正義論序説:はじめに「リベラルの反対=ロジカル」

あなたは、リベラルの「反対」は、なんだと思うだろうか? 私は、

  • ロジカル

なのではないか、と考える。つまり、これが、どういう意味なのかを、以下で考えていくわけである。
つまり、私は、「正義」と「論理」は、非常に関係が深いと言いたいわけである。
ここで、「正義」という言葉を使っているが、これは、どちらかというと、欧米における、政治哲学の文脈で使われる「ジャスティス」の意味に近く、東洋思想における、正義のような、「善」を多少なりとも内包する意味での、「正義」とは、一線を画して使っている。
欧米哲学における「ジャスティス」は、政治の場面における、「公平な扱い」のルール化に関係して追求されてきた、という側面がある。そういう意味では、一種の「平等論」でもある。
しかしこれは、他方において、「自由」の問題でもある。つまり、人々の行動は、どこまで「自由」であることを許されるべきであろうか?
リベラリズムは、例えば、アメリカ合衆国において、さまざまな人種の人たちを、どういった観点において「公平」に社会が扱うのか、に関係している。
これは、別の視点から見れば、さまざまなマイノリティ、ゲイマイノリティからレズビアンから、他のさまざまな、少数派コミュニティを、どのように「公平」に扱うのか、に関係している。
公平に扱うということは、そういった少数派の人たちが「どこまで自由に振る舞うことを社会が容認するのか」に関係している。つまり、「寛容」についてである。
しかし、そういった場合、問題になるのは、社会の制度としてどうあるかとは別に、個々人がどうあるのか、に関係してくる。
個々人に「寛容」であれ、と言うことは、例えば、功利主義の前提としての、一人一人の利益追求、つまり、エゴイズムの行動の肯定と矛盾していないのか。