差別という言葉

ある人が、だれか別の人を「差別をした」と言うことは、とても強い言葉であることが、以下のブログで強調されている。

よく自らの留学経験や海外体験などを語る際に、「最初の頃は、クラスになじめず、人種差別を経験しました...」などと安易に語る人を見受けるが、そうした話の多くはただ単に、ご本人が海外生活最初の頃は人見知りで、異文化を越えた「友だち作り」が上手じゃなかっただけということだ。
本当の人種差別とは、アメリカ到着早々に留学先の世話人に奴隷として売り飛ばされた高橋是清のような経験をいうのである。
日本人にとって「差別(discrimination)」というのは、自分を被害者として主張する場合に使われる言葉となっている。ようするに「自分は悪くない」というニュアンスがある言葉だ。
しかし、日本の外にでると「差別(discrimation)」とは、差別を行っている人を攻撃する言葉となる。ようするに「オマエは人種差別者だ」という、弾劾のニュアンスを持つ。
留学先で「人種差別を経験しました」などと安易に口にする人は、最終的には友だちとなったであろうクラスメイトたちを「人種差別者(racist)」とよんでいることに気がついているのだろうか。
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この場合、

  • 差別する:Aという人 --> Bという人

となるわけだが、場合によっては、

という場合もある。
しかし、こういった表現は、本質を正しく表現していない。正しくは以下である。

  • 「Bという人を差別した」と言う:Xという人 --> Aという人
  • 女性差別をした」と言う:Xという人 --> Aという人

この場合、非難される人自身が、当事者の場合が多い。つまり、以下である。

  • 「私を差別した」と非難する:Bという人 --> Aという人
  • 女性差別をした」と非難する:Bという女性 --> Aという人

つまり、

  • Aという人:加害者
  • Bという人:被害者

となっている。
差別は社会問題である。つまり、社会的に取り組まなければならない、社会の「課題」である。この場合に、非常に問題になるのは、この加害者を、

  • 犯罪者にしたてあげる

という形になることである。例えば、ある人が、だれかを殺したら、その人は、牢屋に入るであろう。場合によっては、死刑になる。つまり、社会学者のゴフマンが言う

の問題なのだ。お前が私を差別したじゃないか、という非難は、

  • 私:被害者
  • 相手:加害者

の関係を受け入れろ、ということである。そして、これは、社会に対して、この関係に同意しろ、という恫喝にもなっている。
この場合に、何が問題なのか?
それは、言うまでもなく、本当に上記の関係は「自明」なのか? ということなのだ。差別というのは、「人の心の中」に関係している。この場合、一般的に社会通念として、ある差別語を使って自分を侮辱した、ということが自明な場合は、比較的に人々の理解を得られやすい。ところが、そうでない場合は、その

  • 内容の解釈

によって、「私はそう受けとった」という形になる。その場合に、どこまで、そう受けとることが自然であっても、本質的なところで、そもそも、あなたは相手のことをどこまで知っているの? という、人間論になってしまう。
この場合、何が問題か?
それは、ここで「差別」という言葉を、「あえて」使うことなのだ。「差別」という言葉を使うということは、上記にあるように、

  • 自分の被害

を訴えているわけで、つまり、自分にとっての利益回復や名誉回復の運動でもあるわけである。しかし、本当に、自分はそんなことを求めているのか、と問いかけてみた方がいい。もしかしたら、そういった淡い期待が、どこかにあるのかもしれない。有名な人に反応してもらいたい、といったような。
しかし、もしそういった動機がどこかにあるなら、この問題の成否は、どこか、不純ではないか? なにが正しいのかではなく、結局は、当事者としての「気分」の方が大きいということになれば、今度は、これを問うている方の、「行儀の悪さ」の話になってくる。
言うまでもなく、貧乏な人にとって、お金持ちは、それだけで、「不快」な存在である。しかし、だからといって、「何をしてもいい」ということになれば、今度は自分が助けてほしいときに、彼らが快くサポートしてくれるかを期待できないであろう。
これが、ノブリス・オブリージュというやつで、自分の「主観」で、全ての正当性を調達することはできない。自分がそう受けとったから、相手は差別主義者だ、と「論理的」に推論することはできない。
この場合、どういった態度が無難だと言えるか。早い話が、「差別」という言葉を使わなければいいのだ。そもそも、差別という言葉を使わなくても、相手と対話はできるし、相手のマナーの悪さを、それとなく、追求することは、いくらでもできる。最初から、相手のプライドを傷付け、相手の名誉を貶めるような行為をすれば、当然、彼らの

  • 実力行使

を結果してしまう。そこまでの過激化を求めていないのなら、もっと「論理的」な推論による「説得」から入って、相手がそもそも、どういう人なのか、どういった特徴があるのかの、探りを入れるところから入って、もっと、相手を知る、ということが、結果的に、相手の「差別」を糾弾することになるとしても、「大人」な対応ということになるのであろう...。