輩。私たちのケンカです!」

小泉純一郎の「原発ゼロ」

小泉純一郎の「原発ゼロ」