日本政治の総括

原発の問題について、評論家や学者は、その「中庸」を語る。つまり、3・11が起きて、

  • 3・11を境に、原発を止める
  • 3・11以前と同じく、原発を続ける

この「中間」に答えがあるんだ、という主張が、「大人の態度」だというわけである。
その中でも、「心情的原発推進派」の人たち、つまり、「エア御用」たちは、「将来の脱原発」を唱えた。つまり、これが「中間」であり、「大人」の対応なんだ、と言ったわけである。いや。言ったというより、

  • 極端を「異常」

と言ったわけである。非理性的だ、とか、「狂っている」だと。
彼らは、つまりは、自分こそが「大人」なんだ、という含意がある。急進的な脱原発は、「異常な主張」として、そういったことを言っている人の

  • 人格攻撃

を続けているし、こういった事態は、3・11以降、ずっと続いているように思われる。
東京都知事選挙は、細川元首相の脱原発を第一の政策として掲げて、立候補したことで、自民党に混乱を起こしている。
私は、これから、選挙が終わるまでに起こることを、整理してみたいと思う。

  1. 自民党原発推進派と、原子力ムラとは、まず、徹底して、細川さんと小泉さんのネガティブ・キャンペーンを行ってくるであろう。まずは、マスコミである。テレビと、新聞や雑誌はまず、広告などでお金を与えることで、細川さんと小泉さんのネガティブ情報を、徹底して載せてくる。
  2. 次に、ネット上の「桜(さくら)」による、SNS上の情報戦である。まず、フリーのジャーナリストなどにお金を配って、彼らに、ネット上に、細川さんと小泉さんの悪印象を、つぶやかせる。いわゆる「ステマ」である。この場合に大事なのは、こういった「エア御用」集団は、自分が、こういった原子力ムラから、お金をもらっていることを一切、表に公表しないことである。まるで、一切無関係であるかのように、ネガティブ・イメージの流布を行う。
  3. 最後に、共産党社民党を中心とした、細川さんと小泉さん追い落としの「自民党との共同戦線」である。もともと、市民運動などで、共産党社民党に、さまざまな「恩」のある、彼らの援助なしには、もはや、さまざまな行動のできないような、人間関係のできてしまっている人たちは、自民党を批判するのでなく、細川さんと小泉さんのイメージを扱き下ろす活動を活発化させてくる。これが「55年体制」である。保守勢力と革新勢力は、お互いがお互いを「必要」とする。野党は万年野党でありながら、第3勢力がいないことによって、彼らの「必要性」を担保する。与党と野党は、お互いが「第3勢力がいない」ということによって、お互いの「利害」を一致させている。むしろ、第3勢力がいないから、野党は「存在意義」や正当性を、長期的に獲得する。

自民党と、共産党社民党しかなかった、55年体制以降の日本の政治は、ある意味において、奇妙な「安定」を示し続けた。この体制において、自民党は、選挙に勝ち続けた。ところが、それによって、共産党社民党の組織の抜本的刷新が起きることはなかった。彼らは、常に「正しい」ことを言った。また、「正しい」ことを言い続けることに、彼ら自身が自らの存在意義を感じていた。そういう意味で、彼らは、「健全な批判勢力」であった。彼らは、ある意味において、「専門家集団」であった。しかし、それだけに、彼らの「選良」意識は強かった。
ところが、奇妙なことに、彼らのそういった態度は、彼ら自身が、選挙に勝ち、政権を奪取「できていない」ことと、矛盾することはなかった。
彼らは「正しい」がゆえに、細川さんや小泉さんを支持することができない。それは、長年の野党生活で、過去に「批判した人」を今さら支持することは、

  • 過去の自党が行ってきたことを否定

する行為になり、先輩の業績を穢すことになり、どうしても、支持にまわれないのだ。
私はこの状態を、一種の「55年体制の共犯的関係」と呼びたい。日本の政治は、ずっと、自民党社民党共産党が、「共存」してきた。いわば、お互いがお互いに「依存」しているわけである。その証拠に、自民党は、結局は、社民党共産党を徹底して、攻撃してこなかった。彼らがどんなに党勢が弱まったときでも、完全に消滅させるまではしなかった。その理由は、なんらかの「利用価値」があると考えてきたからであろう。
日本の政治は、55年体制以降、常に、自民党一党独裁であった。なぜであろうか? 日本は、単一民族という外面をもつがゆえに、そもそも、国民の中に、対立軸が生まれにくい。つまり、すぐに、国内的な合意のコンセンサスが生まれてしまう。そのため、二大政党制のような、明確な

  • 対立軸を「維持できない」

のである。簡単に、「和をもって尊し」となってしまう。この日本の特徴をあらわしていたのが、自民党である。自民党は、そもそも、たんなる右翼政党とは言えない側面をもっていた。むしろ、自民党は、

  • 企業政党

であった。さまざまな、企業の業界団体の意見を代表する勢力を、党内に内包してきた。それは、55年体制において、批判勢力の社民党共産党が、市民の側を「代表」するという姿勢をとったことで、自然と、自民党は、

  • あらゆる企業代表

を内側に内包することになったことに、大きな意味がある。しかし、あらゆる企業代表が自民党に代表されるとは、なにを言っているのだろう。つまり、自民党は、どう考えても、一つにまとまれるわけがなかった、ということなのである。なぜなら、利害が対立する、企業同士が、なぜか同じ党を応援するというのだから。
そのため、自民党は、たんに巨大であるだけでなく、党内に、穏健派も過激派も両方を内包する、いわば、一つの自民党という党の中「自体」が、言わば、

  • 党内「2大政党制」

みたいになっていた、ということなのである。
このような見通しをもったとき、その後の、日本新党民主党の誕生が、この自民党の党内「2大政党制」の

  • 分裂

という形によって、進んだことが分かるであろう。
自民党は、選挙戦が進むにつれて、危機感をつのらせてくるであろう。いわば、死に物狂いで、細川元首相と小泉元首相の、人格攻撃を、さまざまなメディアを通じて、しかけてくる。さまざまな人に、お金をばらまいて、彼らがいかに「狂っている」かを、宣伝してくる。それが、

  • 中庸

である。
ではここで、自民党の「原発推進」戦略を分析してみたい。
自民党は、前の選挙で、基本的には「いつか」は、脱原発を実現していく、という選挙公約で戦った。そう選挙公約に書くことで、多党との「相対的」な差異を薄くして、脱原発という争点を曖昧にする戦略を使った。そして、今も、舛添さんは同じ戦略を使っている(彼は「昔から僕も脱原発」と言うわけだが、だれもが彼が、昔から、原発推進であることを知っている)。
しかし、選挙が終わった後、自民党は、この選挙によって、反脱原発の信任が得られたとして、原発を重要なベース電源として、廃炉もせず、今まで通り動かすし、壊れたら新設もする、という政策を今、進めている。そもそも、「選挙」とは、その政策を掲げた政党への「信任投票」のはずではないか。つまり、選挙によって、ある政策の「信任」が得られたかどうかを判断することは、相当に意図的に選挙戦で主張しない限り、難しい。本来、そういった政策への「信任」を意味するのは、住民投票のはずである。
しかも、自民党は選挙の公約において、反脱原発なんて一言も言っていないわけで、まったく、矛盾なのだが、それは今回も同じであろう。つまり、自民党にとって、選挙の公約とは、その程度の位置付けだということである。彼らが、たとえ、選挙の公約に、「脱原発」と書いたとしても、それは、やらないための「アリバイ」のようなもので、つまりは、やらないけど、そう書かないと、自民党に投票してくれない人たちがいるから書いているだけで、つまり、「自民党なんだから、脱原発するわけねーだろ。それぐらいわかれ」と言っているわけである。
つまり、「だから」細川元首相は、立候補したわけであろう。自民党は、選挙で「僕も脱原発」と言いながら、選挙に勝つと

  • 原発は重要なベース電源で、再稼働もするし、廃炉にしても、その分を「新設」する

と二枚舌を使うということを、前回の選挙からの「行動」によって、

  • 証明

されたのだ。同じことは、今回の舛添さんの立候補においても、繰り返される。それは、一度あることは、二度だろうが三度だろうが、繰り返されるからである。
しかし、である。
このことと、まったく「同じ」ことが、原発の安全管理に関して、言えるのである。なぜ、原発を動かすのか。燃料の分だけ「安い」と彼らが思っているからである。もしもこれが、少しも安くなかったら、彼らは、どう思うか。自分たちが間違っていたかもしれない、と思ってしまうであろう。よって、徹底した安全設備への投資は、どうしても、自己抑制的になってしまう。なぜなら、

  • 安全にお金をかけて、結果として、「損」になったら、人々が「旨み」を感じられずに、不満をもつかもしれない

から、できるだけ安上がりに済ませようとするからである。しかし、これが、

  • 3・11

の結果だったわけであろう。今も、原子力規制委員会は、東電の意向を受けて、猛スピードで安全判定を下そうとしている。さっさと「安全」印を付けて、有無を言わせずに、さっさと稼働させてしまって、もう二度と止めなければ、国民は、一度動かしてしまえば、黙らせられる、と思っている。
細川元首相は、自民党という党が、

と言うことの意味が、

  • その言葉で国民の目を欺いている間に、二度と、国民が原発を「止められない」ように、さっさと、法律で「原発は重要なベース電源」であり、増設も新設も、これから、未来永劫続けるという「ハンコ」を、自民党の数の暴力で「既成事実化」してしまえば、国民は逆らえない

とふんでいるわけで、「だから」、細川元首相は「即ゼロ」を言うわけである。つまり、今ここで、自民党的な「面従腹背」戦略を拒否することを担保するためには、

  • 即ゼロを「国民意志」にしなければ、自民党を止められない

と相対的に考えるから、なのである(いわゆる「穏健」な、「大人の態度」は、自民党の「したたかさ」かつ「野蛮」な態度の前には、無力であることを前回の選挙が証明していたわけで、つまりは、どこまで、このことを真剣に受けとめているのかが、細川元首相と小泉元首相に、東京都民は問われているのであろう)。
ネットを見ていると、細川元首相の即ゼロ戦略に、非常にニヒルな斜に構えた批判が散見されるが、彼らがどこまで、上記のような、情勢分析を身体化しているかは疑わしい。それは、一見すると「理性的」な態度に写るかもしれないが、こと実践において、どこまで、自民党という「したたか」な政党の、国民統治戦略に、対抗しうる態度なのかが問われているわけである。
以下で、宮台さんも言っているように、原発が「日本における、さまざまな規制改革」の、最も象徴する「壁」であり、ここを突破することすらできないで、日本の政治の改革は、空想すらでない、ということなのである。つまり、原発問題というのは、「科学」の問題ではなく、「社会学」の問題だ、ということなのである。

原発をもつ、東京電力のビジネスモデルが代表する、日本のさまざまな「規制」は、東電一つの「壁」を突破することもできなくて、日本を変えられるわけがない。つまり、これはたんに、原発という物理学的存在の可否の話に閉じるものではなく、日本社会を国民が変えたいと思っても、変えられない、さまざまな「規制」社会を、今のまま、だれもなにも変えることができないまま、続けるのか、この細川元首相と小泉元首相の「対決」と共に、改革を目指していくのか、この二つの選択だと言えるのだろう。
今、日本には、自民党に対抗する勢力がいない。この自民党を、党勢によって制限可能なストッパーがない。この「危険」な時期の間に、おそらく、自民党は、さまざまな、非人権的な国民統制法を、国会の数の暴力で通してくるであろう。この勢いに対抗するには、できるだけ早い段階で、自民党に対抗する勢力によって、このバランスを均衡させなければならない。
こういった意識が、東京都民に求められている、ということではないか。大事なことは、この「バランス」である。事実、細川元首相と小泉元首相の主張が、政府の原発推進政策に、さまざまに「影響」を与えているという意味で、すでに、さまざまな効果が見えだしているとも言える。つまり、大事なことは、選挙を通して、国民の「意志」であり、「正当性」を、政治の世界に担保させていけるのかどうか、ということなのであろう...。