古賀徹『理性の暴力』

安倍政権が、とうとう、300万円以下の残業代ゼロを検討中であることから始まって、集団的自衛権解釈改憲、NHK人事の介入から、原子力規制委員会の人事の明確な利益相反の禁止に対する民主党時代に決めたルールの違反など、この政権が、非常に強権的に、政策を進めようという動きが、顕著になってきている。
しかし、他方において、安倍首相の周辺を固める連中が、戦前の例えば、平泉澄が唱えたような、皇国史観と、ほとんど変わらない、戦前の「中興の祖」よ、もう一度、を唱えるような勢力が、再結成されていく動きを見るにつけて、そもそも、こういった「日本型ナショナリズム」に対抗するような、言論空間を、この日本の政治の場で、本当に形成できてきたのかが疑われるわけである。
そもそも、日本の大臣は、天皇によって「任命」される存在であり、このことは、日本人とは、天皇に「仕える」存在であり、古くは、ヤマトタケルノミコトに、すでにその原型が見られるように、日本人の「使命」とは、世界を「侵略」し、奪った土地や人々を、天皇

  • 捧げる

こと、そして、その「栄誉」によって、位をさずかれることを「名誉」とする民族だ、というような「形式」が、過去の歴史をさかのぼれば、何度も

  • 反復

されてきたわけで(豊臣秀吉朝鮮侵略にしても、明治の朝鮮出兵も、彼らにしてみれば、「白村江の戦い」の再現くらいに思っていたわけであろう)、そもそも、日本の歴史の祖型に、こういったモデルがあることにより、私たち日本人には、どこか

  • 暴力

に対して「寛容(もう少し、抑えた言い方をすれば、無自覚)」なところが、多々、見受けられるように思われる。
これは、日本国民の、どこかしら、抜け出せることのない「同質」性の感覚が、この感覚を非常に強くしているのであろうし、他方において、そのことが日本の凶悪犯罪の少なさを結果している面もあるのだろうだけに、難しいところである。
掲題の著者は、そのことを自らの体験において、子どもの頃の、学校の先生たちによって何度も繰り返された暴力、そして、大学においては、同じ学生たちによる、飲酒における一気飲みの強制、新左翼同士の、セクト同士の暴力行為に、その反復を見出す。
例えば、私たちが、韓流ドラマで高校の様子が描かれる場面を見たとき、非常にショッキングなのは、かなりの「教師の暴力」が、普通に描かれていたわけである(そのことの理由の一つには、間違いなく、韓国が徴兵制の国であることがある)。しかし、この光景は、少し前の日本においても「普通」の光景であった。
確かに、近年、こういった行為は、日本では少なくなってきている。しかし、私たちは、よくよく考えてみるべきなのではないか。一体、誰が「反省」したのであろうか。学校の先生は、本当に自分たちが、さんざん振るってきた暴力を本当に悪かったと思って、今はやっていないのであろうか。もし悪かったと思っているなら、当時の子どもたちに謝罪に回らなければならないであろう。
上記の新左翼の話にしてもそうである。なぜ、警察は、こういった左翼同士の暴力行為を、取り締ってこなかったのだろうか。それは、オウム真理教のときにも感じた違和感である。なぜ、警察は、日本社会の暴力を、見て見ぬふりをしながら、他方において、そういった組織(いわゆる、暴力団を含めて)を、破防法の対象団体として指定する「だけ」で、いわば、そういった暴力を

  • (まるで、なにかの弱みを握ろうとしているかのように)見て見ぬふり

を続けるわけである。
例えば、こういった暴力の光景が、この日本において、一つの極限を見たのが、いゆる、沖縄「集団自決」であったことに、だれにも、異論はないであろう。

「より確実な方法での殺し合いが始まった。当時阿波連部落の区長が、生えている小木をへし折っていた。私はそれに視線を向けた。その小木が凶器に変るとは夢想だにできなかった。しかし、彼はそれで自分の最愛の妻子を殴り殺し始めたのである。以心伝心で我々も愛する者の命を断って行った。ある者は棍棒や石で妻子の頭部をたたき、ある者は鎌や他の凶器で頚動脈を切ったり、ある者は紐で首を締めたり、その時考えうるあらゆる死ぬ方法がとられた」。
我々が自殺という言葉でまずもって想起するのは予想される苦痛の回避であろう。その苦痛とは沖縄戦の文脈では「鬼畜」である米軍に蹂躙されたあげく殺されるというものであった。耐え難い感性的苦痛が予想される場合、ひとはその苦痛を避けようとして自ら死を選ぶ。だが、こうした苦痛回避のモデルによって集団「自決」を解釈することには一つの限界がある。というのも近親者の殺生を遂行する者にとって、殺害行為それ自身多大なる苦痛となるからである。とすれば一切の苦痛を避けるための最善の手段は、近親者の殺害を回避してただ自殺することであろう。にもかかわらずそうはならなかった。当時一六歳の学生であった金城重明は「死には自ら順番が決って」いったという。弱い者、すなわち「一番愛する者、かわいい者」が最初に手にかけられた。「弱い老人女子を残して死んで行く非人情な者は一人もいなかった。父親や男の若者達は、自分の手で肉親や身内の者の命を断ち、その死を自分の目で見とどけてから、死んでいく」。
それは「愛」の行為だったと彼は表現する。

この沖縄の悲劇は、非常に深刻な事態でありながら、ほとんどの日本人が、そのことの自覚をしていない。この悲劇は、たんに、日本軍が命令をしたのかしなかったのか、の問題ではないのである。
沖縄の住民「自身」が、手を下した、という所に、悲惨さがあるわけである。上記の引用の、非常に重要なポイントは、比較的に体力のある男たちが、まず、自分の親にあたる老人や、自分の妻、自分の子どもを

  • 先に殺した

というところにある。たしかに、彼らは、その後に、自殺した。しかし、それは彼らを、たんに「狂気」と言って、この事態から逃げるべきではない。彼らは、確実に、親、妻、子ども、を「自らの手で殺した」のである。この行為を、やってのけた、わけである。
しかし、この事実を「不思議」でかたづけるとするなら、あまりにも、「しらじらしい」とは思わないだろうか。掲題の著者は、それを、以下のように説明する。

近代戦において戦争は、その軍事的勝敗が外交の延長線上にある紛争解決の手段として位置づけられている。近代戦では戦闘員と非戦闘員、前線と社会生活の区別とならんで、宣戦布告、降伏、捕虜、といったさまざまなルールが戦時国際法というかたちで存在している。生身の殺し合いをゲーム化する、そしてその試合の結果を見て紛争の解決を図る、それは人類の戦争史における近代的啓蒙の成果の一つであった。
ところが国民に対する強力な宣伝が遂行され、「戦闘員と非戦闘員、戦線と社会生活の間にあった区別を精神面で取り払って、市民と社会生活の領域とを精神的に戦争に動員し参戦させ」てしまうと、戦闘員自身にとって戦闘の意味もまた変質する。つまり戦闘は行為を規制する外面的ん義務であることを止めて、自分自身の全てを賭けて遂行する自己の内面的目的へと転化する。こうして近代戦争そのものを特徴づけてい戦闘のゲーム的性格が失われ、戦闘らの離脱がもひゃいなるかたちでも不可能となり、社会のすべての構成員が死ぬためにのみ生きているという独特の次元が構成されることになる。戦闘のゲーム的性格を破壊するのに最大の威力が発揮したのが、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」という降伏禁止の戦陣訓であった。事実、沖縄第三二軍全体が戦闘の手段的性格をほぼ喪失しており、そこにはいわば特攻状況の普遍化ともいうべき事態が生じていた。
軍による降伏禁止の教唆(ないしは降伏者への処刑)は、敵軍の捕虜になった場合に女性は暴行され男性はなぶり殺しにされると住民に信じ込ませることと一体となって進行した。こうした敵軍の鬼畜表象は、日本軍みずからが中国戦線や東南アジアでとった自分自身の行動をそのまま相手に置き換えた自己投影であった可能性がある。沖縄タイムスは、一九四二年三月にマレー半島ネグリセンビラン州で起きた日本軍の住民虐殺(一四七四人が犠牲)について、「この虐殺で両親と弟を失った」当時一四歳の女性の話を次のように報告している。「自宅玄関を掃除していた昼すぎ、ぞろぞろと歩いて来る七 -- 八十人の日本兵に気付いた。姉=当時(一九)=に知らせ、自宅裏口から近くのバナナ畑に逃げ込んだ。『日本軍に捕まったら若い女は強姦されう』と母親は聞かされていたからだ。(中略)翌朝村に戻ると、銃剣で突かれた無数の遺体が横たわっていた。小道の土手で若い女性が、足を押し拡げられたまま血まみれになって死んでいた」。
こうした出来事の多くが抗日ゲリラ掃討の名目で行われている。つまり日本軍は、沖縄戦に遥かに先立ってすでに一九四二年の時点において、自ら自身の手によって戦闘員と非戦闘員の区別を廃止し、戦闘からの離脱という降伏制度を許さない前提に立って占領政策を実施していたといえる。

つまり、同じことを、日本軍は、中国や東南アジアで行っていた。そして、それと同じ「論理」が、たんに、日本国内の

  • 内戦

という舞台において、展開された、ということであろう。この二つは、「まったく同じ」理屈ではないか。つまり、むしろ、人間は「理性的」であるがゆえに、海外での行動と、国内での行動を、まったく別のダブルスタンダードにはできなかった、ということを、よく意味していると考えるべきであろう。
日本が敗戦を受け入れたのは、この沖縄での、あまりにも悲惨な事態を受けてである。
この暴力、もっと言えば、「理屈に抗えない形」での暴力の伝播、拡大に、いかに日本人が弱く、無抵抗だったか、ということは、戦後においても、まったく変わっていない。それはそうであろう。だって、反省していないのだから。
日本の教育現場で長年続けられてきた、体罰という暴力は、例えば、水俣病という公害の被害者への暴力と、その

  • 非常に「軽く」その被害の深刻さ

を起こしてしまう、日本社会の暴力に対する「磁場」の弱さを印象づけさせられる。
この場合、一見すると、水俣病という病気の純粋に学問的な問題のように見えるかもしれない。しかし、戦中における、731部隊など、日本の軍隊において、残虐な人体実験を含めた、日本の

  • 科学者の残虐行為へのコミットメント

は、決して無視できるようなレベルではなく、また、その反省もほとんど、戦後行われることなく、平行して続けられたわけで、普通に考えるなら、このことと、原子力ムラの、どこか非人間的ん「作法」を、平行して考えることは自然に思われるわけである。
私が子どもの頃から疑ったのは、どうも、こういった「被害」が、別に、東京の中心で起きたわけではない、ということなのである。あくまで、田舎の片隅で、ほとんどの人は、そこに行ったこともない。見たこともない。そういう人たちが、だれも見ていない中で、非常に深刻な暴力にさらされる。私はそこに、

  • 田舎の外れの自分が見ていない所で起きていることなんて関係ない

といったような、地方軽視の姿勢を、どうしても感じざるをえない。それは、つまりは、地方差別ということである。
福島原発事故が起きたとき、「そんなに危険なものなら、人が住んでいない、ずっと遠くに作って、そこから電気をひっぱってくればいいじゃないか」といったような妄言を共感的に言っていた人がいるが、つまりは、福島だろうが新潟だろうが、

  • 人の住んでいない(東京に比べれば住んでいないのと変わらない)場所

だと、こういった連中は言いたいわけである。自分たち東京人は、人の住んでいない僻地に原発を作って、東京は安全なんだ、と。だから、原発推進なんだ、と。つまりは、地方を侮蔑した態度が暗に示唆されていたわけで、つまりは、原発政策とは、地方切り捨て政策であったことを、再認識させられたわけである。
しかし、他方において、私は、3・11における、民主党政権による、強制避難措置に対して、どうしてもアンビバレントな感情を抱かずにはいられない。
それは、ああいった強制避難が、本当に、そこに住む住民の「望み」だったのか、ということである。

水俣病に向き合うときただちに生じる疑問がある。なにゆえに漁師たちは魚を食べ続けたのかというのがそれである。水俣病の公式発見は一九五六年のことであった。すでにそのころから、病気の原因が魚にあることは漁民たちには直感的には明白であった。にもかかわらず、一九六八年に水俣病の原因がチッソから排出される有機水銀であることを公式に認める政府見解が出されてもなお、漁民たちは魚を食べることを止めなかったという。これは一体、何を意味するのであろうか。
最初の疑問に対しては、容易に思いつく一つの解答がある。それは近代化論のいう窮乏化である。水俣病の「発見」により、漁民たちは漁をしてもそれを市場で売りさばくことが難しくなっていった。それを決定的にしたのが、一九五九年八月の、鮮魚小売商による地元産魚介類の不買決議であった。チッソとの直接交渉によって手に入れわずかな見舞金も生活保護打ち切りの口実にされるという事件まで発生し、同年十月には困窮した漁民を救済するため婦人会による「米一合運動」が提起されるほどにまでになったという。収入の道が断たれただけではなかった。漁民の主食は魚であったが、それを食する事ができなくなり主食を現金経済のなかで調達しなくてならなくなる。それと同時に、今までほとんど発生する事のなかった医療費の負担も重くのしかかる。こうした事態は蓄えの十分ではない漁民の家計を飢餓の淵に追い込むのに十分であった。当時栄養摂取はその謎の病気の唯一の治療手段とされていた。こうした状況のなかで、味も匂いも何の変わりもない目の前にある豊富な魚介類を食する誘惑は日増しに高まることになっただろう。

海辺に生まれた以上魚を捕って食って生きるという漁師のあり方は、自己の選択以前に自然によってすでに与えられたあり方である。それは自然の物質的代謝過程の内部で分節化された生命のありかたなのである。これに対して、食べるものが他になかったから魚を食べざるをえなかったのだ、という思考の枠組みは、様々な食物のなかから好きに食物を選択する都市的市民の前提を漁民の世界のなかに密かに持ち込んでいるのである。

水俣病によって、どんなに体を壊すことになろうと、地元で取れる魚を食べ続けた住民を私たちは、本当に馬鹿にできるだろうか。私はそういった、都会人のノマド気分が気持ち悪い。
おそらく、同じことが、今後、福島県でも起きるであろう。強制避難区域内で生活をしたがる人たちが、あらわれ、そこで、野菜を作り、魚を捕って、ほとんど自給自足の生活を始める人もあらわれるのではないか。
しかし、そういった人を、どうして止めさせられるだろうか。
そもそも、強制避難といった行為は、どこまで、可能な行為なのだろうか。だって、そこには人が住んでいたのである。今も、家があるし、もちろん、その家は、その人のものなのだろう。だったら、そこに帰ってはいけない、なんて、どうして、だれが、どんな権利によって言えるというのか。
しかし、だからといって、そのことが、そもそも福島が、なんの放射能についての考慮もいらない場所になった、ということを意味しているはずがないことは言うまでもないであろう。
最近、「いちから聞きたい放射線のほんとう」という本を書いた、大阪大学菊池誠教授は、以下のようにツイッターで言っている。

そんなわけなんですが、ICRP勧告の範囲内で、何か間違いを見つけたかたがおられたらお知らせください。次の版でなおします。ECRRに触れてないとか、そういうのは意図的なので(ECRRを支持する専門家などいないでしょう?)、指摘していただかなくてもいいです。あと、数字は「だいたい」で
kikumaco 2014/06/02 01:29:50

私は、ここに書いてある「意味」が分からない。この物理学の教授は、なぜ自分がICRP「だけ」しか、考慮しなかったのかの

  • 理由

を一切書いていない。この教授は一貫して、ツイッター上で、ECRRを侮蔑する態度を、まさに、彼が「トンデモ科学者」と呼ぶ連中に対するのと同じように、侮辱した態度を続けているが、大事なポイントは、ECRR はヨーロッパにおける「市民団体」だということであろう。この大学教授は、市民の自主的な活動を、嘲笑して「平気」なのだ。
自分は大学の教授でありながら、市民が市民による活動を行うと「嘲笑」する。ところが、彼は、なぜ、自分が ICRP しか考慮しなかったのかの理由を示さない(このことは、以前紹介した、田崎本と、まったく同型と言えるだろう)。
もちろん、ECRR の主張の中に、不適当なものがあることは、それなりにありうるとしても、それならそれで、個々別々に、判断していく必要があると普通なら考えるが、この教授は、そういったコミットメントをしないで、一冊の福島啓蒙本を書いて「平気」なのだ。もしも、ECRR の主張の中に、今後、福島の未来において、懸念される事態が起きたとしても、この人は、一切の責任を取らない。それがなにか、と言っているわけである。
普通に考えるなら、福島の未来において考慮される、あらゆる見解を、真摯に考慮し、学んで、福島の人が今後を考えて行動すべき、あらゆる見解に対して、その必要度に応じて、警鐘をバランスよく鳴らすことが、こういった啓蒙書に求められる態度と思われるが、どうこの著者は、そういった「覚悟」が感じられない。それは、どこか、浅田彰に代表されていたような、ポストモダン的な振舞いにも似ているのかもしれない。
徹底して、事態に「コミットメント」しようとしない。本気で、生物学を勉強して、生物学の専門家を目指すわけでもない。なんとなく、自分の中で「今」常識となっている何か、ぼんやりとしたものの輪郭を辿って、なにかが言えた気分になっている。
こういった態度を、いわゆる「消費社会的=コマーシャル的」態度と呼んでもいいだろう。原発は、そもそも、徹底して、広告的な存在であった。大量のお金が、マスメディアに流れ込み、大量のタレントを使って、原発の安全を主張させた。そしてそれは、3・11以降も続いている。この、どこまでも、

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理性の暴力~日本社会の病理学 (魂の脱植民地化 5)

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