専業主婦は「奴隷」か?

人工知能学会というところの学会誌の表紙の絵が、ネット炎上している。しかし、それをめぐるネット上の議論は、残念な感じに、明後日(あさって)の方向に行ってしまっているようだ。
私もこの絵を、最初に見たとき、一瞬では分からなかったが、さすがに少しして、その違和感は分かった。
それが言うまでもなく、背中の「コード」である。
しかし、その前に、大前提がある。それは、この箒(ほうき)をもって掃除をしている女性の表情が、いわゆる、アニメ絵であり、その女性の顔の作りが、いわゆる、「幸せ」な感じの、「純情」な女性を描くときの、

  • いい人タイプ

の表現(つまり、キャラクター設定)だった、ということなのである。つまり、この絵の「イコン」として、そういった女性の「内面」設定と、

  • 背中のコード

が、何を含意していると、見させたのか、なのであろう。つまり、

  • 純情幸せ女性+「背中のコード」

が、

  • 背中のコード、「ゆえに」、純情幸せ女性

という、イデオロギー的な意図として、見る側に解釈された、ということなのであろう(こういった感覚は、いわば、日常的に、日本の男の子向けの漫画を見てきた人たちだったり、自分の母親が専業主婦だったりすると、こういう問題に敏感なため、ほとんど自明なまでに、辿りつく感覚だったと思うのだが、あまり、そういった日常を共有していない人たちには、それほど自明ではなく、逆に、そういった反応に至っているオタクたちの「同じ」さに、違和感をもったのかもしれないが)。
背中のコードが象徴しているのは、家電製品である。いつも見ている家にあるポットは、いつも、家の中の壁と、コードで繋がれている。専業主婦も、いわば、家の中に

  • 繋がれている

存在だと言える(いわば、見えない「コード」で壁に繋がれている「から」、外に働きに出られない、というわけだ)。彼女たちは、「働きに出たい」のに、夫の「意志」によって、外に働きに出ることを「禁止」されている、そういった「男尊女卑」的な、家長である男の命令は絶対であるがゆえに、家でおとなしくしているわけだが、上記の絵は、そうやって壁にコードで繋がれているにもかかわらず、いや。そうであるからこそ、

  • 幸せ

であるかのような穏やかな表情で

  • 純情そうなウブな感じの女性

を示していた、ということなわけであろう。
これは、いわゆる、「鬼畜芸術」問題といったもので、今までも、さまざまな形で、多くの人に指摘されてきた。
古くは、永井豪の「バイオレンスジャック」で、ヒロインの女の子が、手と足の先の途中から切られて、舌を抜かれて、しゃべれない

  • 人犬

として登場する場面があるが、こういう分かりやすい形のものは、社会の側もそれなりに反発をするので、人口に膾炙しやすい。
そうではなく、比較的に分かりにくい場合が、たとえば、アニメ「コードギアス」で、主人公のヒロインが、物語のなんの必然性も感じられない場面で、なんの意味もなく殺されるのだが、そのヒロインの死に遭遇した主人公の男の子は、むしろ、そのヒロインの死を

  • バネ

にして、さらに生きることに「やる気」をもっちゃう感じで描かれる。
こういった現象は、うがった見方をすれば、いわば、芸術と道徳の「境界線」を狙った戦略ということになるのだろうが、多くの場合、人々の「嫌悪感」をよびおこす結果となって、確かに、一時的には「ショック」を与えられるという意味で、炎上マーケティング的な「成功」となったとしても、長期的には、人々の「求心力」を失っていく結果となるため、長期的な、この業界自体の「評判の悪さ」を結果するなどの

  • 商業ビジネス的失敗

を結果していくようには、思わなくはない。なんにせよ、他人に「気持ち悪い」と思わせる人が、多くの人に好かれることはない、ということであろう...。
(人間の行動において、「生理的」な感情の大きさは馬鹿にできない、ということである)。