稲垣良典『トマス・アクィナス 「存在(エッセ)」の形而上学』

近代哲学とは、デカルトから始まって、つまりは、「経験論」のことである。
それは、現象学がよく示しているように、人が「当事者」として、経験する「内容」を内省していく学問である。その方向から、ホッブズの社会契約論が生まれ、その後の政治学デカルトの延長で決定していくわけだが、その含意する所は、二つの意味であったと思っている。

  • 人間の暴力の重要視
  • 人間の快楽の重要視

どうして、こうなるのか? デカルトであり、ホッブズであるの出発点は、自分が「経験」していること、である。これを分析する、ということである。ということは、そこで見出されるものが「本質」だと言っているのである。だとするなら、その人間を分析して見出されるものとは、なにかであるが、それが、

  • 反射的行動(=暴力)
  • 快楽充足的行動(=内的衝動)

となる。しかし、これは言ってみれば、動物にだってあるように思われる。つまり、デカルト以降、人間と動物を区別することに、意味がないことが共通理解となった。また、それと「反対」に、あることが言われることになった。それが、

である。神はいない。しかし、このことの含意は、たんに、神がいないという事実を言っているのではなく、いわゆる、「神」と呼ばれているものは、

  • 人間の被造物

だと言いたいわけである。いかにも、「経験論」らしい、主張ではないだろうか。
言うまでもなく、近代科学は、この意味での哲学の一部であるし、「経験論」のことである。それ以上でも、それ以下でもない。もっと言えば、現代の社会システムは、この経験論によって、構築されている。
しかし、ここで、はたと立ちどまって考えたときに、こういった「経験論」を自明視する態度は、たかだか、デカルト以降の近代において、始まったにすぎない、ということが、何を意味しているのか、が気になってくるわけである。

事実として確証される「存在(ある)」、つまり事実的存在、われわれが恣意的に造りだしたり、操作したりすることはできず、われわれにそれ自体として与えられる所与であって、それにもとづいてらゆる知識が構築される始源であり、基礎であるように思われるかもしれない。しかし、実際には、それは「知覚される」ものであり、「ここで・いま」(hic et nunc)「造られたもの」(factum(事実))であって、無条件的な意味での「所与」(datum)ではないことを見てとるべきではないのか。いうまでもなく知覚は知覚する者(人間)が恣意的に造りだしたり、操作したりすることのできるものではなく、不可避的に起ることであって、その限りでは所与であると言えるが、問題は知覚する者が、有限で不完全であるがゆえに、常に可謬的な(fallible)人間だ、ということである。このことは「知覚」を「感覚」(sense)と「反省」(reflection)、つまり経験(experience)と言いかえた場合も同様であって、経験するのは常に可謬的な人間である。

「存在の神秘」(Le Mystere de l'Etre)という言葉はガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel 1889-1973)によって広く知られるようになった、哲学ないし形而上学探究の核心を言い表わす言葉であるマルセルによると、問題(probleme)とはわたくしが自分の前になにか完結したものとして見出し、適当な手段もって処理したり、定義できるものであるのにたいして、神秘とはむしろわたくしがそのなかにつつみこまれているものであり、それを処理あるいは定義するための技術手段をすべて超越する。問題がだれでも外的に経験できるもの、つまり、つまり対象(objet)に関わるのにたいして、神秘はわたくしに現存(presence)し、この現存によってわたくしは何らかの仕方で存在そのものに参与し、わたくしの存在はそれによって新たにされ、完成される、とマルセルは言う。

トマス自身は、在るものを在るものである限りにおいて、つまりその全体において考察するためには、在るもの全体(totum ens)あるいは存在全体(totum esse)の全的・普遍的な流出(emanatio universalis)について考えることがどうしても必要であり、そのような流出の第一根源であり全的・普遍的原因(causa universalis)としての神による創造を肯定しなければならない、と結論した。

トマス・アクィナスとは、中世のキリスト教形而上学者でありながら、日本の明治以降の哲学者が、完全に無視してきた存在である。というのは、ラテン語をまともに読みこなせるレベルの言語能力をもった哲学者が、日本にはいなったからだ。
しかし、そのことは、ある意味で、欧米の哲学においても似たような体裁を示している。彼ら哲学者たちの著作には、どこにも、トマス・アクィナスの言及がない。しかし、彼らラテン語の読める学者たちは、トマス・アクィナスの名前を出さないで、実際には、彼ら中世キリスト教哲学者たちの議論を

  • 丸パクリ

していた。つまり、彼らの豊穣な議論の「ネタ元」が、ここにあったわけである。彼らは、トマス・アクィナスらの議論を、まるで、

  • 経験論

の「演繹」的結果であるかのように「偽装」して、文章を書くことを得意とした。しかし、である。そううまくいくだろうか?
というのは、そもそも、発想の「出発点」が違うからである。トマス・アクィナスは、そもそも、デカルト以降の素朴経験論という、近代哲学の

  • 慣習

を知らない。彼らは、それとは「全然別」の所から考えている。つまり、どう考えても「無理」があるのだ。
なぜ、トマス・アクィナスは重要なのか? それは、彼こそが、古代ギリシア哲学における、体系の完成者である、アリストテレスの正統な継承者だからだ。彼ほど、アリストテレスを徹底して読み込み、その延長において考えた人はいない。
しかし、ハイデッガーにしても、だれにしても、近代哲学は、アリストテレスの延長で考えようとしている。つまり、まったくもって、トマス・アクィナスの二番煎じにすぎない。彼らは、後追いで、トマス・アクィナスがやったことの筋を辿っているにすぎないのだ。
デカルト以降の、現象学が代表している

  • 経験論的「存在」論

の特徴は、そもそも、ここで言っている「存在」が、「経験」の範囲のことだ、ということである。しかし、こういったものの特徴は、人間の「経験」が、まったくもって、「信用できない」ということである。つまり、その「機能」の十全を言うことができない。しかし、この「存在」論は、そこから「以外」による、出発を許さない。なんとしても、「経験」に、十分な

  • 基礎

がなければならない。
しかし、逆に問うてみると、今度は、「これ以外」の手段などありえないんじゃないのか、というふうに思えてくる。というのは、私たちは、「経験」以外に、なにかを知れるのか? ということである。そんなことは、不可能ではないか。だったら、こういった「手段」によって、「存在」を定義することは、むしろ、十全なんじゃないのか(=人間の能力において、身の丈にあった態度なんじゃないか)と思われてくる。
だとするなら、アリストテレスや、トマス・アクィナスは、何をやっていたのか、ということになるであろう。
たとえば、こんなふうに考えてみるといいのかもしれない。
ヴィトゲンシュタインは、この世に神秘があることが不思議なのではなく、この世があることが神秘なのだ、と言ったが、では、なぜ、この世は、こんなふうになっているのだろうか?
それは、もちろん、私たちの「経験」の範囲で答えられることもあるだろう。各地域の気候風土が、その土地の生活慣習を結果してきた、とか。しかし、そもそも、

  • なぜ、このようにあるのか?

という問いに、最後まで答えられることはない。なぜ、ニュートン力学のようなものがあるのだろう。なぜ、量子力学は成立しているのだろう。
これは、たとえ、人間がこれから、はるか未来にまで生き残っていったとしても、その状況は、なにも変わらない。
このことは、何を意味しているのだろうか?
つまり、私たち人間は、たとえ、はるか未来永劫まで生き残ることが可能だったとして、決して「経験」できない、なにか、この世界の

を支えている、さまざまな「あるとも言えないようなもの」があると言わずにいられない、ということなのだ。
例えば、こんな例で考えてみるといいかもしれない。私たち人間が、もしも、自然数しか知らなかった、とする。1、2、3...と数を数えている。これが、人間の「経験」だったとする。その場合、上記の

  • あるとも言えないようなもの

は、どれくらいあるだろうか? おそらく、この人間の「経験」を、はるかに凌駕する「濃度」であるのではないか?
それは、実数空間と同型な非可算無限であるだろうし、もしかしたら、実数空間と同型な非可算無限を、はるかに凌駕する、

  • 圧倒的に大きな「濃度」

なのかもしれない。
しかし、奇妙なことに、それは、私たち人間には、「経験」できない。どんなに未来永劫の月日が経とうと、私たちが人間である限り「経験」できない。それが上記で「包み込まれている」と言っている意味であるが、言わば、これが、

  • 超越論

ということの意味である。もちろん、こう言うと、どうせ人間には関係ないのだから、そんなものがあろうがなかろうが人間には関係ないんだから「ないと見なす」経験論的存在論は、「正しい」んじゃないのか? と言うとしよう。
しかし、この議論は、非常にミスリーディングに聞こえるわけである。というのは、そもそも、この「超越」を理解できないことが、少しも、私たちが「経験できるもの」の範囲がどこまでなのかを示していないからである。
つまり、ここで問われているのは、ある種の謙虚さの必要性なのである。私たちが知っていることは限られているが、それが私たちが「知ることのできること」の全部ではない。そして、ある経験を説明するのに必要な、「知識」は、私たちの経験から本当は認識可能であるのかもしれないのに、まだ、それに気付いていないのかもしれない。もっと、謙虚に見直すことで、本当は気付けるのかもしれない。
そういった知識の「大きさ」を見積る上でも、上記の、この世界の「超越的描像」は、少しも、非現実的ではない。むしろ、こういった

が、人々に、「自分という存在のちっぽけさ」を意識させ、謙虚なノブリス・オブリージュをわきまえた、懐の深い人間性にさせるのかもしれないわけである...。
(つまりは、昔の柄谷さんの本の題名で言うなら「畏怖する人間」ということである。言うまでもなく、この文脈で言うなら、「神」と呼ばれてきたそれが、この「あるとも言えないようなもの」と関係した<存在>として考えられていることが分かるであろう。そして、そもそも、こういった対象について「話す」ためにも、こういった<存在>の定義を簡単には手放せない、ということなのである。)

トマス・アクィナス 「存在」の形而上学

トマス・アクィナス 「存在」の形而上学