『現在知 vol.2 日本とは何か』

ちょっと、いったん、立ち止まって、そもそも、この社会は、どのようにできているのか、と問うてみましょう。
その場合に、どんな「補助線」を引くのかが問題になります。
まず、そもそも、太古からの日本社会が、どういったものであったのかから始めるのが、私たち日本に住む日本人には、理解しやすいのではないのでしょうか。

日本でも奈良時代から平安時代までは国司がいました。国司は行政官として中央から派遣された官吏で、世襲ではなく、四年交代で担当地域が変わっていきましたから、官僚に近い存在でした。ところが、平安時代の速い時期にこの制度は崩れ、土地を代々受け継ぎ管理する世襲制が生まれてくる。そこから日本の封建制がはじまります。
今谷明封建制こそ近代を準備した」)

ドイツの歴史家オットー・ヒンツェは、巨大な帝国が崩壊するときに、封建制はその周辺で発生するというテーゼを出していますが、日本の場合もそれに当てはまります。
日本は大唐帝国の衛星国家の一つでした。そこで日本は、大唐帝国律令制を導入しようとして背伸びしてみるのですが、早くも奈良時代の中頃からそれがうまくいかなくなります。それまでは公地公民でいこうとしていたのですが、七二三年の三世一身の法や、七四三年の墾田永年私財の法などで土地の私有を認めざるをえなくなり、班田収授法が崩れていきます。
今谷明封建制こそ近代を準備した」)

浸透どころか、最初からうまくいかなくて途中で投げ出したという感じです。古代の日本は、もともと天皇を中心に部族的な集まりで構成されていたのですが、そこに急に中国の制度を導入しようとしたのがそもそもの失敗でした。公地公民なんてほとんど機能していません。
今谷明封建制こそ近代を準備した」)

私たち日本人が、この日本列島において、どのように生活していたのか。それは、上記にあるように、主に、平野部において、「小集団」を作って、その集団が幾つも存在して生活していた、ということなのだ。
そして、この「小集団」が、特に、大きな「移動」をすることもなく、その場所で、長く留まる形態は、いわゆる「封建制」と呼ばれる形態と、非常に相性がいい。というか、日本の政治形態は、上記にあるように、飛鳥時代から、平安時代にかけて、その政治形態を、中国にあるような「律令制」の形態をとろうとしたが、結果としては失敗し、それ以降、明治まで、そして、明治以降においても、そもマインドは「封建制」に近いものだった、ということなのだ。
そういう意味では、日本は太古から「ずっと」封建制だった、と言える、ということである。しかし、興味深いことに、世界中の政治制度において、そもそも、封建制はめずらしい、ということなのである。つまり、封建制という制度が長く続いていたのは、ヨーロッパと日本くらいしかない。
これは、どういうことなのか?

たとえば中国には早くから、王が存在しています。そして、支配者である王は、性(ファミリーネーム)を持っています。ときどき、王となるファミリーが交代しますが、交代できるのは、彼が血縁者を支配しているのではないからです。自分の氏族・部族を率いるわけではないからこそ、王は交代できる。交代可能な王を、統治者として認めることが、少なくとも四〇〇〇年ほど昔から、中国では常識でした。
それに対して日本では、支配者にファミリーネームがありません。ファミリーネームがなぜないのかというと、支配者は交代することが予定されていないから。実は支配者が交代したような場合でも、同一のファミリー内部の継承だとみなすことが可能だからです。つまり、支配者はみな血縁でつながっているわけです。そして、真実の血縁でなくても血縁とみなす手法がいろいろある。娘を妃にして産んだ子どもをつぎつぎ支配者に据えるということも日本では昔からよくあるけれど、中国だったらすぐ排除される。トップがそうなっているということは、日本の権力が多分に氏族・部族的で、王制にあたる段階の権力を歴史的にきちんと経なかったということだと思います。
橋爪大三郎「日本とはどのような国なのか」)

王権がなぜある時期に登場するかと言えば、王がなすべき仕事や機能があるからです。それはたとえば、運河をつくったり、灌漑農業をしたり、異民族の攻撃に対抗したりという、大きな政治低統一を必要とする事業です。こうした仕事は、氏族・部族では果たすことができません。それで、王制という次のステージに進むわけです。
ところが日本の場合には、そういった大規模な仕事が必要なかったという、地政学的な事情があります。日本の川は短く平野も小さいので、灌漑の余地があまりない。水田をつくるとか山林を切り開くとかいった、小規模な工事で済んでしまう。日本はこんな小さな島なのに、農業の水系がおそらく三〇〇ぐらいあり、それぞれ自律的んユニットなけです。そういったユニットに、農民とその指導者が平和に住んでいる。彼らが考えればいいのは、なるべく戦争をしないことぐらいで、できれば放っておいてもらいたい。中央政府はもうほとんどすることがない。
橋爪大三郎「日本とはどのような国なのか」)

中国の地方の支配者は、そもそも、その土地に長くいない。次々と、移転していく。だから、その担当する土地と、まったく、なんの「しがらみ」もない。つまり、確かに、彼らは、最高権力者と近い、さまざまな権限を「委任」されている権力者ではあるが、その権力はすべて、最高権力者から、一時的に「貸してもらっている」にすぎず、一つとして、その人自身の権力はない。
こういった形態は、おそらく、中国が、そもそも、「遊牧民族」のメンタリティによって構成されていることとも関係しているのかもしれない。
こういった人々は、なにか、自分が住んでいる地域を、自分が「所有している」という感覚が薄い。この感覚は、どこか「焼畑農業」に似ている。ある土地に、遊牧民が移ってきて、さんざんその土地の養分を、使い果たして、土地が枯れ果てたら、その部族全員で、また、他の新天地に移住すればいい、というような。こういう遊牧民的なライフスタイルをしていると、そもそも、なにかを自分が「持っている」という感覚が非常に薄くなっていく。あらゆる土地は、一期一会で、もう一生、そこに戻ってこないかもしれないし、そもそも、移動する毎日が旅の生活なんだから、荷物を増やすような「所有」なんて、やっていられるわけがない。
このことは、名字(みょうじ)とは何かを説明しているのかもしれない。そもそも、日本人には名字がない。今の名字は明治時代に、欧米列強に恥ずかしくないように作ったもので、実際は今でも、ないに等しい。では、中国における名字とは何か。それは、上記の遊牧民が集団として移動しているときの、「その」集団に所属していることを示唆する、なんらかの、前頭辞だった、ということではないだろうか。日本人に名字がないのは、そもそも、いつまでも、同じ場所で、同じ小集団で暮らしているから、そういった「区別」が不要だったのであろう。
上記の、橋爪さんの指摘は、遊牧民のマイナーチェンジという印象を受ける。中国における皇帝たちが、長い間、大規模な灌漑工事などを行うことができたのは、そもそも、遊牧民のように、「みんなで一つの方向に移住する」といって、みんなが、まとまって移動できるような、そういった「同一行動」性が関係しているように思われるわけである。
また、こういった大規模事業による灌漑は、結果として、こういった遊牧民たちの「焼畑農業」的な遊牧民スタイルに対して、比較的に一つの場所にとどまることを可能にする、つまり、彼ら自身にとっても、「ありがたい」性質をもつものであったわけである(もちろん、だからといって、彼らの遊牧民的マインドが変わるわけではない。彼らは、別に今の場所自体になんの、しがらみも感じていない。また、昔のように、土地が痩せて、住むに、不便な場所になれば、いつでも移住してやる、と考えている)。
他方、日本のような封建的な社会では、基本的に人間関係とは、村の小集団で閉じている。というのは、まったくもって、国家がなにもしなくても、農民たちは、独立自尊で、その土地の養分から、農作物を作れたし、つまりは、勝手に生き残れた。確かに、土地は、台風で家は吹きとばされ、地震で壊され、洪水で土地が流されても、また「肥沃な土地」が戻ってくる。つまり、「その」土地で、人は生きられる。
遊牧民は、今いる場所に留まっているのは、一時的でしかない。つまり、その土地を「自分たちのもの」という意識がない。焼畑農業で、その場所の養分がなくなれば、さっさと別の場所に移る。こういった生活スタイルをしていると、そもそも、「これは<我々>のもの」という意識が非常に薄れていくのではないだろうか。つまり、そもそも、封建制と資本主義は、非常に相性がよく思われてくるのである。ある土地は、「<我々>のもの」という意識が生まれて始めて、資本主義は、今のような、その活動の過激化が始まりうるように思われる。

幕末に吉田松蔭が天朝(天皇・朝廷)に一元化した政治権力の有り様を構想していたときに、大名家が持っている所領は誰のものかという議論が出てくるのですね。松蔭は「大名は天朝の家臣である」と言い出します。しかし、同じ藩の儒学の泰斗である山県太華(やまがたたいか)は、大名が将軍の家臣であるということを自明に「土地は、各武将が実力で維持・拡大したものであり、天子から与えられたものではない」と応え、松蔭を論破しています。一九世紀に至っても、武士たちの中では、土地とは先祖が弓矢で戦って勝ち取ったもの、という意識が強かったのです。一方、中国はものすごく流動性のある社会ですよね。食べて生活する土地を目指して、大勢の人びとが移動したわけです。日本は気候の条件も良く、田んぼの収穫率が上がったので、そこに技術や資金おどんどん投下していく。だから、農民たちにも、土地は自己の家産である、という意識が強くあったのです。
(須田努「暴力の歴史からん日本をとらえなおす」)

封建制とは、土地の領有権や農民の自衛権を認めるという点で、私有財産に基礎を置いた制度だということができます。ですので、封建制のあったヨーロッパや日本で近代資本主義がいち早くスタートしたもの当然といえるでしょう。
今谷明封建制こそ近代を準備した」)

日本人が、封建制的マインドを生きてきたと言うとき、そういった「小集団」は、江戸時代になっても変わらない。小集団ということは、親分・子分の関係だと言えるであろう。そして、その「範囲」は、せいぜい、藩の大きさくらいまで広がるわけである。つまり、農民は、その藩の藩主を「親分」と思える。つまり、それくらいの大きさが、限界ということである。
藩を超えるということは、かなり違った慣習を生きている人たちの集団にまで到達することを意味する。方言も違うし、そもそも、自然条件がいろいろと違っている。そうすると、あまり「自明性」というところで、意志疎通がうまくいかない。
他方において、遊牧民型の人たちというのは、そういった「土地」に縛られた「慣習」を比較的に、持たないライフ・スタイルを日頃から、行われている、ということなのだろう。どんな土地に移動しても、基本的に毎日行うことは違わない、といったような。
こういった「封建制」的な人々の心性というのは、つまり、親分・子分の日常の視線を広がたレベルでの、小集団の単位での、独立自尊の関係をつくっていく。彼らは、世界の支配者たちが、どんなことを考えていようが、関係なく、自分たちは自分たちで自分たちを食べさせて、生きていく、というわけである。
むしろ、いわゆる、学歴エリート的な、国家官僚が、地方に口を出してくると、「余計な介入」と受け取るわけであろう。なにも知らない、余所者が、勝手に人の領分に入ってきて、なにか、よからぬことを、たくらんでいる、と。
こう考えてくると、そもそも、百姓は、自分が「自分の権力は、だれかの支配の命令によって与えられているものだ」という意識が希薄なのではないか。
高学歴エリートは、その人を「採用」した、国家制度というものがあって、つまりは、彼らを「権力者」としてのポストに採用した、権力者が別にいるということが前提になっていて、彼らが、なにかをやるときは、そういった権力者が彼ら官僚に、「そうやることの権限を与える」として、それを受け取ったから、彼らには、それだけの実行が遂行される。そして、その大きさに応じて、「報酬」が与えられる。しかし、考えてみよう。彼らは、そもそも、自分で自分がやることを決められるだろうか。彼らの高い権力は、結局は、彼らより「もっと高い」地位にある、だれかが、「勝手に決めた」命令でしかない。そういう意味で、彼らは少しも自主的に行動しているわけではない。しかし、他方において、それに「見合う」賃金をもらっている、とも言えなくもない。これを賃金奴隷と言おうがなんだろうが、これが高学歴エリートのマインドだということである。
極端に言えば、どうなるであろうか。
まず、この世界は、ある一人の人が、全てを「所有」している、と考えてみましょう。その人は、この世界の支配者となります。当然、この世界にあるもの全てが、その人のものです。その人の物なのですから、煮て食おうが焼いて食おうが、その人は自由、ということになります。
ここで大事なことは、その人は、この世界の支配者であるということは、その人は、自分が気に入らない人を殺すのも自由、ということになります。だって、その人は、あらゆる物の所有者であるわけですから、その人以外のどんな人も、その人の「物」なのですから。
この考えの場合、では、その支配者以外の人というのは「何」と定義されるのでしょうか?
ここまでの話で、お分かりのように、こういった議論には、ある「祖型」があります。それは、ダーウィンが考えたことでありますし、もっと言えば、フロイトが、エディプス・コンプレックスを歴史哲学に応用したとき考えたことですが、つまりは、

  • ゴリラのボス

の形態ということです。ゴリラのボスは、そのゴリラ集団内の全ての「メス」を所有しています。そして、フロイトが空想したように、そのゴリラ集団内の若い育ちざかりのオス・ゴリラたちは、お互いで共謀して、ボス・ゴリラを追放します。そうすることで、始めて、自分たちがメスを獲得することに成功し、次世代の繁殖に成功します。
しかし、この場合、非常に重要なポイントがあります。それは、この「革命」が必ずしも、以前に存在したように、別のサルが次の「ボス・ザル」になることを、少しも否定しない、ということです。
これは、アニメ「少女革命ウテナ」の構造と類似します。ウテナと戦う悪が、「彼女は昔の私に似ている」という言葉は、悪は必ずしも、最初から悪ではなく、むしろ、悪は最初は「善」なのだ、ということを示唆します。ひとたび、善が悪を打倒し、善の平和を実行する過程において、善は悪に「堕落」するわけです。つまり、あらゆる善は、時間の経過と共に、彼らが打倒した「悪」に似てくる。
なぜ世界に、封建制は少ないのか。それは、上記にあるように、善は「不安定系」だから、ということになるであろう。善は簡単に「悪」に、状態遷移してしまう。バランスが悪いのだ。
上記において、封建制が、資本主義と相性がいいといった主張を引用しましたが、例えば、上記における、日本の小集団は、一種の「利益共同体」であって、この単位での

を、縮小方向にまで極限したのが、「国民主権」なのだ。
ここで、大事なことは、そもそも、「国民主権」とは、封建制のアナロジーだということである。
私たちは、例えば、江戸時代の農民は、身分があって、差別されていて、悲惨だったのだろう、と考える。それは、明治以降から、戦後までの間の、地主と小作人の関係を想起するからである。
しかし、そうだろうか。
江戸時代の農民は、本当に弱かったのか?
以下の話は、私たちの、こういった「自明性」を徹底的に壊してくるわけである。

すなわち、百姓は田畠を守る農具として、いわば生活必需品として鉄砲を持ち、獣に発砲して駆除していたのだ。しかも、百姓の持つ鉄砲の総数は、武士のそれよりも多かったとみられている。
(武井弘一「日本人は銃とどのように向き合ってきたのか」)

次に鉄砲を規制し、その範囲を広げたのは、次の将軍・徳川綱吉だ。彼を有名にさせているのは、極端なイヌの愛護法、いわゆる生類憐みの令を出したことだろう。ただし、誤解してはならないのは、イヌだけでなく、ヒトも含めた生き物すべての命を大切にせよと命令していることである。たとえば、捨てられた赤子が野犬に襲われ、命を落とすことがあったが、このような場合にヒトの命を守るため、捨て子は厳禁とされたのである。
(武井弘一「日本人は銃とどのように向き合ってきたのか」)

農民は確かに、刀を持つことを禁止された。ところが、拳銃は持てたし、実際に、持って毎日打っていた、というのだ。どういうことであろう?
農民は少しも弱くなかったのだ。むしろ、彼らは、たとえ「そうであっても」その拳銃を、武士に向けようとはしなかった。それは、武士も農民も、お互いが、「仁政」をやっていたからである。
この延長で考えたとき、上記の、徳川綱吉の生類憐みの令は、非常に興味深い。動物を殺さないことは、子どもの命「さえ」捨てない、ということである。このことは、現代の常識から考えれば、当たり前のように聞こえるかもしれないが、そもそも、子どもを捨てないための「理屈」というのは、そう簡単に見つからない。なぜなら、子どもがいるから、親は貧乏になっているかもしれないのだから。この貧困から抜け出すためには、たんに、この子どもが一人いなければ、そうなるのかもしれない。そうした場合に、どういった「理屈」によって、その行為をやめられるのか。
そう考えたとき、どう考えても、なんらかの「封建制」的なマインドが必要なのではないのか。

ただ、武士も訴訟のシステムの中に包含されています。大枠としては武士が暴力を独占しているのはまちがいないのですが、さまざまな規制がかかっていたので、やたらめったら暴力を行使できなくなっています。
戦国時代には「喧嘩両成敗」という概念がありました。AとBがトラブルを起こした場合、本来ならばそこに介入をしてどちらが悪いのか裁定を下すのが上級裁判者の役目ですが、戦国大名にはそれができなかったのですね。ところが豊臣政権以降、それが可能となりました。白黒をはっきりさせる公儀公権=統一政権が登場したわけです。ただし、公儀が下した裁定に社会が納得するかは別問題で、忠臣蔵で有名な赤穂事件は社会が納得しなかった一例です。とはいえ、少なくとも公儀は統一政権の維持を強く意識し、社会が納得できるような裁定を下していくことを目指していくわけです。
(須田努「暴力の歴史からん日本をとらえなおす」)

この裁判という制度は、非常に重要である。裁判とは、「過去の想起」のことである。みんなで、過去のその時に何が起きていたのかを思い出そうとするのが、裁判におけるプロセスであるわけだが、ここで大事なことは、どんな人でも、この「過去の想起」という行為を、裁判においては「強いられる」ということである。
過去を想起するということは、過去と現在を比較する、ということである。つまり、それは「現在の行為」の

  • 評価

と関係するわけです。つまり、必然として、「どっちがより正義なのか」「どっちがより善なのか」といった、価値判断を行わざるをえなくなる、ということです。
裁判は、封建制的な親分・子分のコミュニティにおいて、なんとも言えない、「お互いがお互いを分かり合う」ツーカーの相互関係を生み出します。上記にあったように、こうなってくると、

  • 農民が拳銃を持っているのに、それで、武士を打ち殺さ「ない」

わけである。拳銃を打たない。最近のキレる若者のように、「むしゃくしゃして打たない」のだ。

大名のひとり、前橋藩酒井家の例をあげてみよう。軍隊は、騎馬隊・足軽隊・小荷駄隊の三つから構成されていた。そのうち小荷駄隊は、兵糧を運ぶことなのど任務につくのだが、これは村の百姓から徴発された。さらに軍全体の割合でみると、非戦闘員が五五%も占めていたという。
(武井弘一「日本人は銃とどのように向き合ってきたのか」)

日本の封建制においては、こういったように、農民は被支配者ではない。農民は、武士と一緒に藩の軍隊を構成し、たとえ、裏方がメイン作業だったとしても、

  • 農民は武士と「一緒」に戦う

わけである。こういったことは、明治から敗戦までの、帝国ん日本軍のほとんどを、農民徴兵たちによって構成されていたことまで、それほと遠くないわけである。
しかし、である。
徳川の「平和」は確かに、戦争のない社会を実現した。そして、各藩に、私的所有を認める延長に、商人たちを中心とした、資本主義的な、「私的所有」の拡大が始まる。
つまり、この状態は、現代社会の、「1%の金持ちと、99%の貧乏人」と、まったく同じ事態がもたらされた。それが、江戸時代末期の、社会状況であった。

前述したように、十九世紀には「徳川の平和」にも陰りが見え始めた。国内に目を向けみると、関東では村の荒廃が顕著になった。土地を集める地主、つまり富裕層が生み出される一方で、土地を失う百姓も増えた。貧困層は、田畠を質に入れて借金を抱え、次の世代は農業を継げず、村を出ていくしかない。家のない無宿(むしゅく)として、宿を転々としていた。
彼らの代表者といては、国定忠治清水次郎長の名をあげることができよう。アウトローと化した百姓は、鉄砲だけではなく、鑓(やり)や長脇差などを手にして徘徊していた。
(武井弘一「日本人は銃とどのように向き合ってきたのか」)

やはり、江戸時代末期は、江戸資本主義の、ある種の「極限値」にぶちあたっていた、ということを意味するのではないだろうか。資本主義は、必ず、格差の拡大というアポリアに直面する。
同じことは、明治から敗戦までの、地主と小作人の関係においても、まったく同じく再現する。地方の田舎に行くと、見渡す限りの地平線の彼方までの農地を、

  • ある一人の「地主」が所有していた

なんていう話は、ごまんとある。つまり、明治の農地は完全に一人によって、買占められていて、実際に農作業をしていた人というのか、借りていた土地で、しこたま、賃貸料金をぶん取られて、作業をしていたにすぎない。
しかし、こんな「不平等」が、長く続くはずがない、と思わないだろうか?
私は、そう思うわけである。

戦後の農地解放までの日本社会では、地主が土地を持ち、そこで小作人が農業を営んでいました。それに対しGHQが「こんなことでは共産革命が起きるぞ」と考え、農民に土地を与えて自作農としました。ですから農民と土地の土地の関係は農地解放の前後で断絶しています。戦後になって細分化された農地を「先祖伝来の土地だ」と言う方がおられますが、そんなはずはないわけです。
石破茂「政治家という困難な仕事からみえるもの」)

極端なまでに、社会の富の配置が、片寄ってくると、何が起きるか。私は、それが、中国における「紅衛兵」運動だと思っている。当然、これからの日本でも、この運動が起きる。それは、応仁の乱から始まり、江戸時代末期や、明治から敗戦までの地主と小作人の関係において、示唆されている。
どう考えても、あまりにもの、富の偏在が、貧困層の生活レベルの、ありえないレベルへの低下に至ったとき、

運動に発展しないではいられないのではないか。
しかし、そうした場合に、そもそも、そういった状況に至ったときの、日本という国家そのものが、果して「外貨を稼げるくらいには、したたかな経済活動を行っている」と言えるくらいの地力が、残っているのか、なのである。
よく、リフレ政策を嘲笑する議論が見受けられるが、私から言わせてもらうなら、そういった批判は、本当に、この日本という国に生きる人たちのことを思って言っているのかは、判断されなければならない、ということなのである。
リフレ政策は、たしかに、円安を結果することで、富裕高齢者の今ある資産の価値が、海外との比較で、相対的に目減りしている、という事態をもたらす。そういう意味で、富裕高齢者層が、海外で、老後を、のんびり生きようとする「生活プラン」を破壊する。
しかし、他方において、円安は、日本の物つくり産業を、もう一度、過去の「競争力」を与える側面をもっている。もちろん、こういった方向を期待するのは、一時的であり危険という意見もあるが、いずれにしろ、なんらかのオールタナティブとして、

  • 高齢富裕層が今まで蓄財した資産を国は守るのか、それとも、若者が働いて稼いで、若者に収入を与えることで、若者の収入を国は守るのか

というのは、一つの選択となるわけである。
もちろん、どちらの「道(みち)」も、国家の世界における競争力を長期的に担保することが必要とされているという意味で、難しい話ではあるのだが、ともかく、そういうことなのである。
私が、素朴に思っていることがある。
(最後にネタ的に言わせてもらうが)それは、そもそも、この日本における、「平和」。犯罪の少なさ、などに関係した観念として、下記のような、なんらかの「怨霊(おんりょう)」忌避的なマインドこそが、例えば、上記で社会不安の一つとしての

の回避として、注目されるようになるのではないか、と半分冗談で、半分真面目に思っているわけである。

死刑がおこなわれなかった理由に、その当時、人を殺すと祟られるという怨霊(おんりょう)思想が根強くあったことが挙げられます。祟りが怖いので死刑をしないという考え方が根底にあるものですから、上も下も死刑をするということはなかったんでしょう。
今谷明封建制こそ近代を準備した」)

例えば、戦場において、民間人である、女子供を殺す、とする。すると、まず、その「死体」をどうするのか、という話になる。運ぶには重いし、埋めるには、場所もない。そうこうするうちに、死体は「腐る」。すると、危険なウィルスなども蔓延して、この地域一帯が非常に危険なエリアとなる。
そもそも、死体が「腐臭」を放つ。その匂いの「恐しさ」は、私たちに、「人を殺すこと」そのものの忌避をもたらす。
腐った人間は、簡単に、その周囲にいた連中に、病原菌をばらまき、かたっぱしから、死をもたらす。
ようするに、祟りとは「トンデモ」ではなく、科学的に「ヤバイ」ものを、そう呼んでいた、ということを意味しているにすぎない。もはや、呼び方などどうでもいいのだ。危険なものは危険だ、ということである。
おそらく、こういったマインドが、人々に、再分配や犯罪の忌避を動機づけていく。

  • おごれる者は久しからず

1%のブルジョア階層が、99%のプロレタリアを、あなどり、嘲笑し、自分たちの社会的役割を忘れ、我が世の春を謳歌すればするほど、99%のプロレタリアは、自らが何者なのかに目覚める。第二の「紅衛兵」は、今度は、日本に現れないとも限らない。
ふざけた、傲慢な、ブルジョア特権階級が、堕落し、腐敗し、自らの正当性の理由を忘れたとき。その時こそ、彼らに「弁証法」が、叩き込まれるであろう...。

NHKブックス別巻 現在知vol.2 日本とは何か

NHKブックス別巻 現在知vol.2 日本とは何か