若者を「社会」は援助すべきか?

経済学者の議論というのは、どうして、こう「より悪くなる」「比較的まし」の議論しかないのかな、というのは素朴な疑問である。つまり、この国の「形」を変える、という発想があまりない。選択肢は、すでに過去に語られていなければ「おかしい」と言いたいかのようだ。
それは、おそらく、彼らの視線には「お金」の変動があるからなのであろう。なにかを行えば、どのように「お金」の価値が変動するのか、それを「予測」するのが経済学なだけに、その「答え」が手元にないものについては、語ることが「難しい」ということなのであろう。だから、そもそも発言を控える、「タブー」にする。
しかし、そもそも、国の形を変えると言っているのだから、その方向性は、なんらかの「正義」なりの、実現「したい」課題があるわけであろう。
そういう意味において、今回の保守政権である、安倍ちゃんは、日本の「大」企業に多くの影響を与えている。
多少、左翼がかった、企業よりはどちらかと言えば、家庭寄りに政策を勧めていた民主党の場合には、そもそも、民主党の総理大臣が何を言っても、真面目に聞こうという姿勢が、大企業にはなかったが、安倍ちゃんの場合は、同調圧力もあり、安倍ちゃんが「音頭」をとると、企業も、右ならえをしないわけにはいかない(しかし、他方において、安倍ちゃんが「言わない」と、やらない、というわけなのだから、どうなのか、とは思わなくもないが)。
ようするに、企業や社会は、若者の「実情」に合わせた「正義」を実現すべき、ということなのである。
若者は、結婚し子供を産んでもらわなければならない。そうでなければ、国家は少子化で衰退する。果して、今の企業制度や国家制度は、この若者の

  • 現実

を反映しているのであろうか? まず、なによりも必要なことは、国家は、とにかく、若者に「生活の保障」をすべきだ、ということである。とにかく、彼らに、結婚し、子供を産んだら、その子供が大きくなって、また、働く年齢になるまで、

  • 絶対に見捨てない

と言いきるべきだ。そういった、生活の「安心」を保障することによって、若者たちは、たとえ、今の生活が不安定であっても、次のステップに進む踏ん切りがつく。
そう言うと、一部の人たちは、それを「社会主義」とか言うのだろうが、そもそも、国家にとって、人口減少は、国家存亡の危機なのだから、この国に産まれた子供は、全員、立派な大人になるまでは面倒を見ると言うのは、普通のことではないのだろうか。
つまり、国家は「そのため」に、企業や社会を「利用」する、ということなわけであろう。国家は、企業や社会に、「そのため」の、さまざまな実施策を求めていく。ただし、この場合、それは、企業や社会に丸投げではなく、企業や社会に具体的な「指示」を与え、日本中の企業や社会に一律して、求めていく、ということである。
これは、一種の発想の転換なのである。
大事な橋頭堡は、「若者には子供を産んで育ててもらわなければならない」という「現実」から、あらゆることをスタートさせる、ということである(なぜなら、それが「正義」なのだから、と)。
まず、若者が結婚をしないのは、自分の将来の収入が不安だから、であろう。しかし、こと、

  • 産まれた子供が大きくなる「ため」

の、一つ一つのことについて「だけ」は、徹底して、国なり地域が、「保障」をしたら、どうだろうか。

  • 子供が産まれると、子供の世話で、会社に行けなくなる。...企業の中に託児所的な場所を作ってもらう。とにかく、自分の近くに、子供を置きながら、仕事が可能な仕事場にする(そうなっていなければ、そもそも、企業戦士は、子供を産めないのではないか。だったら、これは、必須のことなのであって、企業は、それが可能な場所に変わらなければならない、ということであろう。仕事場は、こうして、いつも、赤ん坊の泣き声が聞こえる場所になるが、むしろ、それが「自然」だと思えば、自然になるわけである)。
  • 子供が産まれると、子供の服代などで、お金がかかり、その代金を払える自信がない。...まず、必要なら、「支給」をすればいいではないか。もちろん、新品である必要もないであろう。とにかく、必ず、その物が、その人に渡るようにすることは、可能ではないか。とにかく、「買えない」「買うお金がない」に対しては、学校のジャージのようなものでもいいから、あげちゃえばいいわけであろう。もちろん、この場合、大人の服をあげるのではない。子供「の」ものを、である。とにかく、それで、子供は大きくなれる。だったら、若者は子供を産むことをためらう理由にはならなくなる。
  • 子供の食費を払える自信がない。...これも、子供に対しては、「たらふく」なにかを食べさせてあげる「食堂」のようなものを用意したらよくないだろうか。とにかく、子供「は」飢えさせない。
  • 子供の教育費を払える自信がない。自分と同程度の学歴を保障するお金を用意できるか自信がない。...まず、基本的に、教育にお金がかかる「なら」、その教育を、国家は「止める」という前提にする。お金がかかるなら、それは、やらない、ということである。国家の教育は「お金のかからない」ものだけにする(教科書や論文などは無料でネット上に公開すれば、買う必要がなくなる)。もちろん、そうは言っても、工学部や医学部のような所は、さまざまな実験でお金がかかるだろう。しかし、ここで考え方を変えてみよう。そういった実験道具を買うことは、どこまで、必須のことか、と。例えば、それは、もしも「あったらいいな」というものだったとしても、学校に一つあればいい、というものかもしれないわけであろう。学校のみんなで使い回せばいいのかもしれない。少なくとも、全員が買う必要はない。
  • 自分の住んでいるアパートが狭くて、子供が産まれると近所迷惑になる。...これこそ、「国家政策」であり「地域政策」である。国や地域が、そもそも、子供のいる家庭が住める住宅を、どのように整備、維持するのかを「真剣」に考えているのか、が問われている。ある一定程度の割合において、低価格かつ子供との共同生活を可能にする住宅の提供を、業者に「義務付け」すればいい。そして、そういった若者に「優先的」に提供する、とすればいい。そもそも、発想が逆なのだ。電車において、妊娠している女性や老人、子供に、「優先的」に席を譲るのと「同じように」、若者が子供を産める環境を、社会が「用意してあげる」わけである。

こういった考え方の大事なポイントは、日本の子供を、大人にするのは、日本の大人たちの「義務」だということである。

  • みんな

立派な大人に「する」のである。上記の姿勢が示しているのは、

  • 大人が「自分に使うお金」を原則、援助しない(それはまた、別の制度で考える)。
  • 子供が「大きくなるために必要」な、衣服、教育のコンテンツ、教育機関へのコミットメント、食料などは、基本的に「現物支給」によって、とにかく、子供は「大きくなれる」ことを、国家制度や地域制度によって保障する(大人が飢えても、子供は「大きくなる」)。

そうすることで、「子供が大人に迷惑をかけられない」システムを目指すわけである。
よく考えてみようではないか。子供が大人になるためには、「なに」が必要なのか? 「成長」するためには、である。例えば、上記で、学校の「ジャージ」を例にしたが、毎日、そのジャージを着ていたって、

  • 大きくはなれる

わけであろう。もちろん、別に、大人のポケットマネーによって、「おしゃれ」な贅沢をやらせてあげたっていいのかもしれないが、とにかく、

  • 大きくなれる「条件」

はなんなのか、を社会が考え、その最低ラインは、「社会が意識的に」若者の福祉を維持する、ということである...。