予備校をぶっつぶせ

茂木健一郎さんの、予備校ぶっつぶせツイートが話題になったが、彼の言っていることをよく読んでみると、どうも、この発言を批判している人たちは、なにか誤解をしているんじゃないのか。
というのは、茂木さんは「偏差値」という、予備校が「公開」している値に対して「不快感」を示しているだけなのであって、

  • そんな「偏差値」なるものを「公開」する予備校なんて、ぶっつぶせ

という意味であって、つまり「条件付きぶっつぶせ」なわけであろう。よく読めば、彼は、予備校が自ら「偏差値」を公開し、その自らが作った「ものさし」に対して「マッチポンプ」的に授業カリキュラムなども決めているわけで、まさに、こういった

  • 予備校「文化」の破壊

を目指したわけではないか。つまり、この「偏差値」批判の含意として、今、予備校がやっているような「偏差値を上げるための授業」が、本当に若者が大学という高等研究機関で学ぶための、「どこまで意味のある過程なのか」を強烈に批判しているわけであろう。
だから、むしろ、逆なのだ。日頃、エリート、つまり、選良の重要さを強調している連中が、茂木さんを批判するのはおかしい。だって、茂木さんは「そういったエリートが若い頃に、こんな<どうでもいい>ことに貴重な時間をとられることは、ばかげている」という主張なのだから。若い多感な頃に、読むべき本は、たくさんあるであろう。もっと、アカデミックの中心の議論にふれる機会は必要だろう。
つまり、茂木さんは、エリート、つまり、選良の話しかしていない。そういった連中にとって、予備校のような所で、若い頃の貴重な時間を奪われるのは、国家の損失だ、という考えなのだろう。
「予備校マッチポンプ」は、一方において、自分で偏差値を公開して、自分で「目標」を設定して、自分でカリキュラムを決める。そこで行われていることが、どこまで、「滑稽」であったとしても、予備校側としては、それが「予備校に入学する受験生のニーズ」なんだ、という考えがある。つまり、この評価は、大学の今の受験制度に対応しているのだ、と言いたい、という本音がある。
しかし、こう言われて、茂木さんは納得するだろうか? 茂木さんが、そういった意見を「嘲笑」するであろう。なぜなら、そういった意見には、自分が「当事者」だという自覚がないからだ。つまり、それが「必要悪」だと言うならば、そう自覚しているならば、この「悪」という事態を改善するために、「行動」しない時点で、

  • 悪の再生産

にコミットしている、と言われてもしょうがないであろう。この構造は、原発を「今さら止められない」と言って、福島の多くの避難民が地元に帰れない事態を「しょうがない」と言っているのと変わらない。
日本のこういったペーパーテスト一本主義は、中国の科挙の伝統に関係している。ということは、そもそも、儒教、つまり、朱子学の「思想」に関係している。朱子学における「賢人」は、ある意味において、「究極」の存在と考えられて、究極の「善」にまで至った存在となる。つまり、こういった発想とペーパーテストは相性がいい。なぜなら、ペーパーテストで「より満点に近い」ことが、一種の、「賢人により近い」というアナロジーが成立するからだ。
しかし、ここに一つの決定的に違っている点がある。
それは、朱子学には、「無意味な実践」はなかったからだ。朱子学の全ての実践は、自らの思想に対して、「意味がある」から行われていた。少なくとも、彼ら自身がそう考えていた。そうであるからこそ、もちろん、朱子学の科目には、当然のように、「道徳」があった。
儒教というと封建主義であり、不平等の象徴のように思っている人がいるが、これは本質的なところで違う。というのは、科挙の試験でペーパーテストがあるのは、むしろ、「平等」を実現するための手段だからだ。儒教における「不平等」は、むしろ、その「結果」による、賢者と大衆の間の「差異」に関係しているのであって、基本的にその思想は、究極的なまでの「平等」であることは、最近「中国化する日本」という本が示していた考えであったわけであろう。)
他方において、「予備校マッチポンプ」には、授業内容に、かけらの「主体性」もない。教えていることの、トリガーは常に、大学側の毎年のペーパーテストの中身しかない。中身と、国が設定する高校の学習指導内容、教科書しかない。この予備校の徹底した

  • 受動性

にこそ、茂木さんの「いらだち」が象徴されており、彼が予備校という所自体を、「嘲笑」している理由が分かるであろう。
つまり、茂木さんは予備校が「エリート教育をやらない」ことに不満をもっている、というわけなのである。それに対して、茂木さんの発言を非難していた連中が言っていたことは、予備校が結果として、

  • 教育の平等

に資している面がある、つまり、ペーパーテストという儒教的な「平等」の「正義」の側面から、その社会的有効性を対置していたのは、ある意味において、「滑稽」なわけであろう。なぜなら、茂木さんは、「そこ」を問題にしているのではないのだから。最初から、エリート「にとって」無意味であることを問うていたのだから。
茂木さんの言う「予備校をぶっつぶせ」は、予備校の授業内容の大変革を求めるものであるし、当然、今の各大学の入試制度の大改革を求めるものであるし、今の日本の高校授業内容の大改革を求めるものであるし、ということなのだが、どうも、いわゆる、有識者と呼ばれる人であるほど、

  • 今の何が問題なの?

という反応は、興味深く思えないだろうか。それは、彼ら「自身」が今の制度成り上がってきた雑草だからこそ、自らの「正当性」に関係しているからこそ、ナイーブなところなのかもしれない。
教育内容がどのようなものであるべきなのかと、大学の受験制度がどのようなものであるべきなのかと、そもそも、今の大学のありようはどうなのかは、密接に関係している。今の大学教授たちが、安穏と今の自分の居場所に満足しているなら、どんなに茂木さんがヒステリックに叫んでも、なにも変わらない。おそらく、彼自身が、そんなに本気でもないのであろう。つまり、常に教育は「他人事」なのだ。
教育の当事者は<若者>であって、大人ではない。そうである限り、絶対に教育の改革はニセモノであり続けなければならない。私なら、全国の子供たちが自分のこととして、横の連帯を作り、学生自治によって、教育を全部変えてしまえばいいんじゃないのか、とも思うのだが、茂木さんがいらだっている原因も、そういった被教育者たちが、なんの批判もなく黙々と受容していく、その「奴隷根性」の方にあるのかもしれない...。