岩井克人「経済学に罪あり」

少し冷静になって、そもそも、お金というのは、どういったものなのだろうか、と考えてみよう。
お金の特徴は、それが円なりドルなりの「数値」で表される、ということである。では、この数値の特徴は何か。それは、順序構造と、加算構造。つまり、自然数の構造だ。
しかし、そもそも、ここで言う「数値」は、ある種の「ゲーム」性に関係した数だったことを理解する必要がある。つまり、ここで言っている「数値」は、

  • 商品の交換を単線化するために用意された「順序構造」の可視化

と関係していたはずなのである。つまり、その商品を売りたい側は、では、「どれくらい」の価値のものとして、その商品を買ってもらいたいのか、を表す、なんらかの「単線」構造として、利用されたものであった、と。
しかし、そう考えるなら、別に、これは「数値」でなければならない、というわけでもないのだろうが、しかし、たんに「順序構造」があらわれるだけでなく、当然、「線形性」を仮定できなければ、直感的でなく使いづらいだろうから、そう考えれば、自然数構造で仮構するのは一般的だ、ということなのだろう。
つまり、どういうことか?
お金は、たんに「商品」ではない。そもそも、お金は上記にあるような、「どれくらい」の価値のものとして買ってもらうか、に関係した

  • 評価システムの<構造>

の方に半分足をつっこんでいる、ものなのだ。つまり、そもそも商品の「外部」にある、メタシステムを「仮構」するのに使われているものなので、別の商品と同列に扱うと、どうしても、メタレベルの混乱が起きてしまう。
その典型的な例が、お金の「数」の普遍性であろう。お金は、10円玉だったら、それは、どんな未来においても、「10」という、上記の順序構造における「数」を保持する。このことは、これを商品と考えたとき、強烈な違和感を呼びおこす。
つまり、本来、どんな商品も「腐る」のだ。つまり、価値が目減りしていく。例えば、野菜は畑からひっこ抜いた時点から、時間の経過と共に、品質の劣化が始まる。今日、500円で売れたとしても、その同じものを、1ヶ月後にも、その値段で売れることを少しも保証しない。いや、こういう言い方は誤解を招く。一般の商品は、こういったように、その単線的評価基準に対して、常に、その評価を「上下」しているものだ、ということである。なんらかの理由によって、その商品が希少になった場合、簡単に値段は上がる。もちろん、上記のような理由によって、値段は簡単に下がりもする。
ところが、お金はそもそも、この単線的評価の「数」というメタメッセージを表象するものでもある。つまり、お金は驚くべきことに、どんなにそのお金が「腐って」も、まったく、新品同様のものとの「交換可能性」を担保している、と多くの人が考えている、ということなのだ。それは、例えば、古い紙幣を銀行にもっていけば、新しいのに代えてくれる、といったことが意味しているように。
しかし、そのことは、どこまで「自明」なのだろうか?
つまり、なぜお金はそうなのかを、「現象」として考えてはならない。例えば、これを「リアル」の問題にしてはならない。自分が「実感」として、このことが「自明」だからそうなんだ、と考えてはならない。そうではなくて、これは「ルール」なのだ。つまり、この「ルール」というメタシステムとして、そう決められてある、ということを意味しているにすぎない。
しかし、たとえそうであったとしても、この「とりきめ」が自明とされることが、具体的にどういうことを意味しているのかを考えることは、非常に興味深いわけである。

資本主義は本質的に投機に基づくシステムなのです。投機(Speculation)とは、モノを買う場合、買う人が自分自身で使うことを目的にして買うのではなく、将来他人に高く売ることを目的にして、現在安くモノを買うという行為です。

資本主義とは貨幣が流通しなければ成立し得ないシステムです。物々交換では資本主義は不可能です。そして、実は、その貨幣こそがもっとも純粋な投機の対象なのです。

上記の議論において、お金がどれだけ一般の商品とは違うモノであるのか、そのメタ構造を支えるメタシステムの一部であるかを強調しました。しかし、逆に考えてみてください。
一般の私たち生活者に対して、「お金は他の商品とは違う<役割>を「ルール」として与えられているんですよ」みたいな説教をされて、一体、なんの意味があるでしょうか。つまり、言うまでもなく、

  • お金も<商品>となる

のである。当たり前である。つまり、今度、考えなければならないのは、もしも、お金が「商品」として考えられるようになった場合に、そのメタメッセージが何を意味するようになるのか、なのです。
なぜ、上記の引用において、お金は本質的に「投機」的であると著者は言っているのか。それは、お金の

  • メタ「数値」の未来永劫変わらない性格

なんですね。お金は、100円玉は、言うまでもなく、今、100円の価値があるが、驚くべきことに、明日も明後日も一年後も百年後だって

  • 100円

なのだ。なぜか? それは、そもそも、この「ゲーム」が、そういうルールになっていると決めているから。
もちろん(!)、絶対にそう扱わなければならない、ということを意味しません。例えば、昔の紙幣が希少価値があるとして、コレクターの間で、高い値段でやりとしされることはあるでしょう。しかし、少なくとも、この貨幣の発行元は、上記の「数」で扱ってくれる(古いのと交換してくれるなり)と、だれもが疑っていない、ということなのだ(つまり、それが、銀行に昔の紙幣をもっていったら、それと今の紙幣に「その値段」で「交換」してくれる、ということの意味なのだ)。
貨幣のこの驚くべき特徴は、つまり、貨幣はこういう意味での、「下方硬直性」をメタ的に内包しているところにある。つまり、ずっと「10円の価値」が未来永劫変わらない。これは「ルールの問題」なのだから、嫌と言ってもしょうがない。
しかし、だとするなら、どういうことを意味するか? 言うまでもない。

  • 「これ」を巡っての<ゲーム>が始まる

ということなのだ。この世の中に、価値の変わらない商品などない。あるわけがない。ということは、値段が未来永劫変わらない貨幣というのは、どこかおかしい。

  • 無理

をしている(これが、貨幣の投機性である。なんか変だと思わないか? 未来永劫変わらない「値段」って。だとするなら、ここには「ギャンブル」の匂いがしてこないか。国民の全員が、このお金の「未来永劫の普遍性」を信じている、というのだから。進化論的に考えれば、この逆ばりをすれば「儲かる」と言っているようなものではないか!)。つまり、その「無理」に働きかけることによって、ある「ゲーム」が成立するわけである。
どういうことか? つまり、

  • その貨幣があらわす価値体系「全体」の<価値>

という「メタ・メタ」メッセージである。貨幣は商品の値段を表す単位であるが、この「単位」自体が、

  • 腐る

のだ。つまり、例えば、日本円なら、この日本円自体が、相対的に、「他の全ての商品」に対して(その中には、他の、例えば米国ドルのような、補完の貨幣も含まれている)、

  • 価格下落

が起きる、ということである。
貨幣を商品の値段を表す単位としたのは、たんに「ルール」にすぎない。もっと言えば、だれかが、そういう「商品」を流通させた、ということを意味しているにすぎない。これは、「ルール」なのだから、このルールの範囲で行動するには、結果として、ルールに「従う」という行動をとらないわけにはいかない。しかし、そうであることが、この「商品」を価値が固定であることを少しも意味しない。
つまり、ここにおいて、次のフェーズに問題は移る。

  • その貨幣<全体>の価値は?

ここは、非常に重要なポイントだ。私たちが「貨幣」と言うとき、多くの場合、それは一つ一つの、例えば、その紙で刷られた「お札」の、具体的な、商品との交換の場面をイメージする。その場合、上記の貨幣の未来永劫普遍の価値単位が「ルール」として呼びだされることに関係して、貨幣の非商品性を意識させられる。
しかし、それは、あくまでも、貨幣の「ルール」に関係しているにすぎない。つまり、そのことと

  • 貨幣「そのもの(=全体)」の価値

は、まったく、別の次元の話なのだ。
これが、上記における、貨幣の「投機」的側面ということの意味である。
貨幣は「このゲームの中」においては、普遍的の「同一数」性を未来永劫保持し続けます(100円は未来永劫100円です)。ところが、「このゲームの外」においては、このことは、なんの意味もありません。つまり、ここにあるのは、

  • その貨幣「全体」が「いくら」なのか?

なのです。その貨幣の「全て」を、例えば、別の貨幣の「いくら」だせば買えるのでしょうか?
しかし、です。
なにか変です。
だって、そもそも、貨幣は、例えば、紙のお札にしても、最近であれば電子マネーにしても、そもそも、お金とは帳簿上のものであって、それ自体に「実体」を求めるものではないからです。つまり、貨幣全部が「いくら」という問いは、非常に違和感がある。もっと言えば、貨幣は、その発行元が、毎年「どんどん」印刷機で刷って、市場にばらまいている。つまり、その「全部」を買おうにも、

  • 買う方も売る方も、お互いが印刷機で刷りまくったら、一体、どっちが買い尽せるのか、売り尽せるのか

みたいな話になりませんかね。しかし、そういうふうに考える必要はない。なぜなら、私たち自身がそのことを実感しているではないか。お金は印刷機で刷れば、いくらでも作れる。ただの紙切れだってことをだれだって分かっている。つまり、どっかの誰から、「これ儲かるじゃん」と、大量に印刷して市場に、「こっそり」ばらまいているって知ったら、どうなるか。言うまでもない、そのお金「自体」の価値が目減りする。お金全部で、今まで、ある商品の「どれくらい」かとの交換価値があると思っていたら、そのただ同然の紙切れが、さらに、倍増えたとなったら、普通に考えたら、その増えた紙切れと

  • 合わせて、以前、等価と考えていたその「商品」の数と同じ

と考えるのが普通でしょう。だって、その「お金全体」の価値が、一瞬で、変わるわけがないのだから。
しかし、この話は、それで終わらない。というのは、単純にそれだけの話ではない、という側面があるからだ。

フリードマンの投機理論は、一九五三年に出版された『実証経済学の方法と展開』という論文集の中の伸縮為替レート制を提唱する有名な論文で提示されています。そこで、投機は基本的に安定的であるという主張を全面的に展開したのです。
フリードマンは、「一般に投機は......安定的である。......なぜなら投機が不安定的であるのは、一般的に投機家は価格の低いときに売り、価格の高いときに買う場合のみだから」と述べます。つまり、市場を不安定化する投機とは、価格が高いときに買ってさらに価格を上げ、価格の低いときに売ってさらに価格を下げてしまう投機であるというのです。
このような投機は必ず損をしてしまう非合理性そのものだと、フリードマンは言います。そして、損をするから、遅かれ早かれ市場から淘汰されてしまう。結果、市場に残るのは、安いときに買って高いときに売る投機家だけであり、そのような投機は安いときに価格をつり上げ、高いときに価格を引き下げる、安定的な投機である。つまり、自然淘汰の法則がここでは働き、市場は投機があっても安定的である。いや、投機があるからより安定的になるということになります。

フリードマンは、どこか、社会学ルーマンに似ている。上記の引用にしても、「一般に投機は安定的である」となっている。ここで「一般的」という言葉によって、

  • あらゆる

含意を意味させてしまっている。つまり、これは、なんらかの「モデル」であることを意図しようとしている。ところが、なぜかこの「モデル」が、現実を説明しうる、とフリードマンは考える。つまり、彼は、これが

  • リアル

だと、自分の「信仰」を表明しているのだ。なぜ、上記の引用の箇所は問題なのか。それは、そもそも彼が言っているように、

  • 淘汰

が始まるからだ。上記のモデルは「なぜか」その貨幣が、「永遠」に続くことを前提にしている。だから、「一般的に安定的」なのだ。しかし、もしも人々が、その貨幣を「使わなくなった」としたら、それは、一体、どういうことなのか? つまり、

  • 貨幣「自体」の淘汰

である...。

ところが、ケインズが『一般理論』で提示した美人投票には、もう一ひねりあります。
それは、大衆参加型の読者による投票です。しかも、最終的に最も多く投票を集めた女性に投票した投票者にも大きな賞金を与えるというものでした。これによって、この美人投票は従来の美人投票とはまったく違った結果を生み出すことになるのです。

古典的な美人コンテストなら、優勝する美人は何らかの客観的な基準に基づいて選ばれているはずです。ところがケインズ美人投票ではだれも客観的基準を知りません。だからといって、自分が主観的に美人だと思う女性に投票しても自己満足しか得られません。自分はこの人がいちばん美人だと思っていても、他の投票者も同じように思っていなければ、賞金は得られないのです。
結局、それぞれの投票者は、自分が美人だと思う女性ではなく、自分と同じように誰に投票しようかと考えている自分以外の他人がより多く投票しそうな女性に票を入れなければならない、ということです。
ここでは、客観でもなく、主観でもなく、他の人たちが誰が美人であるかを決めます。もっと広く言えば、「社会」が誰が美人であるかを決めるのです。美人の「社会」的理論です。だが、驚くべきことに、ケインズの理論は、さらにその先を行くのです。
ケインズは『一般理論』の中で、「それは、自分が一番美人だと考えている顔を選ぶというのでらない。さらに第三段階にいたると、人は平均的意見をどのように予想するかを予想するために全知全能を投入する。第四段階、第五段階、さらにはより高次の段階の予想を行っている人までいるにちがいない」と述べています。
つまりここでは、個々の投票者は、他人がどのように予想しているかを予想しなければなりません。そして、他人も自分と同じように考えているのならば、その他人が、他人が他人がどのように予想しているかを予想しているかを、予想しなければなりません。さらにその他人も自分と同じように考えているならば、予想の連が繰り返され、究極的には予想の無限連鎖まで生み出すことになります。
これは、選挙における勝ち馬(バンドワゴン)効果と呼ばれているものと似ています。美人投票に勝つために必要なのは、美を見極める審美眼でも自分の個性的な好みを主張することでもなく、勝ち馬に乗る才覚です。
勝ち馬に乗ることこそがゲームの必勝法ですから、この人に投票が集まるらしいといううわさが流れると、そちらにどっと票が動いて、そのうわさという勝ち馬に乗った女性が実際に選ばれてしまうということにもなります。勝ち馬が勝つのです。もちろんこの場合、誰が美人として選ばれるかは、ほとんど偶然の結果にすぎなくなります。
したがって、別の理由でだれかが投票を集めそうだといううわさがあると、今度はそこに投票がどっと流れてしまう。そして、ちょっとしたきっかけである人に票が流れたり、別のうわさが流れるとそちらに投票が動くということは、この美人投票のあり方はきわめて不安定な状態を生み出すということです。
もうお分かりだと思いますが、これは金融市場におけるバブルやパニックと同じ構造をしています。

貨幣は「商品」ではない。それは、貨幣が「メタ」の役割において、「ルール」によって制御されているから。ところが、ある意味において、貨幣は「商品」である。つまり、「貨幣<全体>」を、それとして見るなら。つまり、どういうことか。貨幣は、いわば、その貨幣を使っている人たち「全員」で、

  • 支えている

間は、価値がある、ということである。つまり、「信任(=日常的に使っている、という事実性)」こそが、貨幣の正体だということである。貨幣は、その貨幣を使っている人たち「全体」の

  • 共同体

を作る、と考えることもできる。
私は上記の引用にある、ケインズ美人投票の説明に違和感を強く感じる。なぜか。それは、彼がシニフィアンシニフィエを明確に区別していないから、つまり、彼がまだ、構造主義を知る前だから、と考える。
なにがよくないのか。それは、彼が、上記の「ゲーム」を、「美人投票」と

  • 定義

していることである。これは、AKB48の「選挙」と同型なのだ。ケインズは、まず最初に、一般的な美人投票の説明から入る。ところが、ケインズは、ここで、この美人投票のシステムをマイナーチェンジする。しかし、その変更が「本質」なのである。
上記のケインズ美人投票が言わんとしていることは、まさに、ハンナ・アーレントが晩年、カントの三批判書のうちの、最後の『判断力批判』を

  • 政治的文脈

において解釈し直した、アーレントの晩年の仕事が示唆していた、「物言わぬ傍観者」論と、完全に同型の示唆となっていると言えるのではないか。

更に言えば、「私が快または不快を感じること」は、味覚及び嗅覚において、圧倒的な仕方で現前します。それは直接的(immediate)で、いかなる思考や反省にも媒介されない(unmediated)のです。これらの感覚は、見たり聴いたり触れたりした物のように客観性が無であり、あるいは少なくとも不在でありうる、という意味で主観的です。私たちが味わう食べ物は私たち自身の内部にあり、またバラの香りもある意味でそうであるがゆえに、これらは内部感覚です。「私が快または不快を感じることは、「私の同意することまたは同意しないこと」とほぼ同じです。この問題のポイントは、私が直接的に触発される、ということです。まさにこの理由から、ここでは正/不正についての議論は起こりえないのです。「趣味については議論しえず De gustibus non disputandum est」。私が牡蠣を好まないとすれば、いかなる議論をもってしても、牡蠣を好むように私を説得することはできません。別の言い方をすれば、趣味に関する事柄で私たちが困惑させられるの、それらが伝達不可能であるからです。
これの謎に対する解決は、構想力及び共通感覚という他の二つの能力を名指すことによって示すことができます。
構想力は不在のものを現前させる能力ですが、この構想力は対象を、私が直接対面する必要がないけれど、ある意味内面化しているものへと変容させます。そのため、私はその対象によって、まるでそれが非客観的な感覚によって私に与えられたかのように、触発されうる状態に置かれます。カントは、「美しいのは、たんなる判定のうちで快を与えるものである」と言っています。つまり、それが知覚において快を与えるかどうかは重要ではないのです。単に知覚において快を与えるだけのものは、楽しみを与えるかもしれませんが、美しくはないのです。美しいものは、表象=再現前化において快を与えます。構想力が美しいものを用意すると、私がそれについて反省できるようになるからです。それが「反省の作用」です。人がもはや直接的な現前によって触発しえない時------つまりフランス革命の実際の行為に関与しなかった注視者=観客たちのように、人が関与していない時------には、表象の中でその人の(心に)触れ、触発するものだが、是(正)か非(不正)か、重要か無関係か、美か醜か、あるいは、それらの中間であるのか、といった判断の対象になりうるのです。そうなると、問題になるのはもはや趣味ではなく、判断です。何故なら、それがなお趣味の場合のように人を触発することがあったとしても、その人は今や、表象を介することで、それとの間に適当な距離を確立しているからです。その場合の距離とは、是認や否認のための、つまり、あるものをその固有の価値において評価するための必要条件である、隔たり、非関与性、没利害性(uninterestedness)です。対象を除去することによって、公平=非党派性のための諸条件が確立されるのです。

完訳 カント政治哲学講義録

完訳 カント政治哲学講義録

アーレントに言わせれば、政治学はカント以降、まったく違った意味のものになった、ということになる。つまり、政治学の哲学からの分離である。政治が「そう」あるのは、ケインズが言うように、

  • 大衆参加型の読者による投票

だから、です。なぜ、そうであると、まったく違う様相を示すようになるのか。それは、そもそも「意味」というカテゴリー自体が意味がなくなるからです。
主催者は、「これ」が、今でも「美人投票」をしていると思って、このコンテストを企画している。ところが、大衆はどうでしょう? さて、大衆は何を考えているんですかね。そんなことが分かる人が一人でも、世の中にいるでしょうか。いるわけがない。いたら、そいつは神だ!
つまり、この時点で、このコンテストが「なにか」を議論することは、まったく無意味になったのだ。なんだか分からないけど、なぜだか分からないけど、大衆は、だれかに投票する。大衆の意味、つまり、シニフィエを考えることには表面的には、なんの意味もなくなった。ここにあるのは、徹底したシニフィアン。膨大にある、ツイッター上の人々の「つぶやき」だけだということである。

本人自身は、デフレーションは一時的であると思っていても、他の人間がデフレーションはさらに続くと予想していると予想し始めたならば、貨幣を手放さないで、なるべく貯めておこうと思うはずです。貨幣を貯める方法は、二つしかありません。モノを買うのを手控えるか、モノを売るかです。
このように、人びとはいつの間にか、貨幣に関する投機家としての行動をとり始めてしまうのです。そして、その結果、モノ全体に対する総需要は下落し、総供給は上昇し始め、総需要と総供給との間のギャップがさらに広がってしまうことになります。デフレーション、すなわち貨幣価値の上昇はさらに激化し、それはデフレーションに関する人びとの予想をさらに強めることになります。貨幣のバブルが始まったのです。
累積的なデグレーションとは、貨幣のバブルの別名なのです。そして、貨幣のバブルの行き着く先は、モノの供給は有り余っているのに、本来はモノを手に入れる手段にすぎない貨幣だけを貯め込み、だれもモノを買おうとしない状態、すなわち「恐慌」です。経済は、恐慌の奈落へと急速に落ちていってしまうのです。
総需要が総供給を上回った場合は、今とは逆のプロセスが始まり、貨幣に関するパニックが引き起こされます。累積的なインフレーションが劇し、すべての人間が貨幣からできるだけ早く逃げ出そうとします。行き着く先は、貨幣が貨幣としての価値を失い、何の価値もない紙切れや電子雑音になってしまう「ハイパーインフレーション」です。

フリードマンの「理想」は、たんに、貨幣の投機性の否定(=安定を自明とするリアル感覚)が問題なのではない。

ここで重要なのは、フリードマンの場合は、人間が合理的であれば投機が安定的になるということですが、その背後に、投機が不安定性、さらに広く言えば、市場経済の不安定性を、人間の非合理性のせいにしたいというイデオロギーが隠れています。かつてのスペンサー的な社会的ダーウィニズムと同様に、市場における自然淘汰の働きは、市場から非合理的な人間を駆逐していき、究極的には、資本主義は合理的な人間が支配する安定的な状態を常に確保できると言いたいのです。

フリードマンの議論は、議論が「逆転」してしまっている。つまり、彼は、現実経済において、貨幣が安定性でないのは、まず、第一義的には、この自由経済を妨げる「規制」があるからだ、と主張する。最低賃金を含めて、あらゆる規制をなくせば、彼の言う経済の「安定」性が実現されるのだから、頼むから、パンピーは余計な邪魔をするな、というわけだ。しかし、このことが示している含意は何かと考えれば、彼はようするに、大衆が

  • 頭の狂っている(=愚かな、バカな)人間

だから、なにもかもうまくいかないんだ、と言っているのと変わらないわけであろう。
しかし、問題は、フリードマンの考える「普通の人間」の、その「普通」さが、少しも自明でない、というところにあるわけであろう。
上記の引用にあるように、デフレもハイパーインフレも、人々が貨幣を「投機」の道具として動いているから、としか言いようがない。しかし、そのことのどこが「不自然」であろうか。信用に過大なまでに膨らんだ貨幣は、今以上にだれもが欲しがるようになるし、信用できない貨幣は、最終的には、大衆が行動によって

  • その貨幣を使わない

という選択をするようになる。つまり、その貨幣の「絶滅」である。じゃあ、この貨幣の運動は終わるのか。終わるかもしれないが、普通に考えるなら、別にそこで終わる必要なんて、全然ない。つまり、

  • もっと良い貨幣

を使うようになればいいだけにすぎない。つまり、前者の貨幣は、後者の貨幣との「生存競争」に負けて、他方は、言わば「進化」したのだ。

これが、「信用創造」です。それによって、銀行が引き出しに備えて準備している現金の100倍近い貨幣が創造されることになります。まさに無(いや僅少)から有が生み出されているのです。
ところで、銀行預金はなぜ「流動性」が高いのでしょうか? それは、誰もいつでも現金に換えられると思っているからです。でも、いつでも引き出せるという預金者の安心は、他の大部分の預金者が同時には現金を引き出すことはないという予想を前提としています。では、なぜ他の預金者は引き出さないと予想しているのでしょうか? それは、他の預金者自身も、自分以外の大部分の預金者が現金をいつでも引き出せると思って安心しており、自分と同時には現金を引き出さないと予想しているからにすぎないのです。
ここで働いているのは、ふたたび自己循環論法です。銀行預金の流動性の高いのは、誰もが他人が銀行預金は流動性が高いと安心していると安心しているからなのです。この自己循環論法こそ流動性の秘密です。いや貨幣の秘密といっても良いでしょう。そして、この流動性の自己循環論法も、あのケインズ美人投票と同じ構造をしているのです。

上記の引用にあるように、どの国の貨幣も、このような潜在的な「危険性」をはらんでいる。そして、その危険は、どんなタイミングによって、顕在化しないとも限らない。すべての貨幣は、こういった潜在的な、その「投機」性によって、滅びの可能性をはらんでいる。
貨幣は、投機的であるということから、本質的に

  • ギャンブルの対象

である。進化論で、すべての個体が協力戦略を選択している中で、一人だけ、友敵戦略を使うなら、協力戦略側をかたっぱしから「殺せ」ば、連戦連勝、向かうところ敵なしであろう。
フリードマンは、「これでいいんだ」と言うわけです。彼は、もし貨幣が滅んだら、「人間が悪い」という

  • 答え

を、それが起こる前から用意しています。つまり、彼の議論は絶対に負けません。貨幣が滅ぶのは、さまざまな規制や、その規制を作った「バカ」な大衆のせいですー。つまり、フリードマンは自分が貨幣の発行者になる気がないのであろう。自分が責任者になる気がない。だから、それを

  • 大衆のせい

にして、何かを言った気になっている。人間が悪い。そう言って、人間は進化論的に滅びていくわけである...。

そこで、経済の安定性を保つ貨幣賃金の粘着性を前提として、そのもとでセカンドベストの政策を提示しましょう。それが、有効需要原理を使ったさまざまなマクロ政策の存在意義なのです。財サービス全体に対する有効需要を政府や中央銀行による財政金融政策である程度コントロールして、経済の安定性と効率性の二律背反という「資本主義の不都合な真実」に可能なかぎり抵抗するということです。

重要なことは、もはやどのような意味においても、この地上には理想社会がないということを認識することです。そして、効率性と安定性二律背反してしまうこの「最悪」の資本主義を、効率性と安定性のバランスを常にとりながら、さまざまな工夫によって、よりましな「次善」のシステムにしていくことしかありません。

なぜ金融におけるマクロ政策は、重要であり、実際に効果があると考えられているのか。それは、上記の文脈から自明ではないでしょうか。
フリードマンは、投機によって、貨幣は破壊されない、と言った(一般的に、だけど)。むしろ貨幣が破壊されるのは、規制などを作る「バカ」な大衆が悪いんだから、大衆が滅びるしかない、と言っているのであろう。
ところが、ケインズは、むしろ、貨幣は投機の対象であり、ギャンブルそのものなんだから、ばかの一つ覚えの「戦略」しかないなら、その逆ばりをするフリーライダーの横行によって、

  • 簡単

に、貨幣は進化論的に駆逐され、消滅してしまう、と言ったのだ。むしろ、競争力のない貨幣は、その必然的結果として、滅びるのだ。
上記でふれたように、貨幣とは、その貨幣を「使っている」人たち全体が、それを使う「行為」そのものによって、貨幣の「信任」を与える、いわば、貨幣を使っている人たち全体の「共同体」を浮き上がらせる。だとするなら、マクロの金融政策は、このフリーライダーたちからの貨幣へのギャンブル的「攻撃」に対抗する手段の一つだということが分かってくるであろう。
ギャンブラーたちが最後に「予想」できないものがある。それが、人間の「判断」である。つまり、ギャンブラーの「賭け」は、人間の側の

  • ルール変更

によって、狂わされる。絶対安全パイだったはずの「戦略」は、まったく、逆の大損へと変わる。つまり、こういったマクロ政策的な、

  • 安定性を狙ったオプション

は、確かに、その貨幣を使っている人それぞれに、損になったり得になったりといったような、少なからぬ損得の差異を生み出すことになるが、少なくとも、そのマクロ金融政策が、なんらかの

  • 社会的な「安定」性

を意図したものである限り、そいつがフリーライダーでない限り、この貨幣「共同体」の破壊を意図しているのでない限り、その正当性に反論しにくいわけである。
私は上記の引用の最後の「まとめ」の部分に違和感がある。つまり、なぜ「次善」の政策なのかは、そもそも、それがギャンブルの本質だからだ。投機的行動に対抗する手段は、彼らの「成功戦略」が

  • 必ず

ときどき失敗「しなければならない」からだ。そうでなければ、錬金術になってしまい、その結果が、貨幣の「絶滅(=信用の消滅)」なのだから。つまり、どんな経済システムも、必然的に、なんらかの人間の介入による「不確定要素」を含ませなければならない。もちろん、それなりの規制によって、全体の経済規模の「コントロール」をするという方向もありうるが、しかし、それだとしても、その規模は「程度問題」であることを意味しているにすぎず、本質的な解決にはなっていないからだ。
愚かな指導者が愚かな政策によって、退陣を迫られることは、世の必定であろう。同じように、愚かな金融政策を続ける貨幣が滅びの道を歩むことは避けられない。しかし、なぜそれが「困る」ことであるのか。なぜなら、そのために「競争」があるのであろう。優秀な指導者たちは、お互いで切磋琢磨すればいい。貨幣の同じように競争しあって、お互いのマクロ金融政策を

  • 大衆に評価

されればいいではないか。そうして、「信頼」される貨幣が残っていく。
では、この場合に、どんな貨幣が大衆に選ばれて、残っていくのか。そのことこそ、上記で議論した、ケインズ美人投票の話に戻るわけである。
(すみません。最後はいつもの感じのネタですんで、気にしないでください。)
アニメ「WUG」の最新話、第6話は「神回」となった。というのは、おそらく、第7話が神回になることが分かっている、という意味で、だとするなら、第6話こそが神回だということである。
第6話において、I-1クラブの音楽プロデューサーの早川相(はやかわたすく)は、自分がWUGのプロデューサーをひきうけるに、林田藍里(はやしだあいり)をメンバーから外すことをメンバーたちに同意させようとする。
林田藍里(はやしだあいり)がなぜ重要か。それは、彼女が

  • なにものでもない

から、である。彼女は「驚くべき」存在である。それは、彼女がなんの特徴もないからなのだ。つまり、歌もうまくない。ダンスもうまくない。なにか、そういったレッスンを今まで受けてトレーニングをしていたわけでもない。つまり、なぜ彼女が

  • 重要

なのかは、「そういった」彼女がメンバーに応募してきたことなのだ。彼女は「それでも」自分がなりたい、と思ったことが重要なのである。
言うまでもないことだが、もともと、なにかをやっていた人が、メンバーに応募して来ることは、言わば、論理的必然性がある。だって、ある意味において、

  • そのため

にやっていた、とも言えなくもないのだから。彼らは「自明」だから、応募した。ところが、林田藍里(はやしだあいり)は、そもそも、その「自明」性を最初から、仮定していないのだ。そうなのに、応募したのだ。
もちろん、だから彼女には「覚悟」がある、とまで言いたいわけではない。しかし、唯一彼女は、他のメンバーと違い、「勇気」があった。
今、この段階にきて、売れっ子プロデューサーに「蛮勇」だったと、ダメ出しをされている。さて。彼女は辞めるべきだろうか?
そんなことは、言うまでもないであろう。
辞めさせてはならない。というのは、もし彼女を、そういう理由で辞めさせるなら、アイドルグループ「WUG」は、

  • 「そういう」人たちの集団

になってしまうからだ。つまり、アプリオリに「ある色のついた人しか入れない<エリート>集団」となってしまうからだ。彼女がメンバーの一人であることは、

  • 非常

に重要なのである。そのことが、「WUG」の「正当性」を担保する。
そもそも、私たちはなぜアイドルグループを応援するのか。それは、彼女たちが美人だからか(美人投票のように)。それとも、彼女たちに才能があるからか。彼女たちが自分に親切だからか。おそらく、それは全て間違っている。私たちがアイドルグループを応援するのは、そのアイドルグループが

  • そうある

からなのだ。前田敦子がセンターにいるなら、彼女が「そうある」から私たちは応援する。だって、そうあるということは、そうある「から」意味があるのだから。
そういった文脈で言うなら、そもそも、メンバーは結成の草創期から、

  • 一人として欠けてはならない

卒業するとしても、それは、そのメンバーの「前向きな発展」を意味している場合以外にはありえない。なぜなら、だったら、なぜ、同じ志(こころざし)をもったメンバーは、一つになって、このプロジェクトを始めたのだ?
一人が欠けるくらいなら、このグループは、今ここで、解散すべきだ。
なぜ、このグループを私たちが応援するのかは、林田藍里(はやしだあいり)が、何者でもない透明な存在であるのと同じように、私たち「自身」が、何者でもないから、であると言うしかない。何者にもなれない私たちは、

  • だからこそ

何者にもなれない自分を「あがいている」彼女を応援するのであって、そういう意味で、林田藍里(はやしだあいり)のいないWUGはWUGではない。もしも彼女が「ここ」に残って成長していけないというなら、そもそも、この「場所」自体が大衆に関係ない、ということなのである...。
(大衆に関係ない貨幣は、大衆と関係なく滅んでいく...。)

経済学は何をすべきか

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