畝山智香子『「安全な食べもの」ってなんだろう?』

私たちは、この自然界に生を受けてから死ぬまで、さまざまな形で、相互に外界と「やりとり」をして生きている。
呼吸を始めとして、水分の補給、食事。もっと直接的なものとしては、紫外線や電磁波などもある。
こういった現象において、「健康」という言葉が使われる。人々は産まれてから、子供の時代を経て、大人になり、やがて衰えて、寿命となる。こういった「平均的」な人間像において、その人がそれなりの「病気」や「怪我」になることもなく、これといった、深い医者に世話になるようなこともなく、「健康」に過ごして寿命を迎えた場合、その人は、ある意味において、「幸せ」だった、と言うのだろう。
しかし、もし、そういう意味において、「幸せ」というものを定義するとするなら、ほとんどの人は幸せではない、ということになるだろう。
なんらかの持病を持っていない人は少ないのでないか。肩こりや腰痛を始めとして、さまざまな体のどこかしらの不調をもって、それらを「ごまかし、ごまかし」で生きている人ばかりなのではないか。
この場合、そういった「症状」にみまわれることを、上記の自らと外界との相互作用の中で、なんらかの「原因」があると考えるわけである。
このような視点から考えたときに、何を「リスク」と考え、何を避けるべき優先順位と考えるかの「指標」というのはありうるのか、という考察になってくる。つまり、そういった普遍的な「ものさし」というのは、存在しうるのか、ということである。
掲題の著者が、この本で、考察しているのは、福島第一による、低線量放射線被曝をどのように考えればいいのか、である。

「中国産のほうれん草から基準値を超える残留農薬が検出されたため、廃棄されました」
「有名メーカーの清涼飲料水に指定外添加物が使用されていたことが発覚したため、店頭から回収されています」
という類のニュースを、何度も見たり聞いたりしたことがあると思います。特に東日本大震災による福島第一発電所の事故のあとは、耳慣れない放射能の基準値などというものが加わって、基準値を超えた、といったニュースを聞くたびに食の安全が脅かされていると感じ、不安な気持ちをかき立てられていることでしょう。
しかし実際に損われているのは安全ではなく、信頼であることのほうが多いのです。

これは、この本の最初に書かれているフレーズであるわけだが、もちろん、「信頼」の喪失は大きな問題であるわけだが、ここで著者があえて、「安全が損なわれているのではない<場合が多い>」と言っている意味が、どういう意味なのか、なのである。

ここで評価したいのは長期に渡って摂取した場合の健康影響なので動物でも長期の実験を対象にしますが、間違って一度に大量に摂った場合の急性中毒のような短期の影響が問題となる場合には動物実験も短期のものか選びます。その実験で、たとえば図2のような用量 - 反応曲線が得られたとすると、その物質の投与によりまったく影響が見られていない用量を無毒性量(NOAEL:Non Observed Adverse Effect Level)と呼びます。これを指標にして、安全係数を加えたものが一日摂取許容量(Acceptable Daily Level)ADIです。
安全係数としては、通常の場合、動物実験のデータをヒトにあてはめるのに一〇、ヒトの個人差を考えてさらに一〇、で合計一〇 × 一〇の一〇〇を用いることが多いのです。ものによっては、その毒性が特に心配だといったような情報を加味してさらに大きな値を用いる場合もあります。ADIの意味は、「生涯にわたて毎日食べ続けても健康への有害影響はないと判断される量」ですが、それはこのような手続きによって導き出されているからです。
このADIを決める、という作業が食品安全委員会における残留農薬食品添加物の評価の主な仕事になっています。ADIを決めたら、次はこのADIを作物や食品ごとに割り当てて個別の「基準値」を決めることになるのですが、それについては食品安全委員会ではなく、農林水産省の、リスク管理と呼ばれる仕事になります。

一般に、食品に何か食品とは別の化学物質を混ぜるときに、「どれくらいまでなら許されているのか」ということを考えるときの指標が、このADIだということである。
しかし、ここには非常に重要なことを言おうとしていることに、注意がいる。つまり、こういった専門家は、何をもって、「問題がある」と考えたり、考えなかったりしているのか、の、その「指標」が、どこにあると考えているのか、を、非常に「さらっ」と説明してしまっているのだ。
なにかが問題がある、と考えるときとは、どういうことなのか?
上記の場合は、つまりは、「動物実験」のことを言っているわけである。ある量の添加物を含んで、ネズミに食べさせ続けたら、ある「閾値」を超えると、見るからに分かる「不健康」がそのネズミに現れた、と。ところが、それより少ないと、ほとんど変わらない、と。
だとするなら、そこに「閾値」があるのではないか、というわけである。
もちろん、こう言った場合に、それが「どういう意味」なのか、という話はある。
まず、「不健康」が見た目に現れないとはどういう意味なのか、というのがあるだろう。ガンになるかならないかなら分かりやすいのかもしれないが、それ以外に、血圧や、さまざまな慢性疾患はどうなのか、とか、どこまで「広範囲の視点」で疫学的に調べた結果なのか、という疑問は浮かんでくる。つまり、「不健康」かどうかを確認する「ポイント」が、そんなに簡単に絞れるのか、という疑問である。
次に、そもそもネズミでの現象を、どうして人間に適用できるのか、という素朴な疑問であろう。言うまでもなく、動物はそれぞれ、食べる物さえ違っている。ヒトは雑食であるが、そうでない動物なんて、たくさんいる。そういった動物で起きることと、人間を、そう簡単に比べられるのか、という話である。もっと言えば、しょせん、ネズミは3年もすれば、寿命になるわけで、80歳以上を生きる人間とはあまりにも、タイムスパンが違うように思われる。
おそらく、こういった疑問を一つ一つ拾い上げていったらきりがないのであろうが、そういった一つ一つを「分かった」上で、じゃあ、

  • 具体的にどう「決めている」のか?

なのである。それが、上記での、十カケ、百カケの意味なわけである。つまり、こんだけ安全側にバッファーをとってるんだから、人間だって、大丈夫じゃね? ということなのだ。
もちろん、それで十分なのかどうかは知らないけど、とにかく、いずれにしろ、

  • そういった「手法」でコントロールしている

というわけである。ネズミで「明らかな体調不良が起きる」というエンドポイントから、どれくらいのバッファーを取るのかを、

  • すべての添加物で上記の方法で一律にコントロールしている

という視点から、まあ、実際にこういう手段がどこまで、「正しい」と言えるものなのかは知らないけど、少なくとも言えることは、

  • 同じ手法でアプローチしているから、一律の比較をすることには「なんらかの」意味があるかもしれない

といったことは、見えてくる、という話なのであろう。

食品添加物残留農薬と同じように「基準値」が設定されているものの、詳しく見ると少し違うのがもともと土壌中に天然に存在する重金属や、ダイオキシンやPCBのような環境汚染物質、食品の過熱工程で生じてしまう多環芳香族炭化水素などの汚染物質(英語で Contaminants)と総称されるものです。これについてはADIと同じような概念として耐容一日摂取量(TDI:Tolerable Daily Intake)が設定されています。用語の Acceptable(許容できる)が Tolerable(耐えられる、がまんできる)に代わっただけで、数値の導出方法は基本的には同じです。
ADI意図的に使われ管理できるものに対して使われるのに対し、TDIは意図しないで存在するもので管理するのが難しい、避けられないものに対して使われます。TDIが設定されているような物資は、基本的にはすべて食品中に存在することが望ましくないもので、それが含まれることによるメリットはありません。しかし使用禁止にする、というような管理方法をとることはできないし、取り除くのも困難なものです。そこでここまでなら安全性という観点からは「我慢できるだろう」という値を決めているのです。
ADIと同じような導出方法、と書きましたが、現実には根拠となっている毒性データは添加物や農薬のような規格基準に従ったきちんとしたデータであることはほとんどなく、動物実験ではなく不運にして被害に遭ってしまったヒトの疫学データをもとにしていることが多くなります。人類は長いあいだ天然自然由来の毒物に苦しめられてきたので、ヒトでの被害事例がそれなりにあるのです。水俣病イタイイタイ病カネミ油症のような公害事件もまたヒトの健康影響についての重要な知見を提供しています。

言うまでもないが、そもそも、あらゆる食品は、ADIのように、なにかの添加物を混ぜる「前」から、

  • 汚染

されている。それは、そもそも、地球自体が汚染されているから。いや。こういった言い方は正確ではない。
この地球上は、人間が生まれる前から、「このようにあった」わけであり、その有り様の「幾つか」が、

  • 人間にとって「有毒」

だったとしても、それは「そのようにあるもの」だということを意味しているだけのことで、そういったことを、人間の視点から、

  • 汚染

と言ってみるのも、人間中心主義ということなのであろう。
そして、ここで、どういう意味で、著者は「安全が損なわれているのではない<場合が多い>」と言っていたのかが説明される。

基準と安全側への余裕の大きさについて、極めて大雑把に傾向をまとめると次ページの図5のようになります。人工物や人為的なものには余裕を多めにとり、安全性についての基準値を超過するような人たちはほぼいません。一方天然物の場合には余裕が少なく、安全基準値を超過しているような人たちが少なからずいます。これは人為的なもののほうが管理が可能だからです。

このことは、とても興味深い視点を与えている。
つまり、上記のADIとTDIは、圧倒的に、TDIの方が今決められている「基準」が甘い、ということなのである。
なぜか。
例えば、米(こめ)に含有されている「ヒ素」の量は、非常に多いとされていて、やはり、あまり毎日、お米のご飯ばかりを大量に食べるのは「危険」だというのである。つまり、

  • 他のADIやTDIと比べて

ずっと危険だと。しかし、である。だからといって、日本人がそんなに簡単に、お米を主食とした生活習慣を変えられるだろうか、という話になる。
ヒ素」は、自然界にありふれた「毒」であり、お米のように、半年近くも水にひたっていれば、嫌でも、「ヒ素」を吸収してしまう。
じゃあ、日本人にお米を食べる生活を止めるべきだ、などと簡単に言えるだろうか。
つまり、である。この「基準」なるものは、単純に「危険度」だけで決めていない、ということなのである。そもそも、達成の難しいような「基準」は、守れなかったら「使えない」ということになるので、勢い、その「基準」自体が常識的なレベルに下げられている、ということなのである。

私は被災地にある東北大学で、薬学部の卒業研究をテーマとして「発がんプロモーター」を与えられたときから現在に至るまでおよそ四半世紀にわたって、「発がん物質」の周辺で調査研究をしてきました。

医学や毒性学のような学問を学ぶと、初心者のうちは世の中にはこんなにたくさんの病気や有害物質があるのだということを知って怖くなります。でもさらに多くのことを知ると、相場感が身に付いてきてある程度冷静に判断できるようになります。

おそらく、著者が言いたいのは、こういったことなのであろう。
つまり、たしかに、福島第一由来の低線量放射性物質によって、疫学的には、何割かの病気の「上昇」が結果するとしても、これを、

  • 原因ベース

で考えたときには、その「ほとんど」は、福島第一由来の低線量放射性物質とは違うものがトリガーとなっているケースが多い、ということだ、と。
上記の引用にあるように、著者は、「発がん物質」の専門家であり、その視点から、福島第一由来の低線量放射性物質の「相場」感を考えたときの、その「印象」ということなのだろう。
癌(がん)という病気は、確かに、まだ人間が完全に退治できていな病気の一つであり、やっかいであることには変わらないが、ある意味において、老後に発症しやすかったり、死に至るまでの時間が長かったりするという意味で、比較的にパニックになる、という性質のものではない、という部分がある。
そういった意味から、合理的に生きるという場合に、私たちがもっと気にして、考えた方がいいことは、それなりに、あるんじゃないのか、と、その相場感でありバランス感を示唆したいのだろう...。

「安全な食べもの」ってなんだろう? 放射線と食品のリスクを考える

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