島田真夢の影

私が不思議でならなかったのは、日曜の東京は、特に、朝は、間違いなく、足元が最悪だったということである。そうであるにもかかわらず、投票に行かなかった東京人は、むしろ、脱原発を掲げる候補に「うんざり」して行かなかったんだ、と言ったようなことを匂わせるデマを繰り返していたことであろう。
(彼らデマを流していた連中は、その日の朝、東京を歩いたのであろうか? どうせ投票に行っていないのであろう。そもそも、雪の中を体の弱い人が歩いて投票所に行くのがどれだけ難しいかの想像もしたことがないのだろう。どうでもいいが orz。)
日曜の東京は、特に、午前中に選挙に行った人はみんな知っているはずである。最悪の足元で、ここまでの雪を体験したことのない東京の人にとって、特に、老人や子供のいる母親、もちろん、妊娠されている女性が歩けるような足元ではなかった。坂道の多い東京は、こんな日は、外を歩いてはいけなかった。むしろ、だれかが言っていたように、選挙は延期されるべきだった。この天候で延期すらできないということには、投票率の低下が政権にとって有利であることが分かっていた結果という印象はまぬがれなかった。
選挙の結果について、一つ言えることは、高齢者の舛添候補への投票が多かったことであろう。しかし、このことは、テレビや特に、読売新聞、日経新聞、あと、どうでもいいが、産経の、これらの新聞を購読しているお年寄りが、あれだけ、連日、原発の礼賛をしていれば、細川候補に投票すると考える方が、よっぽど、ネット・リテラシーにたけているのでもなければ、難しかったと考えるのは妥当であろう。
多くの人があまり議論をしていないことだけど、今回の選挙の明らかな特徴は、舛添さんを大手電力会社関係の、原子力ムラの人たちが「応援」した、ということなんですね。つまり、徹底して、細川さん、小泉さんが、陰に陽に、ボロクソ言われた、ということです。非常に陰湿にやられたのです。共産党が、細川さん、小泉さんに勝って、ニコニコしているのも、彼らが

だからでしょう。四方八方から、細川さん、小泉さんの人格攻撃が続けられた。大学の学者も含めて、実に、楽しそうに、細川さん、小泉さんをバカにし続けた。まさに、これこそ

  • いじめ

だ。右翼も左翼も含めて東京中のエスタブリッスメントが細川さん、小泉さんの人格を侮辱し続けた中、彼ら二人はそれに一切、言い訳をしなかった。

  • 右翼も左翼も

そうだった、ということです。つまり、それだけ、脱原発を訴えることは、日本中を敵に回すくらいの「覚悟」がなかったらできない、ということなんですね。
今回、多くの人が分かったことは、いわゆる、原子力ムラの人たちが、非常に醜い言葉で、細川さん、小泉さんを、人間的に貶める言葉を投げ続けたことでした。私は、今回のこういう姿を見て、人間は醜いな、と思ったわけである。こういう人間がいつまでも生き続けなければならない意味なんてあるのかな、とさえ自嘲的に思わされるほどでした。しかし、これが原子力ムラなんですね。原子力ムラは、日本中を狂わせる。本来、誇り高く生きてきた武士である日本人を、こんな醜い品性にまで落とさせるわけです。
宇都宮候補については、ここでもさんざん書いたので、繰り返すことはしないが、日本共産党のああいった振舞について、おそらく、多くの人に理解をされていないことがあるんだと思うわけです。それは、世界的にも、そして、日本においても、戦後の政治ムーブメントは、ずっと、

の、この二つの対立によって、続いてきた、ということだと思うわけです。そして、こういった視点で見たとき、日本共産党が目指している政治は、言うまでもなく、前者なわけでしょう。つまり、前衛党主義なわけで、こういった視点からも、共産党自民党に似ている。つまり、自民党にとって、共産党は、ある意味、自分たちが真に恐怖する勢力ではないわけですね。だって、似ているんですから。
共産党の指摘する、自民党批判は、はっきり言って、自民党にとって、少しも怖くない。つまり、共産党が指摘するような批判であるなら、自民党はやるわけです。福祉もやるし、弱者救済もやる。もちろん、NGOの人たちが言うように、

  • もっとやれるじゃん!

と言うのは分かるんですけど、それは、どっちにしろ、「程度の問題」であって、自民党にとって、共産党は少しも恐怖でない。
自民党にとって、恐いのは、こういった「超中央集権」フレームの、根本的なレジーム・チェンジ、つまり、地方分権を迫ってくるような勢力の台頭なのでしょう。なぜなら、もしそんなことが起きたら、中央官僚と自民党の蜜月の相互依存関係によって築きあげられてきた、

  • 利権構造

の地方への「移管」が進み、彼らの「権力の基盤」が弱くなるからである。
この問題について、以下の対談で、國分さんと大竹さんが論じているが、正直、その話しぶりは、いわゆる、哲学者気取りの「中庸」論議というやつで、あれも大切だけど、こっちも大切だよね、という感じで、ようするに、両方大事と言うだけで終わっちゃってないか、という残念な感じの議論の印象を受けざるをえなかった。

大竹 国家がないとナショナル・ミニマムを維持することができなくなりかねませんからね。

國分 国家がないと最低水準が維持できない分野というのはやはりあると思いますね。
サスキア・サッセンが指摘しているんですが、グローバル化のもとでは、対応しなければならない課題についていちいち民主的に意見を汲み上げてはいられないという論理があり、これが行政の論理にぴったり適合している。

大竹 ただ、原発のような大規模で高度に専門的な技術は、中央集権的な国家のもとで成り立つわけですよね。再生可能エネルギーの普及によってエネルギーの地産地消をはかるとすれば、地方分権的なかたちになる。さっき言ったことを否定するようだけど、国家という中央集権的な組織だけに頼っていいのかという問題はやはり残ります。統治の分権化というのも考えないといけない。

國分 そもそも社会主義の発想は超中央集権的なものですからね。国家の役割の組み替えが必要だと思う。国家だからいいとか国家だから悪いという雑な問題設定ではもうどうにもならない。

國分 福祉や教育はやはり国家と切り離せないのではないでしょうか。近代教育というのは国民のためにつくられた制度で、金持ちだけでなく、みんなに教育をいきわたせる制度です。

「主権を超えていく統治」

atプラス19

atプラス19

しかし、國分さんのように、なにかとなにかが「聖域」だという議論は、筒井康隆が「文学は聖域」と言ったように、なんらかの

を作ることになるのではないのか? それで、徹底的に考えた「哲学的理論」と言えるのだろうか? もう少し、この人は、地方分権について、原理的に(哲学的に)、分析する必要はないのだろうか?
確かに、いわゆる、弱者救済にがんばってられる、NGOの、いわゆる、人権派の方たちも、どこか、

  • すべてを国家にお金と権力を集中すれば、弱者救済のための<お金>くらい、いっくらでも「余る」んじゃないのか

という、「中央集権」幻想があるんじゃないのか、という印象を、ときどき、受けることがある。つまり、すべての権力を一点に集中させて、あとは、

  • その一点を「善人」で固めれば、<全てが解決する>

と言っているように聞こえることがある。
しかし、こういった発想には、どこか「効率主義」の幻想があるんじゃないのか、と思わされることがあるわけである。
確かに、あらゆる問題を<中央>に集中して、そこでだけ、タスクを振り分ければ、一見すれば、効率的に思えるだろう。しかし、こういった方法の欠点は、

  • だれも、このシステムにコミットしなくなる

ということではないだろうか。つまり、なぜ自分で直接助けないのか、という大衆の「無関心」を引き起こすし、同じことであるが、このシステムでは、結果として、

  • 大衆規模の人数の「正当性」の調達

が起こりにくくなるわけである。弱者救済は、本来であるなら、なるべく、「その地域」の人たちのボランタリーな動きを中心に進められることが、たとえ効率的でなくても、たくさんの無駄を生み出してしまうことになったとしても、長くその正当性を維持できるだろう。
ただ、上記の対談にも、一つおもしろい指摘があった。

國分 ここで参考にしたいのが、先ほど少し名前を挙げたアーレントの論考、「政治における嘘」です。そこでは、当時の国防長官、マクナマラの指令で作成された、ベトナム戦争政策決定の歴史を報告する秘密文書、通称「ペンタゴンペーパーズ」が分析されています。この秘密文書がどうして興味深いかと言うと、アメリカ合衆国政府がベトナム戦争を遂行するなかで自分たちのイメージを維持するためだけに行動し、戦争の目的を次々に変更していった経緯がよく分かるからです。帝国主義的な利益の追求すらしていないとアーレントは指摘しています。
たとえばしばしば、アメリカがベトナム戦争を起こしたのは、ドミノ理論があったからだなどと言われていますし、僕もそうなんだろうと思っていましたが、この秘密文書によると、政府内でドミノ理論を信じていたのは二人だけだったらしい。これには笑ってしまいましたけれど、要するに、強い権限が与えられ、さらに、「必要のためには法を破ることも仕方がない」という理論があると、国家は自分たちの失敗を覆い隠し、どんどん理論や言い訳を作り上げていって、メンツ維持だけを追求し始めるということです。強い権限を与えると、国家はむしろ国益に背くことをし始める。
「主権を超えていく統治」
atプラス19

早い話が、国家をなくすことができないとか、エリートがこの国を支配しなかったら、バカな大衆に滅茶苦茶にされるとか、東京大学は、この国をこれからもひっぱって行かなければならないとか、そういうことを勝手に言い続けて結構ですけど、

  • 強い権限が与えられ、さらに、「必要のためには法を破ることも仕方がない」という理論があると、国家は自分たちの失敗を覆い隠し、どんどん理論や言い訳を作り上げていって、メンツ維持だけを追求し始める

ということなのであって、そういった自分の醜い部分は、見て見ぬふりをして見逃せというのは、通らない、ということなわけであろう。だれもが、自己ブランドの維持に必死で、そのためなら、この国を滅ぼすことだって厭わないといった「巧言令色」な連中が、

  • 自分の自意識を守るため

に、たとえ大衆の生活を滅茶苦茶にし続けることを繰り返すことになったとしても、

  • 偉い人に「お任せ」したい

「超中央集権」国家を選び続けるのか、それとも、自分で、自分の不始末を引き受けて、自らが、その地域の方向を「選ぶ」、地域分散型の社会システムにしていくのか、将来において、どちらが「リスクが少ない」のか、ということなのでしょう。
私には、いわゆる、近代国家が代表する、「超中央集権国家」は、どうしても、その権力が集中するその極点において、その能率の「腐敗」を免れられないという

  • リスク

が、大きいゆえに、その効率をもって、あまりある欠点の大きさだと思わざるをえないのだが、どうも、反対の立場の人たちには、あまり、そういった危機意識が感じられず、

  • エリートが失敗しても、それを大衆に気付かれないように隠蔽すればいい

と言っているようにしか聞こえないんですよね。そうして、エリートの膨大な失敗の数々(その中には、3・11の福島第一の無残な状態も含まれる)が、裏で、次々で、日本を壊し続ける、という姿が、バブル以降の日本の姿のように思えてならないわけですが、どうなんですかね。
アニメ「Wake Up, Girls!」の映画版を、動画で見直したのだが、このアニメは、テレビ版を含めて、主人公の島田真夢(しまだまゆ)が、なぜアイドルを絶頂期において辞めることになったのか、その「謎」をめぐって、話が進む構造になっている。
この、島田真夢(しまだまゆ)という主人公の「影」のあるヒロインをめぐって、作品は続く。島田真夢(しまだまゆ)のその謎は、いつまでたっても、その真実が描かれない。しかし逆に、その謎が前提にされることで、この作品は、別の反照点を示す。
それは、アニメ「廻るピングドラム」における、ピングドラムという「謎」であったり、映画「桐島、部活辞めるってよ」において、一度も桐島が描かれることがないにもかかわらず

  • すぐそこに桐島がいる

という、その「構造」であったり、を思わせる。
このアニメについて、監督の山本寛さんは、やはり、東日本大震災に刺激され、作ったと言っている。この作品の舞台は、仙台である。しかし、この世界において、3・11は描かれていない。
アイドルと3・11の関係を考えるとき、濱野さんの『前田敦子はキリストを超えた』を思い出さずにはいられない。この本の最初で、著者は、AKB48が、東北でライブを行ったことの「意味」にこだわる。つまり、なぜ、前田敦子について語らなければならなかったのかは、その、東北でのライブが、たんにそうであったのではなく、

  • 3・11の被災者に向けて

彼女たちが、コミットメントした行為だったからであろう。明らかに、島田真夢(しまだまゆ)は、前田敦子を意識している。そして、多くの人が知っているように、前田敦子は、確かに、AKBが今のような人気がでる前からのセンターであり、彼女がこのグループの今の人気になるまでの中心的な存在でありながら、他方において、非常に強烈な

  • バッシング

にさらされていたことも知っているわけである。彼女は、その圧倒的な存在感において認知されながら、いわゆる、正統的なアイドルとして「見た目」的に見劣りする、といった dis りにおいて。AKBの草創期において、彼女たちは、どこか「庶民的」であることをアイデンティティにしていた。そういった意味で、彼女たちが、必ずしも、見た目優先で選ばれていたわけではなかった。むしろ、クラスのどこにでもいるような、親しみやすさが彼女たちの本来の人気の理由であった。
前田敦子が結果として、AKBを辞めていったことは、島田真夢(しまだまゆ)の「影」に関係している。
映画の最初で、仙台に引っ越してきて、影のある感じで一人でいる彼女に、クラスの女子の三人が、どうしてアイドルをやめて仙台に「都落ち」してきてるんだ、と問詰める場面があるが、島田真夢(しまだまゆ)は目をそらし、何も言わない。その態度に、この女子の三人は「感じ悪い」と捨てゼリフをはいて去って行く。
つまり、彼女は「言い訳」をしない。むしろ、自分で自分がアイドルであることを<楽しませられない>自分を責める。そういった姿は、どこか日本の武士にも似ているし、もっと言えば、今回の都知事選挙で、一切の言い訳や対立候補の悪口を言わない細川さんや小泉さんに似ていなくもない。
これが、私の言う、日本における右翼的心性なのである。
この映画において、島田真夢(しまだまゆ)が、もう一度、この東北の仙台でアイドルを目指すことになる。しかし、それは、彼女が自分で選んだという形になっている。テレビ版第5話で、今、始めてアイドルが「楽しい」と言う場面がある。
山本寛監督とアイドルというと、私はどうしても、アニメ「かんなぎ」を思い出す。このアニメは漫画の原作があるのだが、そのストーリーは、ある御神木の神として、女子高生くらいの少女の姿をした「かんなぎ」が、男子高校生の主人公と生活をするようになる話であるわけだが、こういった発想がおもしろかったのは、ようするに、日本における神道。巫女(みこ)。こういったものと、日本の高度経済成長の時代から、テレビ文化と共に普及してきた

  • 少女アイドル

との平行性を示唆しているところにあると思ったからである。
例えば、もともとはエロゲーを原作としていたKEY作品のアニメ「Kanon」の沢渡真琴(さわたりまこと)は、子供の狐(きつね)が人間にばけた姿として描かれていたし、アニメ「AIR」の神尾観鈴(かみおみすず)の若くして重い病気で亡くなる、そのターミナルケアの問題にしても、どこかそこには、

  • 女性

と、日本の太古から続く大衆の神道を含めた「way of life」のようなものを、含めて描こうとしていたように思われる。
私たちが大きく誤解していることは、私たちの「生活」を、いわゆる、ハイカルチャーとの関係「だけ」で考えがちであることだ。たとえば、日本の歴史において、では、仏教との関係はどうなのかとか、儒教や「論語」との関係はどうなのか、といったことである。しかし、文化とは、そもそも、そういった「表層」的な側面(=いわゆる「芸術」)からしか考えないことは、間違っている。すが秀実さんが言ったように、

  • ジャンク(=ごみ)

こそが、本質なのだ。卑弥呼の時代から、例えば、古事記や古代日本の神話から、日本神道のようなものが継承されるなにかがあったとして、そういったものを、単純に日本の「独自」のもの、と拾い出すことは、非常に問題のあるナショナリズムと言わざるをえない。
つまり、日本の当時のそういった「サブカルチャー」は、当然、当時の中国と平行性がある。つまり、「緯学」であり、当時の中国にも存在したし、今もそういった慣習が生き続けている、いわば、

こういったものが、東アジア全般に広がってたであろうし、また、もっとも本質的な、東アジアに生きている人たちの「生」そのものだったのであろう。
(わたしは、こういった広範に広がる東アジア的な神道にも似た「サブカルチャー」において、男が女性を、どこか「崇拝」する対象として見たがってきたし、また、(3・11のような体験を経てくるにし)見ざるをえなかった、その何かを、前田敦子や島田真夢(しまだまゆ)が見せていた、なんらかの「影」に見てきたし、また、そういった少女が見せる影の側面を「応援」せずにいられなかったと言いたいところなのだが、まあ、アイドル論はどうでもいいや。)
さて。左翼と右翼の違いとは、どこにあるのであろうか? 私は左翼は、なんらかの「正当性」を「仮定」する人たちだと思っている。
彼らにとって大事なことは、人間関係とは、すでに、「正しい」と決まっていることを巡る何かだと思っていることである。
他方において、右翼はどうか? 彼らは、基本的に、そういった「仮定」を認めない。その代りに、

  • 今ここ

で、対話相手と向き合う中、その「緊張」の中で生まれる対話の<連続>を重要視する。
この違いは、どこにあるのか?
基本的に、左翼は「知識」という何かを巡る「ゲーム」をやっている。だから、なにか、どこかに「本当」があるかどうか、ということに興味がない。彼らが必死になってやっていることは、

  • このゲームに勝つこと

であって、なぜこのゲームに勝つことが、そこまで重要なのかとか、勝ったその後に何が待っているのか、といったことを振り返ることはない。一言で言えば、左翼は「人間に興味がない」。彼らがやりたいのは、大学の研究者たちの真似事だということである。
(しかし、なぜそうなのか? それは、私たちが受けてきた学校教育に関係している。学校でトレーニングされる作法は、大学で求められる研究者の態度に非常に近いものがある。彼らがそういった態度を「自明」と思うことには、こういった反復強迫による、刷り込みがあると言わざるをえないだろう。)
他方、右翼はどうか? 右翼は、その、まったく逆である。彼らは、何が正しいのかなんて、少しも興味をもっていない。実際、AよりBが正しいと言われたからって、それがなんだというのか。そんなものは、最初から、

  • 相対的

な話ではないか。どっちかは「ちょっと」正しいし、どっちから「ちょっと」間違っている。しょせん、五十歩百歩で、そんなことで、一喜一憂する生き方など空しいだけであろう。
彼ら右翼が興味があるのは、「自分がどう行動するか」でしかない。
彼らは徹底的に考えているのは、自分がどう振舞えば、他人に不快にさせてしまうか。自分がどう振舞えば、自分を「立派」だと思える、その行動か、ということであって、彼らは常にそれを自分に問いかけている。
彼らにとって、それは日々生きる、その瞬間、瞬間そのものなのだ。ある瞬間、自分は自分に近しい人と席を共にしている。その瞬間は、もしかしたら、明日には終わっているかもしれない。相手は、交通事故で亡くなっているかもしれない。もしかしたら、それは自分かもしれない。

  • だとするなら

自分が今ここで、何を<する>のかは、非常に倫理的な問いなのかもしれないのである(3・11の、あの津波による、多くの死者を体験した、私たち日本人にとて、この問いは、強くリアルに感じられているのではないか)。

  • 今この瞬間

あなたは、何を言うのか? それは「自明」か? 何か言ってはならないことがあるのか? こう振る舞わなければならない「ルール」があるのか? 左翼のように「正しい」ことを、誰が最初に見つけられるのかの「ゲーム」を<しなければならない>と先生に言われたことを、今でも必死に守ろうとするのか?
なにをしてもいいのだ!
なにを言ってもいい。どんなことを伝えようとしてもいい。だって、その機会は、もう訪れないのかもしれないのだから...。