正義論序説:第二章「国家の制度設計」

ベンサムにとっての功利主義は、そもそも、法学や政治学が、「生物学」に還元される、という、かなり野心的なものであった。
しかし、ベンサムにとって、功利主義と、この「生物学還元主義」は、切っても切れない関係にあったはずである。つまり、どちらかを、無視して他方を主張することは、本来、できないものと考えていたはずなのだ。
しかし、だとするなら、一つの疑問が生まれる。それは、現代において、功利主義を主張する人たちが、この「生物学」の問題を、どう考えているのか、なのである。これは、「無視可能」なことなのか? それとも、そうではないのか?
これについて、現代日本において、非常に野心的に、その形式化に挑戦している本がある。

「功利性」は本来は(少なくとも古典的功利主義に於いては)およそ総ての事物が備える性質であって、快楽を増大させ苦痛を減少させる傾向性、快を増し苦を減らすのん役立つこと(usefullness)を指す概念であって、快苦それ自体のことを指していたのではない。しかし、後に厚生経済学の進展に伴って、快苦や欲求充足など個人が享受する個人的善を指すものとして「功利性・効用」が用いられることになった。現在の経済学でのこうした用法に哲学者達が影響を受けたために、倫理学・政治哲学に於いても経済学同様に個人的善を表す語としてしばしば「功利性・効用」が使われるようになっている。功利主義に於いて「正しい行為とされるものは、所与の選択肢集合のうちで社会に於ける快苦の総和を最大化するものであり、まさに最大の功利性を備えた行為であるから、古典的な意味での「最大の功利性(maximal utility)を備えた行為」と現代的な意味での「功利性を最大化する(maximizing utility)行為」がほぼ同義になる。これは確かに紛らわしい。しかし、これら2つの用法が本質的ん異質なために、どちらの用法でこの語を用いているかが読者に直ちにわかるため、混用の弊害が比較的小さいということが、哲学者達がこうした混用を受け容れてきた背景にある。

統治と功利

統治と功利

ここは、前回書いたベンサムの功利性とも関連する。例えば、実際にある動物を観察して、ある「反応」から、その動物の快や不快を「判定」したとして、それを「統計」していくこと(個人的善)と、功利主義はどうしても似てきてしまう。なぜなら、そもそも功利主義は、ある「傾向」性を、「苦痛」と「快楽」を、人間の「幸福」の条件として前提にしているからだ。だから、道徳は「科学になる」としていたのだから。
つまり、この辺りから、結局、功利主義って何をやっているのだろう、という疑問がわいてくるわけである。

良く取り上げられる仮説的状況として以下のような状況を想像されたい。

aはbに謝礼を約束して自分の引越しの手伝いをしてもらった。だが、引越しが終わった後、生活にさほど困窮していないbに謝礼を渡すよりは孤児院に全額寄付した方が人々の幸福を増大させるとき、功利主義に従えばaはbとの約束を守らず寄付すべきである。

統治と功利

ここで注目すべきは、個人道徳的功利主義者の応答に於いて、既に契約の実効性を担保する制度が存在していることが前提にされている点である。契約を(少なくとも最終的には)履行するか、そもそも契約関係に入らないか、の二択しかない状況が既に制度によって作出されているならば、この議論はそれなりに有効である。ここで重要なことは、個人道徳的功利主義が制度を所与としており制度自体の功利性を必ずしも直接問わないことである。一般に個人の行動選択肢には制度を改変するという選択肢が入ってこない以上、これは当然のことであるが、統治功利主義は反対にいかなる制度及びその適用が望ましいかをその対象とする。
統治と功利

上記の引用は、一つ、はっきりとした印象を功利主義に与える。それは、上記で「個人道徳的」と断りをしているように、一種の「道徳」を議論しているのである。aがどう行動すべきか、と問うときに、

  • 自分だけの利益で考えない

のである。みんなの利益を考えた上で、こうしたら、みんながハッピーなんだから、こうしよう、と主張していることである。
つまり、もう少し正確に言うと、功利主義は、

  • 私たちが今まで、道徳と呼んできたような「義務」や「ルール」に関係するものの「オールタナティブ」として、功利主義という「計算ルール」が、それと同じことを実現できる

という主張だ、ということなのである。つまり、功利主義は、道徳抜きで道徳と同じ「行動」が実現することを証明する、というわけである。
しかし、なぜ「道徳」に、そこまで、こだわるのだろうか? 功利主義のどこか「反語」的なニヒリズムを感じるのは、一方において、個々人の「エゴイズム」から派生する利益追求行動を肯定しておきながら、他方において、上記のように、一種の「道徳」的な「なにか」を前提に議論を進めているところなのではないか。
例えば、上記の例で考えたとき、もしそれを、国家の制度設計を構想しているレベルにおいて考察したとき、aがbにお金を返すというのは、法が決めている「制度」であり、そのお金を直接に孤児院に寄付させる「制度」にするかとは別だと考える。つまり、いずれにしろ、社会制度としては、孤児院にお金が渡るようにさせることと、約束を守らせることは、制度として

  • 両立させうる

ということになる。

いずれにせよ我々は正義の善に対する優越を説く以来の現代正義論と、善の諸構想に依存しない形で制度を構想しようとするリベラリズムという枠組みに適合的に功利主義を論じるものであるが、そうした区別をしない点に功利主義の魅力を見出す論者にとっても、本書で行われる議論は無意味ではないはずである。
統治と功利

功利主義が、道徳抜きで道徳と同じ「行動」が実現させられうる、と主張するのは、そもそも、ベンサムの言葉で言えば、生物学における「苦痛」と「快楽」の法則の普遍性の演繹によってであった。
しかし、言うまでもなく、私たちは、別に、なにかをやる場合に、「苦痛」だからやらない、とか、「快楽」だからやる、なんて決めていないであろう。そんな屁理屈以前に、やると決めたらやってるし、やらないと決めたらやらない、それだけであろう。
つまり、ベンサム流の「意志の論理学」を私たちは、日常的に認めていない。
このことを端的に示すのが、選挙における投票であろうし、社会契約論でもある。どちらにしろ、その意志決定は、実際の大衆の意志表明に関係する。
だとするなら、功利主義的な視点からの制度設計は、あくまでも、

  • 補助的

な、なんらかのフェアネスを制度の細かい所で実現される役割を期待されうるものである、というような「ひかえめ」な主張であったと考えるべき、と思われるのだが、少なくとも、ベンサム流の「意志の論理学」は、そんな範囲にとどまる気はない、ということのようだ...。