小薮浩二郎『食品業界は今日も、やりたい放題』

ある食べ物があったときに、その食べ物に、何かを「入れる」という行為は、普通に考えたとき、どういった理由において、正当化できるのか、と問うことに意味はあるだろうか?

  • 料理の目的。
  • 長期に保存するための目的。
  • 色どりや歯ごたえを良くすための目的。

おそらく、一番目の理由を問題にする人はいないだろう。そういう人は、たんに、その料理が嫌いだと言っているにすぎないのだから。
では、二番目、三番目については、どうか。この場合、むしろ、問うべきは、「どういった条件において、これらを認められるのか」と同値になるのかもしれない。
もしも、これらが「一番目」に含まれる場合、つまり、一石二鳥で、料理としてうまく行われているなら、比較的、受け入れやすいであろう。
ところが、それらが、「まったく、通常の自然界に存在しなかったもの」となると、途端に、うさんくさくなってくる。
近代に入って、科学の発展と共に、さまざまな化学物質が合成されて、生まれている。これらは、それまで、この地球上になかったものである。それらを自然界にばらまくことは、倫理的に認められるだろうか?
なぜ、食品に添加物が入れられるのか。
本来の人間の作法として、存在しなかった、こういった「人工添加物」による、食品を「汚す」という行為には、上記にあるように、確かに、それによる利点を狙った場合がある。そうであるなら、こういった「行為」を認めることには、一定の合理性があるんじゃないのか、と考えるかもしれない。
しかし、よく考えてみてほしい。
私たち人間は、今まで生きてきて、それらを使っていなかった。使わないで生きてきた。その使わないというライフ・スタイルには、それなりの合理性があったのかもしれないわけである。
人間が発明し、作り出すまでは、この世界のどこにも存在しなかった、その物質は、いざ、自然界に放り出されたとき、どういった影響を与えるのだろうか?
そんなこと、予想できるわけがないだろう。だって、今まで存在しなかったのだから。なにが起きたって、不思議ではないだろう。
しかし、これを逆から問うてみよう。
ある人が、ある化学物質を「発明」したとき、それを自然界にばらまくことを「止めさせる」ためには、一体、どういった理屈が必要なのか、と。
基本的に、現代社会は「自由社会」である。そう考えたとき、そもそも、そんな「強制」を行いうる「理屈」など、あるのだろうか?
よく考えてください。
これは、資本主義なのです。
大量の添加物を作って、それが「売れれば=食品に含まれれば」、その人は、

  • 儲かる

のです。どんなに、その添加物が、人の体を壊す結果になっても、です。
これがビジネスです。
お金儲けは、たんに、お金儲けの「ため」にすることであって、そこに、国民の健康は関係ありません。

既存添加物(つまり天然添加物)には使用基準はありませんし、指定添加物も約4割に使用基準がありません。
添加物には、使用できる食品や使用量に関する制限のないものたくさんあるのです。
たとえば、着色料のカロテンに使用量の制限はありませんが、対象食品が限定されていて、野菜、肉、海苔、昆布などには使用できないようになっています。これは色付けをして鮮度をごまかすのを防いでいるわけです。
しかし、それ以外には使用してよいのです。

添加物は「いくら」使用してもいい。どんなに「たくさん」入れてもいい。その制限がない。
こう聞くと、なんだ、いくらでも使うっていうのは、メーカー自体の「損」なんだから、そこまでバカじゃないだろ、と思うかもしれない。
しかし、これは、まったくの逆だ。いくらでも使えば、この添加物を使っているメーカー「は」、儲かるのだ。だったら、なぜ、添加物を加える量を少なくしようとするだろうか?

添加物を製造する過程は複雑です。原料の化学物質を何種類も混ぜ合わせて、高温や高圧などの工程を経て作られるのです。
その過程で、目的とする添加物以外に、さまざまな不純物が生成されてしまうことがあります。合成の原料として使った化学物質自体も不純物となります。
もちろん、精製という不純物を取り除く作業が行われますが、どうしても不純物が残ってしまいます。

これだけの危険性を持つ不純物ですが、その安全性確認については、メーカーの自主性にまかされているのが実態です。しかし、メーカー内部にいたものからすると「現実には何も調べていない」と断言できます。
また、国が定めた食品衛生法による添加物の品質基準では、ほとんどの添加物について不純物を調べる規定がありません。
食品衛生法には「純度試験」という項目があり、「森永ヒ素ミルク事件」を受けて、銅や鉛などの重金属やヒ素が含まれていないかを調べるように定めているだけです。
食品添加物を作れば必ず付随してくる不純物を調べる試験は行なわれていないのです。

高校の化学の授業を思い出してもらえば分かるだろう。さまざまな化学反応式の右側は、多くの場合、多くの化学式の足し算になっていなかったか。
つまり、なにかが反応すれば、純粋な一つのなにかができるのではなく、それと一緒に、大量の不純物が生成される。そしてそれは、原発でも変わらない。
恐しいことに、この不純物に、なんの規制もない、というわけである。

医薬品の場合、動物実験で安全性を確認した後に、健康なボランティアに投与し、その後で患者に投与して、効力や副作用を確認する臨床試験を必ず行ないます。
この臨床試験は、複数の病院で医師の指導のもと、厳重に実施されるので、研究開発に時間がかかりすぎるというマイナス面もあるくらいです。
動物と人では化学物質の作用が違うという前提に立ち、動物実験で有効性と安全性が確認され医薬品でも、人間では問題が起きるケースがるかもいれないと考えるのです。
このような姿勢はわれわれの健康を守るうえでとても大切なことです。
ヒツジは紙を食べてエネルギーとして生きていけますが、人間は紙を食べれません。このように人と動物とでは生理機能が大きく違うのです。

動物実験とは、しょせん、人間と違うなにかを人間の代替としただけにすぎない。動物で試せば、人間にもあてはまる、という「理屈」はなにもない。

まとめていうと、こういうことです。
「添加物は賞味期限の年月日を添加物容器包装または包装の見やすい場所に記載すべきだが、省略もできる」
記載してもいいし、記載しなくてもいい。メーカーにまかせるよ、というわけです。
どちらでもいいのであれば、楽なほうを選んでしまいます。結果、添加物メーカーは賞味期限を記載しません。
これではいったい、なんのための法令なのかと思ってしまいます。
製造現場にはこの規則について、「使用期限を表示しなくてもよいということは、事実上使用期限がないということ」と考える人が多くいます。
こうした考え方は、いくら古い添加物を使用して食品を製造してもかまわないという思考につながっていきます。

なんと、添加物には、賞味期限がないに等しいのだという。普通に考えて、どんな物質も時間と共に、品質の劣化は避けられないと思われるのだが、この「添加物」業界は、どうも、やりたい放題のようだ。
普通に考えるなら、こんな規制のユルユルの添加物を、なんとしてでも、食品に入れたがっている連中がいるわけである。資本主義の金の亡者が。
この、毒物を、人の口に入れれば入れるほど、自分の懐が肥える、金の亡者が。
ラクリはこうである。まず、中国から、大量の安くて粗悪な添加物を仕入れる。これらを、日本人に、大量に、高値で売りつける。売れば売るほど、食品に入れれば入れるほど、彼らは儲かる。
最近のコンビニは、普通、そういった薬などいらないはずの、梅干しのおにぎりでさえ、裏を見ると、添加物がテンコモリされています。つまり、彼らは、

  • 添加物が「危険でない」から、どんな食品にも、大量に入れる

というわけである。完全に、3・11以前の原発安全神話と同じ構造になっている。安全「だから」、むしろ、避難訓練なんてやる必要がない orz。
どんなに不必要でも添加物をテンコモリに入れる。なぜなら、「それ」が安全の証明だから...。

麹から抽出されるコウジ酸は一時期、美白効果があるとしてもてはやされ、化粧品として人気を博しました。食品では微生物の増殖を抑えるので防腐剤として用いられてきました。
また、アカネ科の植物から取り出した赤色科・アカネ色素は、ハムを包む薄いフィルム状の膜を赤く染めるのに使われていました。
こうした天然添加物に関しては、厚生省はほとんどフリーパスでした。
しかし、研究者のテストによって発ガン性が判明したのです。
コウジ酸は、動物実験によって肝臓ガン、染色体異常などの遺伝子毒性が判明し、アカネ色素も、遺伝毒性、腎臓への発ガン性が認められました。
天然添加物として何年も使用されていたコウジ酸が2003年に、アカネ色素が2004年に相次いで使用禁止になりました。ただし、コウジ酸はふつうに使えば問題がないとして、化粧品について復活しました。
このように、発ガン性でも明らかにならないかぎり、国が添加物を規制しようとする方向には動かないのです。
危険と思われる添加物でさえも、それがはっきりと研究で証明されなうちは、なかなか禁止にはしません。

(上記の引用の中の、「発ガン性でも明らかにならないかぎり」という個所が痛烈ですよね。福島第一での「安全厨」を思い出させますね。)
水俣病を思い出させるであろう。むしろ、人体への影響の調査をしない。やらなければ、科学的「エビデンス」がないから(エビデンスが少なくて、よく分からないから)、

  • むしろ

大量にばらまいて「良い」となるわけである(これが、科学者たちの業界寄りの「倫理」ということなのだろう orz)...。

食品業界は今日も、やりたい放題

食品業界は今日も、やりたい放題