『ドイツ脱原発倫理委員会報告』

細川元総理と、(私はあまり詳しくないが)三宅洋平さんとの対談

は、私はあまり細川さんを詳しく知らない人には、その人となりの分かる、たいへん、いい対談だったのではないかと思った。
ある程度上の世代は、細川さんを、日本新党の党首であり、総理大臣として知っている。しかし、下の世代は、ほとんど知らない。また上の世代でも、そもそも、この方がどういったことを、日々考えているかといったような、その「日常」を想像できないという意味で、興味深いのではないかと思った。
おそらく、こういった「リラックス」して話している姿、特に、若い人たちや普通の庶民との対話を、民放のテレビで、しかも、ゴールデンタイムの時間帯に、多くの人が見れば、ずいぶんと、印象が変わるんじゃないかと思うんですけどね。

三宅 (前半略)沖縄に迷いながらですけどやっぱり逃げたんですよね。避難したんです。そこで、喜納昌吉(きなしょうきち)さんの弟さんらと話して、みなさん、海人(うみんちゅ)、海に出て漁をされた経験のある方が多いんで、海のことをよく分かっている。で、まあ、やっぱり、三陸の堤防の作り方がまずかったと。堤防は強度と高さではなくて、幅なんだ。沖縄のサンゴを見てみろ、あれは、サンゴの環礁があって、沖縄って島自体がサンゴなんで、環礁の幅があるから津波が入ってこない。だから、堤防は高さじゃなくて、ちゃんと沖合に幅のある、あのー、なんていうかな、堤防を作っていかなければならないていうことを、すごい、切々と言われて(後半略)
三宅洋平「しっかり前に進んでいくための選挙にしたい」2/1細川もりひろ対談 - YouTube

東北のあの、大きな津波に対して、それに対抗する、非常に高い「壁」を作るという方向は、大きな海辺の環境の破壊にもつながる。むしろ、その解決を

に見出せないのか、という主張は、興味深い。

細川 (前半略)私、何党だって全然関係ないんです。そんなもん、自民党でも共産党でも、いいとこあったら、どんどんやるだけの話でね。覚悟の問題だと思っていて。イデオロギーじゃなくて、これは。やるか、やらないか。いいことだったら、やればいいんですから。(後半略)
三宅洋平「しっかり前に進んでいくための選挙にしたい」2/1細川もりひろ対談 - YouTube

これは、細川さんが以前の政治の場で、かり出されてきて、彼がどういった考えで働かれていたのかが、よく分かる発言であろう。

細川 (前半略)宇都宮さんと非常に考え方が近いところ、たくさんあるんだと、自然保護の問題とか、環境問題でも、原発問題もそうなんですけど、ただ、宇都宮さんは福祉とか雇用とかいろんな問題と並列して、その、原発の話を言っておられて。私は、もちろん、福祉や雇用の問題も重要な問題として取り組んでいきますけど、原発は今回、また、福島みたいな事故が起こったら、東京の周辺には三つも原発があるんだし、これは、世界中に破滅の引き金を引いちゃうことになるから、これ、命に関わる話なんで。知事の一番の都知事の最大の任務は、やっぱり都民の命と暮らしを守ることなんだから、どうしたって、そりゃあ。あと、他の話は、みんな、どの候補者がやったって、同じような話ですよ。みんなお金で解決のつく話だから。命はお金で解決つかないんだから、私はそりゃ、どうしても最優先に言わざるをえないと、あの、自然エネルギーで、自然エネルギー大国と言うとまた問題があるから、自然エネルギーで日本はこれから、福祉や雇用や環境や、そういうものを維持していくと。それはやっぱり、最優先で、私はそう言いたいと、言ってるんですね。ちょっとその辺が少し、重点の置き方が、あのー、宇都宮さんとはちょっと違っているだろうなー、と思っています。(後半略)
三宅洋平「しっかり前に進んでいくための選挙にしたい」2/1細川もりひろ対談 - YouTube

細川 (前半略)もっと心配なことがね。あの、原発のことが、世論調査なんかでも、あんまり、3番目くらいにしか、あがってこないんですよ。
三宅洋平「しっかり前に進んでいくための選挙にしたい」2/1細川もりひろ対談 - YouTube

この発言は、細川さんが、一体、どういった所に論点を置いているのかが、非常に分かりやすいのではないだろうか。
宇都宮さんから言わせれば、庶民の貧困問題は、非常に深刻であり、重要なわけである。そして、それを自分は解決したい、と思っている。しかし、そういった視点で考えるなら、庶民が原発問題に関心がないことは、「しょうがない」ということになる。
しかし、そういう意味で言うなら、自民党は、貧困対策をやるであろう。もちろん、その対策は不十分なものになることを分かった上で言っているのだが、しかし、やることには変わらない(同じことは、託児所不足問題にも言える)。
しかし、自民党がどこまで、原発問題に真面目にとりくむのかは、まったく、予断を許さない。むしろ、3・11以降の自民党を見ていても、フラフラしてきながらでも、着実に、原発推進も、3・11以前に戻ろうとしていることは、はっきりしている。
だとするなら、宇都宮さんには、脱原発のどういったヴィジョンがあるのか、その自らの政治力を、どのように発揮することで、この自民党原発推進の動きに対抗しようとしているのか、そのことを細川さんとの対談において、真剣に向き合うことが問われているのではないだろうか。
日本の政治を見てきて分かるのは、つまり、例えば、猪瀬さんのような、「優秀」な人が、一本釣りで、地域のトップに付けられることはあるんだけど、そういった優秀な人の「優秀」さが、一体、どこに活用されるのか、という疑問にも関係しているんじゃないだろうか。
いくら、猪瀬さんが優秀だったとして、それで「尖閣寄付」のようなことを推し進めて、右翼ポピュリズムに火をつけてしまって、日本の方向性を違える方向に進めてしまったら、その「優秀」さって、なんなのかな、と思わないだろうか。
むしろ、大事なことは、ある行政の政策があったときに、その「行為」自体が、倫理的に、本当に許されるものなのか、ということを、結局、一度は、誰かが問わなければならないし、その真剣な向き合いを経たものしか、やってはならない、という態度なのではないか。
そういう意味では、掲題の本は、非常に日本人に教えるところがあるように思われるのです。

ドイツには原発問題に限らず、国が設置する倫理委員会の長い歴史があります。それは、純粋に技術的な答申異常の、より深い道徳的、倫理的問題を検討するためのものです。

こういったところが、さすが、哲学の国、ドイツといったところなのかもしれません。
どんなに、それをやることで、お金が儲かっても、それが倫理的に許されないと思われるなら、やるべきではないんじゃないか。そういった問いを、高度経済成長を経験して、日本社会は、いつの間にか、忘れてきたのではないか。
国家が、なにか行動をする。行動を決定する。その場合に、本当にその「倫理」的な意味を検討したのだろうか?
私は、そこに本質的な問題があるように思われる。ここで、国家が倫理的に何かを考察する、と「比喩」的に言ったのは、そのことを検討するための

を、国民の「支持」を担保できるメンバーによる代表によって、「熟慮」の結果を国民に呈示して、国民の理解を得られた結果として、実行するのかどうか、なのである。
そういう意味で、上記における、細川さんと宇都宮さんの差異は、明確なんじゃないだろうか。
細川さんは、原発が都民のアンケートで、争点の最初に来ないことに、なんと、「怒っている」わけである。つまり、細川は、都民に怒っている。原発のことを考えろ、と。そういう意味で、細川さんの行動は、どこか「倫理的」なのである。
他方、宇都宮さんは、確かに、今までの弁護士としての経験は分かるのですが、やっぱり、あくまでも、都民をどこか「救う」べき対象と思っている。自分がなんとかしてあげたい、と思っている。つまり、細川さんに比べて、宇都宮さんの行動は、やはり、55年体制の延長にあるような、本当の意味ですべての国民からの正当性を調達して、国政の壁をぶち破ってやる、という、最後の殻を破れないように見えざるをえない、と思ってしまうわけである...。

たとえば交通や建築における安全性のような、限定されたリスクを扱う際の標準的な手法では、事故が実際に生じるものであり、そのたびにリスクへの備えを徐々に学んでゆくことが前提されています。これに対して、原子力施設の場合には、このような一歩一歩学ぶという可能性が除外されています。もっとも深刻な事例というものが考察から除外されている限り、安全計画は、それを検討できる合理性を失っています。

ありえないとみなされていたことが実際に起こったとき、誰も望まないような、また誰も他の人に要求できないようなことが発生します。そのような事態を未然に取り除くことが、予防対策の本質なのです。

ドイツにおける現時点での状況とう文脈から、こうした比較衡量をおこなうならば、原子力発電は、もっとリスクの少ないエネルギー生産の方法によって代替することができるし、そうであるならば当然そのようにすべきだ、という仕方で論拠を辿ることができます。というのも、ほぼすべての科学的な研究が、原子力エネルギーと比べて、再生可能エネルギーとエネルギー効率の改善[省エネ]のほうが、健康リスクや環境リスクを低くするという結論に至っているからです。これに加えて、この代替エネルギーの経済的なリスクは、今日の観点から見たとき、評価可能であるし、また限定可能だからです。このことは、気候保護に向けて同意された目標が守られている場合には、若干程度は弱いものの、化石燃料の利用に対しても当てはまります。

まず第一に、原発が意味していることは、その事故の結果が、国民の「想像を超えている」ことについて、結局のところ、誰もその、想像を超えている「なにか」が負担可能であることを担保できない、というところにある。
そして、もう一つ、重要なポイントがある。
それは、原発を使わないという「選択肢」が非常に現実的であることが分かってきている、ということなのである。それは、小泉さんが、演説で何度も言っているように、

  • 今、原発を使っていないじゃないか!

ということが、実際に、示しているわけである。
この二つが非常に重要である。
確かに、この論理の立て方は、どこかキリスト教的かもしれない。
原発は、私たちが背負わなければならない「十字架」でない。原発事故は、私達の「原罪」ではないのだ。黙って、受け入れなければならない「天の意志」ではない。私たちが選ぶことによって、「避ける」ことができる。つまり、人間の「意志」が、この科学の産物に

  • 終止符を打つ

ことができる。言うまでもない。それは、

  • 人間の意志

で可能なのだ。
「だとするなら」、いずれにしろ、やるべきことは決定しているんじゃないのか、というのが、ドイツの倫理委員会の、上記の引用にある結論なわけである。
さて。
どう思われたでしょうか...。

ドイツ脱原発倫理委員会報告: 社会共同によるエネルギーシフトの道すじ

ドイツ脱原発倫理委員会報告: 社会共同によるエネルギーシフトの道すじ