本居宣長は右翼か?

本居宣長が、実際のところ、何を言っていたのかを考えるとき、どうしても避けられないのが、処女作「排蘆小船」における、以下の箇所であろう。

たとえば、戦場に出た武士が君のため、国のために一命を惜しまず、いさぎよく死地におもむくのは義士の道である。しかし、そういう武士も、死にのぞんで、故郷にのこし妻子のことをかなしく思わないだろうか。年老いた親にもう一度あいたいと思わないだろうか。最期のときにのぞめば、いかに剛勇をほこるあらくれ男でも、どうしてかなしい思いにとらわれないことがあるだろうか。そのときにあたって、親や兄弟や妻子の上に思いをはせ、かなしく、つらい思いに胸をかきむしられるのは、人情の自然であって、聖人も、凡人も、この点においてかわりない。国のため、君のためにいさぎよく死ぬのは、男らしくきりっとしていて、だれもがねがい、うらやむことである。それに反して、親や妻子のことを思いだし、かなしみのあまりこころがみだれるのは、未練がましく、卑怯であって、女やこどものすることとかわりはないが、まだそういう気持がまったくおこらないひとがいるとしたら、それはもはや人間ではなく、木石禽獣のたぐいである。死にのぞんで、かなしくないものがいるだろうか。こころにはかなしく、つらい思いをいだきながら、それを外にあらわさず、死後の名を思い、君のため、家のために、たいせつな命をすてるのである。
(「排蘆小船」)

しかし、ここで重要なことは、宣長は、別に、雄々しいことと、女々しいことの、どちらであるべきだ、ということが言いたいわけではないのである。もしも、後者の方で「なければならない」と言うなら、それは、徳川幕府批判になってしまう。つまり、賊軍ということになり、自らに非難が及ぶであろう。以下の引用を見てもらえば分かるように、ここで、宣長が言っているのは、

  • 歌(うた)というものは、そういうもの(=女々しいもの)だ

というだけで、それについての価値判断をしていないんですね。

そして歌はその人情をよむものなのだから、人情にふさわしく、しどけなく、はかなく、つたないものであるのは当然である。また、人情は古今和漢を通じてかわるものでないのだから、その人情をよみながら、男らしく、剛直で、きりっとしているというのは、人情のありのままをよんだものではないと考えるべきである。たとえば、孔子の編纂したといわれる『詩経』三百余篇の詩をみても、その多くはしどけない内容のものである。それを考えてもわかるように、多少詩や文章をしっているからといって、歌をしどけないという理由でわるくいうのは見当ちがいであり、人情をしらないもののすることである。
ともかく、歌は人情のありのままをよむものであり、はかなく、しどけなく、おろかなのは当然である。それをしらずに、いかめしく、自己主張のつよい漢土の詩や文章をひきあいにだして、歌のことをとやかくいうのは、ちょうど矩形の定規で円をはかり、ゆがんでいると非難するようなもので、見当ちがいもはなはだしい。
(「排蘆小船」)
日本の名著 (21) 本居宣長 (中公バックス)

処女作「排蘆小船」は、歌論であって、歌とはなんであるのかを書いているにすぎない。ところが、他方において、立派な身分の人で、歌の「たしなみ」のない人は無粋であると言っているわけで、結局は、雄々しいことの

  • 欺瞞

を指摘しているわけです。つまり、嘘なんだろ、と。正直に言え、と。正直であることが歌だと言いながら、歌のできない無粋な連中を軽蔑しているんだから、つまりは、正直に言えと。

だいたい人間の心の奥の隈々をさぐってみれば、ただ女々しく、はかないことが多いものだ。雄々しく、しっかりもののふうをするのは、おのれを反省して、とりつくろったもので、人に語る時などは、いっそう吟味して格好よくうわべを飾り、ありのままのことはなかなかいわない。たとえば、あっぱれな武士が君のため国のため戦場でいさぎよく討死したことを書いた場合、その行為といい心といい、まことに大丈夫とかいうものであって、心中さぞかし雄々しかったであろうと推測される。しかし、それもその時の心の奥の隈々までをつぶさに書き出そうとすれば、一方、さすがに故郷の父母も恋しいであろうし、妻子の顔もいま一度見たいと思うだろうし、命もどうして少しは惜しくないことがあろう。これは絶対のがれることのできぬ人間の真情で、大丈夫であるからには、そういう女々しい心など露ほどもないといえば、かえって心ない岩木の類いに等しい仕儀となろう。
一方、漢土(もろこし)ふうの世の常の書は、自己の心のうちは少しも語らず、人をほめて書くさいにも、とりつくろったうわべの心だけを書いて、ぐあいの悪い隈々をはぶき、おしかくしているので、ちょっと見には賢く雄々しく、折目正しく思われるものだが、そういう書にのみなれた目を移して物語書に接するから、そのようにはななく女々しく見えるのである。すべて物語は、したたかな教誡などの書ではなく、物のあはれの方面を見せるために人情のあるがままを書いたものにほかならない。なかんずくこの物語は、とくに心をこめて人情のありようを、隈なく、つぶさに書きあわしたものであり、そのうちでも、よき人は物のあはれを知ること深いので、その人々が心に物思うさまを記すと、当然、女々しく心弱く聞こえることが多くなるのである。
(「源氏物語玉の小櫛」)
日本の名著 (21) 本居宣長 (中公バックス)

ようするにさ。

  • 雄々しく、しっかりもののふうをするのは、おのれを反省して、とりつくろったもので、人に語る時などは、いっそう吟味して格好よくうわべを飾り、ありのままのことはなかなかいわない。
  • 自己の心のうちは少しも語らず、人をほめて書くさいにも、とりつくろったうわべの心だけを書いて、ぐあいの悪い隈々をはぶき、おしかくしている

つまりさ。
偽善者
ってことでしょ。正直に言えばいいじゃねえか。お金持ちでよかった、と。貧乏じゃなくてよかった、と。貧乏人をだまして、幸せになりたい、って言えばいいじゃねえか、と。貧乏人に福祉をやりたくない、って。自分たちの払う税金が貧乏人のために使われたくない、って。
うわべを飾って、ありのままに言わない。自分の心のうちは語らず、とりつくろったうわべの心だけを書く。具合の悪いことははぶいて、おしかくす。
本居宣長が言っていることって、典型的な、安冨さんの言う「東大話法」ですよね。ようするに、東大話法って、

  • 言いたいことしか言わない

んですよね。自分が語りたいことしか語らない。つまり、それって「会話」じゃないんですよね。だって、会話って、入学試験の項目にないですからね。こういう連中って、どうせ、企業の面接を受けたこともないんでしょうね。
大学の研究者って、そいつがどんな鬼畜な毎日を送っていても、そいつの研究成果を使う場合は、そいつの名前を紐付けしなければならないから、結局、そいつの存在を認めないわけにはいかないんですよね。つまり、コミットメントが発生するのは、「作法」なので、避けらないんですよね。
しかし、どう考えても、大学教授の中にも、人格破綻した「鬼畜」っているわけでしょう。だって、そうであるかをテストされていないんですからね。
でもさ。自分の言いたいことだけを言うって、典型的な

の特徴ですよね。じゃあ、その反対は何かというと、それが「政治」なんですよね。政治って、結局は、自分に対する「信頼」を勝ち取っていかなければならないんで、細かく、相手の意見に

  • フォロー

できないと、単純に「自分と関係ない人」ということで、シカトされていくだけなんですよね。だから、政治家においては、非常に濃密な「熟議討論」が成立しうる可能性があるわけですよね。
貧乏人を差別したいなら、差別したいって言えばいいんじゃねーの。貧乏な奴に、原発のリスクを押しつけてーんじゃねーの。嫌な奴隷作業は、金のねー奴等に押し付けてーんじゃねーの。
自分の思っていることを押し隠して、大学に入れなかった奴らを「バカ」呼ばわりして、知能が足りない連中だから、こんな奴らと自分を同列にされたくない、とか言えばいーんじゃねーの。
ようするに、差別が言いたいんでしょ。お金持ち連中で、集まって、貧乏人をバカにしあって、お互いの団結力を深めればいーんじゃねーの。
本居宣長が言いたいことは、そういった<本音>を、思っているなら、言え、ってことなんじゃねーですかね。
東大話法って、「戦略」的に発言するんですよね。だから、話題としてふれたくないことは、徹底して避けるし、逆に、明らかに、どうでもいいことを、相手のマイナス・イメージを印象付けるため「だけ」に、ネチネチとこだわり続ける。
つまりさ。

  • 思っていることを言わない

わけでさ。それを

  • 正常

だと思って、やっている奴って、本居宣長から言わせれば、「木石禽獣のたぐい」ということになる、っていうわけでしょう。まあ、それを「動物」だと言ってみたところで、それは本居宣長から言わせれば、

  • 隠している

んでしょ。つまり、本居宣長から言わせれば、もしもそれが「正常」だという人間がいるとするなら、そいつって、たんに「動物」ってだけじゃなくて、

という、一種の「病気」だ、ということになるんでしょうね orz。