以前、このブログで長渕剛について書いてから、私なりに、ちょっと興味があったのだが、ここでは少し、そのことについて、まとめておきたい。
(歌詞を削除しました。。2015/01/07)
(長渕剛「ろくなもんじゃねえ」)
長渕が若い頃の「アイドル」路線から、いつから、今のような、「ヤンキー」的なスタイルに変わっていったのか、という話はあるのだろが、ともかく、彼の場合は、どこか「芸術」路線といった一貫した姿勢があるように思われる(実際、大学はそういった方面だったと、ウィキペディアにはあるし)。つまり、「芸術」ということは、本音ベースだということである。つまり、どこかで「アイドル」という作られたものから、本音で話すし、そうしなければならない、という姿勢が強く表に出てきたのであろう。
上記のヒット曲の構造は、若者が、他者に心を許すことの成功と失敗のアンビバレントな感覚を描こうとしているのが、よく分かる。「愛はいつも大嘘つきに見えて」とあるように、素直に他者に心を許せない。そう思いつつ、他者に自らの自尊心を傷付けられる態度をとられるたびに、深く受けとめてしまう。「悔しくて悲しくてこらえた夜」、つまり、彼らはそれを「こらえる」問題だと受け取っているわけである。
この構造は、どこか、中卒、高校中退、高卒、といった、大学に行かなかった人たちの、なんらの「学歴コンプレックス」と似ていなくもない。今の社会システムが必然的に、学歴によって、さまざまな「待遇」の
- 差別
を
- 正当化
している限り、この「差別」感情がなくなることはないであろう。しかし、言うまでもなく、学歴「差別」は、たんに差別でしかない。もしも、本当に能力的な差異がない「とする」ならば、その差別を正当化することはできない。つまり、すこしも「アプリオリ」な話にはならない。こういったことを、どこまで今の日本社会が自覚しているかは疑問であろう。
私たちは、いったん、学歴だとか「偏差値」だとかいった、偽の評価「ものさし」をとっぱらって、真の「評価」軸とは、なんなのか、を真剣に考えるべきなのであろう。立派な人は立派だし、能力のある人はある。しかし、それと「肩書」は同一ではない。どんなに「傾向」として、一般的に思えたとしても、その二つを明確に分けなければいけない(こういったことを、コミュニケーションの「エコノミー」によって、正当化してきたのが、現代という「大衆社会」のフラット化なのであろう...)。
上記の歌詞の特徴は、まず、正直ベースで、自らの「感情」を描こうとする姿勢であろう。
- 心を引き裂かれちまった
- 心をなじられちまった
- 心を裏切られちまった
- 心を笑われちまった
しかし、これは、これ「そのもの」としてあるわけではない。
- 悔しくて悲しくてこらえた夜
つまり、この心の「動き」は、逆に、それを「こらえる」ことと対(つい)になって説明されているところに特徴がある。
つまり、自分自身が、ある、都会に対する、「同一」感から離れている感覚、自分がこの街と同一化されていない、よそ者としての、不全感を表明している、とも受け取れるわけである。
裏腹な心たちが見えてやりきれない夜を数え
のがれられない闇の中で今日も眠ったふりをする死にたいくらいに憧れた花の都大東京
薄っぺらのボストン・バッグ北へ北へ向かった
ざらついたにがい砂を噛むと ねじふせられた正直さが
今ごろになってやけに骨身にしみる裸足のまんまじゃ寒くて凍りつくような夜を数え
だけど俺はこの街を愛し そしてこの街を憎んだ死にたいくらいに憧れた東京のバカヤローが
知らん顔して黙ったまま突っ立ってる
ケツの座りの悪い都会で憤りの酒をたらせば
半端な俺の骨身にしみる(長渕剛「とんぼ」)
こちらのヒット曲になると、その主張はより明確にあらわれている。九州の田舎から上京してきた彼にとって、東京という大都会は、
- 死にたいくらいに憧れた
場所でありながら、それは、
- 俺はこの街を愛し そしてこの街を憎んだ
といったような「アンビバレント」な引き裂かれた「感情」として、受け取られている。
都会は、一方において、こうやって「よそ者」を受け入れておきながら、他方において、「よそ者」をつき放す。都会は「よそ者」の「事情」に興味がない。一方において、受け入れておきながら、他方において、よそ者が「どういった存在」であるのかを考えようとしない。「よそ者」が自分たちの「スタイル」に合わせる範囲において、彼らを受け入れておきながら、他者が本質的に自分たちとは違っていることを認めようとしない。一種の都会の「フラット」な傲慢さを、示唆する。それは、
- ねじふせられた正直さ
となって、表面化する。この「ねじふせられた正直さ」を、「よそ者」たちは自分の中で、どのように扱っていいのか、いつまでも悩み続けるわけである。
都会とは一種の「都会ムラ」である。というのは、都会人は、一生、そこから動かない。田舎者は都会に上京してくるが、都会者は、死ぬまで、「そこ」にしがみつく。そういう意味においては、都会者は、どこか「田舎者」に似ている。彼らは自らの「自明性」にしがみついているという意味で、
- KY
である。おそらく彼らは、ニューヨークなどの「さらに都会」に行けば、いかに、自分が「恥ずかしい」存在であったのかを自覚するのだろうが、そもそも、そういった意識のない「東京ムラ住人」には、「よそ者」の気持ちは一生分からない、ということなのだろう...。
みょうに小利口な奴を見ると腹が立ち
口にできねえもどかしさをわかってくれと
もの言えぬ 悲しみをずっと信じてきた
喉の奥がかゆくなるような かけひきに Bye-Bye世の中 おもしろくねえ 事ばっかりで
筋の通らねえ 事ばっかりが 太々しく
人ゴミから のがれ ようやく弱音を吐けば
喉元のリンパ腺がきまってぶっ潰れた縮み上がった老婆が金切り声で泣く
俺の顔を さんざん 爪でひっかいた故郷よ
俺は 血まみれになったけど 恨みはしない
強く育ててくれた この日本を愛してる銭で でっちあげられた俺たちの魂よ
人間をバカにしながら ニセモノ共が まかり通る
俺は 玉ネギの皮をひん剥き 疲れ果てた2つの目に
バリバリとすりつけながら もう明日が待ちきれねえ(長渕剛「俺の太陽」)
この曲になると、彼の後期の基本的なスタンスである「ヤンキー」的な口汚なく罵るスタイルが、より明確に、「正直」にあらわれている。
- みょうに小利口な奴を見ると腹が立ち
この一言に全てがあらわれている。今の学歴社会という「スタイル」は、学歴という「偏差値」で、階級化、序列化され、
- 発言を許される
存在かどうかによって、周縁化される。その構造は「朝まで生テレビ」と討論に加わっている連中の「高学歴」たちと、それをとりまく、ただの大衆の「観客」の構造がよくあらわれているだろう。つまり、「発言を許される連中」は、彼らなりの
- 余裕
が、そういった「みょうに小利口」な感じを、スタイルとして結果する。私たち大衆は、それを見て、吐き気のするような不快感を覚えるわけである。
- みょうに小利口な奴を見ると腹が立ち
- 世の中 おもしろくねえ 事ばっかりで
- 人間をバカにしながら ニセモノ共が まかり通る
彼は初期の頃から、こういった大衆の「鬱屈」を言葉にしておきながら、他方において、
- 強く育ててくれた この日本を愛してる
つまり、そのことと、この日本を「愛する」こととは少しも矛盾しないのだ。このアンビバレントな感情は一貫していると言えるかもしれない。
(まあ、彼自身も、ウィキペディアを見ると、子供にも恵まれているし、幸せな「リア充」だということなんでしょうね orz。)