正義論序説:補説二「戦中における<平等>」

たとえば、近年の、ネトウヨなどによる、外国人排斥運動を、たんに「特殊」な運動と考えてはいけない。それは、普通に、戦前においても存在したし、むしろ、これこそが、戦前における、日本型ファシズムの特徴であったと考えるべきで、この構造が、ほとんど「同じ」であることの方が、深く私たちに省察を求めてきている、と言わざるをえないのではないか。
私は、ここには、多くの(吉本隆明言わく)「中流意識層」たちの、実際の毎日の生活における「相対的没落」の感覚の拡大が、大きくあることを意識せずにはいられない。産まれた頃から、明らかに、なにかが「うまくいかない」感覚がどうしても続いている。実際に、生活も向上していかない。
そういった鬱屈は、実際に富裕階層を代表する政治家たちが、「国にお金はない」と言えば言うほど、強くなっていきます。国にお金がないのは、そりゃあ、お金を使えば「ない」のは当たり前であろう。しかし、それはおかしい、と彼らは考えるわけです。だって、実際に、

  • お金を外国人に使っている

じゃないか、と。お金がないと言いながら、なんで外国人にお金を使うんだ、と。外国人は自分の母国に援助してもらえばいいじゃないか、と。私は政治家の倫理として、国にお金がない、と言ってはいけない、と思っている。そう言えば言うほど、

  • 誤解

が拡大する。国にお金がないわけじゃない。国にはお金はある。つまり、国は

  • 嘘(うそ)

を言っている。だから、人権派は、信頼されないのだ。むしろ、問題はそこにないのである。そんな「きれいごと」が、ウソッパチだと大衆は、知っているのだ。
なぜ、こういった時代の混乱期になると、田母神さんのように「軍人」たちが「英雄」として、注目されるのか。ここが、言わば、日本型ファシズムの非常に重要なポイントであると思っている。

同じく陸軍の統制派が、三四年一月に作成していた計画書「政治的非常事変勃発に処する対策要網」にも、農民救済策が満載されていました。政友会の選挙スローガンなどに農民救済や国民保険や労働政策の項目がなかったのに対して、陸軍はすごいですよ。たとえば、農民救済の項目では、義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護をめざすなどの項目が掲げられ、労働問題については、労働組合法の制定、適正な労働葬儀調停機関の設置などが掲げられていた。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

なぜ、軍人は「人気」がでてくるのか。そこには二つの理由がある。一つは、いわゆる、既存の政治システムに対する「幻滅」のインフレーションが、なんらかのオールタナティブを求める大衆に、軍隊という

  • 日本人を守ってくれる人たち

「正義の味方」のイメージを重ねるからである。もう一つの理由は、その反対である。軍隊は、そもそも、常に人集めに苦労している。なんとかして、人々の「人気」を必要とする。よって、どうしてもポピュリズムになる。上記の引用にあるように、国民に「あらゆる」福祉を約束することで、

  • 国民を救う

と約束する(それは、今回の田母神さんの公約に通じるものがある)。ところが逆説的であるが、軍隊が「必要」とされる事態、つまり、戦争が過激化すればするほど、むしろ、軍事費に、大量のお金が必要となる。そもそも、軍人は経済を知らない。知らないが、彼らには「国民を守りたい=救いたい」という正義感があるだけに、その二つの感情を簡単には区別できないのだ。
この、国民の「欲望」と、軍隊の「需要」の、二つの相互作用が、戦中の日本型ファシズムを特徴づける。
日本型ファシズムを一気に過激化した現象が、物不足であり、それに伴う「配給制」の常態化であった。

七・七禁令実施後初の興亜奉公日の八月一日、東京の街角には、「ぜいたくは敵だ!」と書かれた一五〇〇枚の立看板が立った。そして、ぜいたく退治の婦人挺身隊が盛り場に出勤し、派手な服装や指輪をした女を見つけると、「華美な服装はつつしみませう 指輪はこの際全廃しませう」と書いたカードを手渡した。
この日出勤した女たちの話によると、カードを渡された若い娘が、「この着物は染め直しの着物で贅沢ではございません」と反発したとか、帽子は贅沢だといわれた「一人の婦人はヒステリックに、口惜しいと言って、帽子を滅茶苦茶に壊してしまった」とか、かなり女たちに反発をかったらしい。

女たちの「銃後」

女たちの「銃後」

配給制は、人々の「自由」意識を完全に終わらせる。配給は、人間を「奴隷」にする。しかし、これが日本型「自由」だと言うこともできる。
配給制が始まってから、戦中の日本人は変わってしまった。つまり、まったく、違う「倫理」を生きるようになった。

山中恒によれば、日中戦争当初までは、まだまだ逃亡兵も数多くいたが、「大東亜戦争」段階になると全くみられなくなるという。配給制度の確立によって、配給通帳を持たない逃亡兵は、たちまち糧道を断たれるからだ。(「銃後の現在」『小国民体験をさぐる』一九八一年所収)
四〇年、制度化された配給と隣組制は、民衆一人一人を縦横に網の目にからめとり、しっかりと「国家」につなぎとめた。
女たちの「銃後」

しかし、こういった「配給制的不平等への不満の感情」は、ネトウヨなどによる外国人排斥運動の根底にあるものだと言うべきではないだろうか。
外国人排斥運動の特徴は、外国人が「敵」であるというところにはなく(なぜなら、そもそも、彼らは、その外国人自体を、よく知らないのだから)、こうやって、どんどんと「没落」していく自分たちが、

  • 守られていない

という「感情」が、いわば、なにものによっても手当てされないことへの、疑惑であり、つまりは、「自分が平等に扱われていない」という感情なのだ。
つまり、彼らはこういった行動を行うことによって、自分が今感じている「なんらかの不満」を、表象している、と考えるべきなのだ。
例えば、少子化問題を考えても、果して、この問題を本気で考えて、行動している政治家は、どれだけいるのか。私は、これは非常に大きな疑問だと思っている。
多くの若者が、結婚をしていないし、子供も産んでいない。実際、そのひどい状況は、東京のような都会であればあるほど、惨々たる状況でありながら、驚くべきことに、石原元東京都知事は、その状況を、ほとんど放置してきたし、多くの知識人がそういった石原都政を「理解」すらしてきた。あれほどの、託児所不足に、まったく、なんの対応もしてこなかった。むしろ、そういった状況を、さらにひどくさせたとしか思えない態度を続けた。
なぜそうだったのかを考えたとき、石原元都知事を始めとして、いわゆる、富裕層知識人がさかんに、「貧乏人への福祉の使いすぎ」を口汚く罵っていた現状があったわけである。そういう意味では、彼らは、首尾一貫していた。彼らは、貧乏人にお金を使いたくないのである。東京都のような、膨大な税金が集まる都道府県でありながら、石原は徹底して、貧乏人にお金を使うことを嫌った。
私は、今、ネトウヨなどの外国人排斥運動が、過激化する中で、再度、日本の「物質的平等政策」であり「配給政策」が、本気で見直されるのではないか、と思っている。
多くの20代から30代、40代の若者が結婚していないのは、彼らに本気で国家が、

  • 配給

をしなかったからだ。若者が子供を産める期間は限られている。だとするなら、その世代には、たとえ、不況になろうが、貧乏になろうが、子供を産んでもらわなければならない。これは、資本主義とか共産主義とか関係なく、人間がこの地球上で生きていくのに必要なことなのだ。
ところが、石原元都知事を代表とした、日本の<非国民>は、この世代の若者を「見捨てた」。だとするなら、こういった世代から、さまざまな

  • 怨恨

を買うのは、世の必然ではないだろうか。
私は、こういった世代に対して、

  • 結婚や出産を<あらゆる意味>で「保証」する

といった過激な政策を、実際に行っていくことで、多くの若者の「自尊心」が手当てされ、上記の「外国人排斥運動」のようなものの「相対化」が進んで、マイルドに終息していくといった解決策を想像するが、実際に、そういった方向しかありえないんじゃないのか、とも思っている。

また、これは戦争中の日本の戦争映画と共通することですが、個人的なヒロイズムをあまり強調しないということが重要な点ではないかと思います。日本人は天皇の名の下で戦った。それは天皇の意志の実現のための戦いであって、個人的な名誉心のための戦いであってはならないという意識がそこにはありました。

草の根の軍国主義

草の根の軍国主義

日中戦争を描くときになると、ヒロイズムはぐっとひかえて、ただみんな、戦友同士が助け合ってひたすら苦難に耐えるという描き方になったのではないでしょうか。アメリカは個人の自由ということを建国の国是とする国柄なので、戦争映画でも、これこそ兵士個人個人の自由な意志によるヒロイズムの発揮のまたとない機会であるとすることが常識になっています。
草の根の軍国主義

戦争中に、日本で作られた映画を見ると、ことごとく、「平等」が主題になっている。つまり、平等に配る、ということである。「だから」みんなが従うのだ。
平等であることは、社会の安定にとって、非常に重要である。私たちは、貧しいことが嫌なのではない。平等に扱われてないと感じるから、耐えられなくなる。
靖国の問題もそうであるが、私はいわゆる、朝日新聞系の知識人も、もうちょっと、「物質的平等」とか、若者が結婚しない、若者が子供を産まない、といったことを、

  • 政治の不作為

として、本気で「物質的平等」政策であり、「配給」政策を考えないと

  • どっちが頭が悪いのか

ということになるんじゃないのか、と思わずにはいられないんですけど、どうも、あのへんの、人権派さんたちって、そういった感性がないんですよね(基本的に、お金持ちのボンボンのおうちの人たちなんで、朝日新聞のような一流企業に就職できたんでしょうけどね orz)。

いま、かつての国婦の活動家たちを訪ね歩いて話を聞くと、国婦とその背後にあった軍への民衆の支持がすけてみえる。
これまで、女は家にあるべきもの、として、よき嫁、よき妻、よき母を心がけてきた女たちが、ある日突然、夫の職業や地位によって国婦の役員になる。その結果、昼となく夜となく家をあけ、ときには、何日も泊りがけで軍事施設を慰問したり、中央の総会に出席したりもする----。この思いがけない状況の変化にとまどい、家族との軋轢に悩んだ女たちも多かった。
しかし一方で、「兵隊さんのため」と意気に燃えて夜昼なく活動した日々を、「わが生涯の最良の思出」として胸に暖めている女たちも多いのだ。
女たちの「銃後」

もちろん、戦中における、女性たちの過激なナショナリズムは問題だったと思いますけど、しかし、だからといって、それを「悪」だったと言うのも一面的なんじゃないですかね。
彼女たちは、そこに、「配給的<平等>」を実現していくことを通して、一定の充実感があったのではないのか。むしろ、そういった人々の「活動」の場が、うまく生まれていかない、バブル以降の日本社会の階級的タコ壷化が、社会システムとして、ますます、限界に来ているのではないだろうか...。