コピペ博士

(そういえば、ホリエモンの本って、佐々木俊尚さんというゴーストライターによって書かれていたんだそうですね。ということは、ホリエモン佐々木俊尚さんの全ての本は、どっかのだれかが書いた文章の

  • コピペ

だと思った方がよさそうですね。彼らは、その「口ぱく」をしていれば、本が売れて、飯が食えるわけかw。いい商売ですね orz。)
いやあ。STAP細胞騒動は、とうとう、行くところまで行ってしまいました。
世の中的には、どうも、実際の、STAP細胞の真偽がどうなのか、に関心は集中しているようですが、私が驚いたのは、そこではない。
というか、そんなことに、私は、なんの関心もない(こんな、人間のクローンの作成など、倫理的に許されるわけがないと思っているので、そもそも、こういったことを語ること自体が、汚らわしい)。
私が、一貫して関心を寄せていたのは、どうも、「ゴッドハンド」小保方が、

  • 博士号

を、

  • コピペ論文

で取りやがった、という「事実」である。
この女は、どうも、コピペで、博士号を取ったようなのだ。
すごいね。
私は、この事実をもって、日本のすべての博士号は、「怪しい」と考えている。少なくとも、ある年代以降の、博士号取得者は、なんらかの「不正」を行っている可能性があるし、それ以上に、

  • そもそも、日本の博士号取得者は、なんか「科学的新発見」をやって、もらっているのか

が怪しいんじゃないか、と思っている。
日本の博士号は、信用できない。日本で博士号を取得した人たちは、本当に立派な業績を残して博士になったのだろうか?
なにかが、おかしくないだろうか?
日本の学位制度において、博士号を授与されるということは、それ以上の学位はないのだから、立派な日本の「知性」ということになるであろう。
本当か?
だって、コピペで博士になった「ゴッドハンド小保方」という実例があるわけなのに、どうして、そんなことが言えるのか?
日本の博士号取得者の、かなりの割合で、なんの実績もない、

  • 偽「研究者」

が、いるのではないか?

そもそも、米国と日本では、博士号の品質が大きく異なります。2011年4月20日付の『Nature』誌に、日本を始め中国、シンガポール、米国、ドイツ、インド、など世界各国の博士号の問題点が論じられています。
その中で、日本の博士号のシステムは危機に陥っていて、すべての国の中で、日本は間違いなく最悪の国のひとつだと書かれています。1990年代に、日本政府が、ポスドク(博士号を取得した後、常勤研究職になる前の研究者のポジション)の数を3倍の1万人に増やすという政策を設定しました。その目標を達成するために、博士課程の募集を強化したのです。なぜなら、日本の科学のレベルを一刻も早く欧米と対等にしたかったからです。その政策で確かに人数だけは増えましたが、大学などのアカデミアでは、地位につける人数に制限がありますし、企業の就職には年齢の制限があるため、逆に、ポスドクの最終的な職場がみつからないという状況に陥りました。さらに、博士号を取得する研究者の質も低下しました。
日本の場合、ほとんどの学生が、修士号取得後のわずか 3、4年で博士号を取得して卒業します。いわば、博士号の“安売り”とも言える状況です。
しかし米国では、政府の報告によると、大学学士を得てから博士号を取得できるまでにかかる平均年数は10.1年で、博士号を取得できた時点の平均年齢は33.3歳です。しかも、最終的に博士号を取得できるのは半分程度で、多くの学生がドロップアウトします。ただし、博士号を取得すると、キャリアアップにつながります。特に、サイエンスの博士号には価値があります。収入を考えると、例えばマサチューセッツ工科大学(MIT)の学士、修士(サイエンス)、博士号をとった人のそれぞれの平均年収は、750万円、870万円、1100万円。その他の大学でも、博士号取得後の平均年収は760万円以上です。そしてもちろん収入だけではなく、博士号取得は、人生の様々な選択肢やチャンスにつながるのです。
「STAP細胞」騒動「ハーバード大学」研究者たちはこう見る:大西睦子 | 記事 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト

うーん。どうも、日本の大学で博士号を取得するということと、アメリカなどの欧米の博士号をもっている人では、まったく、違ったことのようですね。
日本の博士号は、アメリカでは、まったく「博士号」として通用していない、ということを意味しているのではないだろうか。日本の博士号をとったという人を、欧米では、まったく「博士号取得者」として扱われない、ということであろう。
日本の博士号保持者は、欧米では、まったく、それ相当のものと扱われない。日本の博士号は、欧米では、日本における「修士号」くらいの意味にしか、受け取られていない、ということを意味しているのではないだろうか。
そのことは、今回の、コピペ博士「ゴッドハンド小保方」がよく示している。
欧米においては、まず、その人に博士号を与えるとなった場合、非常に厳しい評価基準によって、「この人の業績は博士号に値する」という、その人の研究成果に対する、客観的な審査が、かなり念入りに行われているのではないだろうか。そうして、その人の成果が、「どこからどう見ても」、人類の目覚ましい成果として、堂々と顕彰できることが明らかになったから、博士号が与えられるのであろう。
他方、日本においては、まず、博士号が、なぜ、どうやって与えられるのかが、完全に密室の、狭い人間関係だけでやってるから、まったくもって、外から見えない。そして、なぜか、博士過程を終了する頃になると、まるで、エスカレーター式に、博士号が授与される。さて。この人は、なにか、画期的な業績を残したんですかね orz。
おそらく、日本において、ここまでの博士号の粗製濫造は、まったく、大学院の進学者への、援助がないことが関係しているのではないだろうか。お金がないから、先に名誉だけ、与えて、最初に、生活を安定させるための、ポストをとってしまう。つまり、そうでもしないと、貧乏な学生は、大学に留まれないわけだ。
日本の大学が入りにくくて、出やすい、という慣習が、まったく、そのまま、博士号においてまで、通用しているというのは、ちょっと異常な印象を受ける。
少なくとも、博士号くらいは、出にくいにしないと、世界の笑い者であろう。だから、博士過程に進学した学生は、全員、生活を最大限保護してあげて、とにかく、研究に専念してもらう。そして、何年も研究を続けた結果として、本当に、輝かしい学問の成果を残した人にだけ、博士号を与える。そういった、明確な成果を残せていない人は、どこまでも、博士号の称号を与えない。
これを徹底しなければいけない、っていうことなんじゃないですかね。
私が思うのは、別に、こんな称号なんて、なくっていいんじゃないですかね。つまり、大学をやめればいいわけです。みんな、ジャーナリストになって、外野で、勉強すればいいんじゃないですかね。こういった称号は、あくまでも、本当の意味で、すごい成果をあげた人に、その名誉として与えるものであって、それぐらいのものでないと、なんのありがたみもないですよね。