正義論序説:第三章「ローティのリベラリズム」

リチャード・ローティが、一方において、哲学における

  • 不可知論

を全面に出すことで、哲学の全否定を展開していく過程において、形而上学としての哲学ではなく、

としてであるなら、彼が積極的に肯定していった(=コミットメントしていった)ことは、私たちに、彼を、どのように受けとればいいのかを考えさせる。
というのは、そのローティの「全転回」が、あまりにも「極端」に私たちには思われるからである。つまり、彼が「プラグマティズム」を肯定するというのは、どういう意味なのかが、よく分からないのである。
ローティは、自らのプラグマティックな「政治」的立場において、ヘーゲルを評価する。彼から見たとき、ヘーゲルは、普遍的な理論を作らなかったわけでも、目指さなかったわけでもないが、他方において、ヘーゲルは、私たちは

  • 時代的「制約」を生きている

と考えた。つまり、彼は、私が生き、生み出すこの「理論」が、せいぜい、私たちが生きているこの「時代」の範囲を抜け出せない、という人間の能力の限界を認めたのである。私たちは、自らが生きている、この時代が課してくる制約の外に出ることはできない。よって、私たちが実現する「理論」は、必然的に矛盾があるし、不完全であることを避けられない。しかし、だとしても、ただニヒリズムに浸り、現実に向き合うことから逃げるだけが生き方なのではない、と考えた。それが「プラグマティズム」である。
プラグマティズムは、私たちが、現実を前にして、不十分にしか抵抗できないことを分かった上で、「なにを選ぶのか」の命題に向き合う。しかし、それは、どういった意味なのか?
ローティの特徴は、彼がこのプラグマティズムの延長において、アメリカ・ナショナリズムに対して、非常に「接近」した、めずらしい哲学者だということではないか。ローティのこの「保守主義」は、

という形をとる。つまり、これは、アメリカ政治の永遠のアポリアである、多民族国家における「秩序」をどのように構想するのかに関係する。
アメリカ国内に存在する、さまざまな人種や民族を、どのような「秩序」において、

  • フェア

に扱うべきなのか。ここにおいて、ローティが、ロールズの正義論を非常に評価したことは、注目に値するであろう。ローティは基本的にロールズの設定する「社会契約論」を、ヘーゲル的な意味において、かつ、プラグマティズムの意味において、肯定する。ロールズの考える、「最低限のフェアなルール」は、最低限であることに「意味」がある。なぜなら、それはローティ自身が「哲学」において示した、不可知論であり、懐疑論の結果であったからだ。
そもそも、完全な哲学はない。ありえない。そうである限り、人々の完全な「合意」はありえない。ありえると思うことが、「形而上学」なのだ。そうであるという結果は、必然的に、ルールは、

  • 最低限

においてしかありえない、という結論に至る。
もちろん、こういった理屈に違和感を覚える人もいるであろう。そもそも、ローティは「哲学」を全否定したのではないのか。だったら、たとえ「最小限」であっても、不可能は不可能なのではないか。しかし、これが彼に言わせれば、「プラグマティズム」ということなのである。
彼は、自らの訴える「理論」において、もう一つの「最小限ルール」を提案する。それが「残酷さ」であり、「苦痛」である。つまり、彼は、再度、ベンサム功利主義に、「プラグマティズム」の観点において、戻った、生物還元主義に戻った、と言えるだろう。
(この視点から、原発問題を考えることは、興味深いかもしれない。原発事故は、放射能が私たちに見えもせず感じることもできないという意味で、「残酷でない」というふうにも考えられる。つまり、これを安全厨が「何も起きていない」といった「デマ」を言うことには、ローティ的な意味の「残酷さ」において、成立しているとも言えるのだ。しかし、チェルノブイリの事故の後の人々への病気の被害の広がりを見たとき、それは、具体的には、何を意味しているのか、ということになるわけである。原発事故は、そもそも、「功利主義」という自明主義の範疇で考えられるような、自明な事態なのだろうか。原発事故は、ローティの考えた、リベラル・ユートピアを「ディストピア」にする可能性を示唆する事態なのかもしれない、と私は、軽く妄想するわけであるが...。)
しかし、こういった理論「禁欲」主義は、どこか私たちに「本当にそれで人間なのだろうか」という、不気味さを与えないだろうか。
私は、実は、この側面において、彼は一種の「抜け道」を作った、と考えている。

ここには、リベラルなコミュニティを可能にするすべて、すなわち「最小公分母」----苦痛や苦悶の防止----と「慇懃なる無視」----他のサークルの営み(幸福の追求)に口を挟まない----が明瞭に語られている。これに呼応するかのように、ローティはこう述べる。

我々は、数多のプライヴェートな会員制(exclusive)クラブに取り囲まれたバザールをモデルに、世界秩序の構築を目指すことができる。
......かかるバザールに集う人々の多くは、彼らと掛け合いする大方の相手の信念を分かち持つくらいなら死んだ方がましだと思いつつも、なお、うまい具合に渡り合ってゆくものだ。明らかに、その手のバザールは、アラスデア・マッキンタイアやロバート・ベーのごときリベラリズムの批判者たちの言う、すなわち「共同体」の強く是認的な意味での共同体ではない。......しかし、我々はブルジョワ民主主義的な市民社会を描くことができる。必要なのは、どうしようもなく異質と思われる人物が市庁舎、八百屋、ないしバザールに姿を現したときに、おのれの感情を制御する能力だけである。こういう事態が生じたら、あなたはにこやかに微笑んで、能うかぎりのもてなしをし、その日のきつい駆け引きの後で、所属するクラブへいそいそと帰ってゆくのだ。そこでは、あなたの道徳的な同輩たちとの親しい交わりが、あなたを慰めてくれるだろう。(PPv1, 209)

だから、ローティの理想社会の住民は、バザール(政治的空間)のヴォキャビュラリーと、会員制クラブ(個人たちの空間)のヴォキャビュラリーを使い分けなくてはならない。ローティの主張する「公/私の区別」、より正確には「政治的/個人的の区別」が登場するのは、この場面である。

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

例えば、ある異なる宗教を信じる人同士が、どのような「作法」において、お互いが出会ったとき、互いを接するべきであろうか。私たちが、例えば、ゲイの人やレズの人に会ったとき、その人にどう対応すべきであろうか。
もちろん、こういった場合に、私たちは、なんらかの「戸惑い」を感じないわけにはいかないであろう。口が滑って、相手を侮辱することを言ってしまうかもしれない。
しかし、ローティは、ここで、非常に

に近い態度を(つまり、メタのレベルにおける態度として)、「プラグマテズム」の観点であり、かつ、「功利主義」の観点から、人々に「勧める」、しかも、

  • 自分が「実践している」

という「信仰告白」をしている。つまり、彼は、「本音を言うな」と言っているのだ。自分が思っていることを隠せ、と。なぜなら、そっちの方が、

だからだ。自分が思っていることを人に言わない。自分の心の中の汚い自尊心、他人に損を押しつけて、自分だけが得をしたいというエゴイズムを「隠す」ことで、他人から非難される「トラブル」を避けられるのだから、言わないことが「賢い」と。
これが、ローティの「ナショナリズム」なのである。
このように考えてくると、ある一つの「疑問」が私の中から、浮かび上がってくる。つまり、彼は、

  • 本音で語っているのか?

ということである。彼の言う、ロールズの「最小制度論」は、本当に彼の「本音」なのだろうか? つまり、彼にとっての

においては、彼の「ナショナリズム」に「接近」していく政治的実践において、

  • 裏から政権に影響を与えることによって

表向きの「最小化のフェアネス」の裏で、さまざまに、「得」をしよう、という「本音」が隠れているのではないか、という裏読みができてしまうわけである。
よく考えてみてほしい。ベンサム功利主義において、そもそも、ベンサムは人々が「自らの得」を前提に行動することを

  • 前提

に議論していたわけである。そういう意味で言うなら、ベンサム自身も、ロールズ自身も、ローティ自身だって、

  • 自分が得になるように

哲学をやったし、「やるべきだ」と考えるのが、功利主義であり、リベラリズムなのである。このような視点から考えるなら、彼らが彼ら自身が所属する「ブルジョア知識人」の<党派的>な利害関係から外れて何かを言えたのか、と問うことには、十分に意味がある。特に、ローティは、

  • 自分はそうやって生きている

という「信仰告白」までしているわけである。私たち素人は、彼の「魔術師」のような論理に、ひとまず、眉唾で受けとるしかない、ということではないですかね...。