日本代表についての憂鬱

みなさんは、コートジボワールとの初戦を、どのように見られたでしょうか。私は、この一戦を見ることで、もう、残りの2試合を見る必要がなくなったというくらいに、この一戦は、非常に象徴的だった、という印象を受けた。
どういうことか。
私は、正直に言って、今回の日本代表に「しらけた」という表現が一番ふわしいように思っている。
日本は、例えば、三浦カズドーハの悲劇があったように、なかなか、ワールドカップに出場できない期間がずっと続いていた時期があった。

  • だから

当時の人たちにとって、ワールドカップに出場することは、非常に象徴的な意味があったように思われる。ところが、近年、ワールドカップに出場することは、まるで、当たり前のように、毎回出場するようになった。
さらに、多くの選手が海外のビッククラブで活躍するようになった。
多くの選手がビックマネーをもらい、そもそも、彼らにとって、ワールドカップに出場することには、以前のような意味はなくなってしまった。なぜなら、すでに、ビッククラブに所属するという目標を達成してしまっているからである。
彼らは、なぜ代表チームに招集されて、参加しているのであろう。私には不思議なのである。
ただでさえ、怪我をしがちな、こういった本気の試合に出場して、一体、どんなモチベーションがあるのだろうか。
彼らの頭の中には、自分を世界のサッカー関係者に見させて、

  • 高く売ろう

というモチベーションしか感じられない。つまり、彼らは、自分が目立てさえすれば、あとはどうでもいい。試合に勝とうが負けようが、どうだっていいわけである。
なんのために、ゲームをしているのだろう?
そもそも、私はサッカーの「うまい」選手が嫌いなのだ。つまり、一体、サッカーが「うまい」ということが、なんだというのか。
これは、仕事についてだって、学校の勉強についてだって、同じだ。そりゃあ、世の中、なんでもうまく「こなす」連中っているんだろうよ。でも、そういった小手先を器用にこなして、世渡りのうまい、なんでも言われたことを完璧にこなすような「エリート」を、果して、私たちは

  • 眺めて

いて、一体、何が楽しいのか?
うまくサッカーボールを蹴って、なんの自慢がしたいんですかねw
ボール蹴りなんか下手だっていい。
たれか困っている人を助けようと「献身的」に、自分を投げうとうとする、自己犠牲の姿に感動するんじゃないのか。
試合なんて、勝とうが負けようだ、どうだっていい!
どうして、彼らは、3・11で亡くなった人たちのことを、この大会に参加して、世界が注目していう中、訴えないのだろうか。
彼ら大金稼ぎたちは、3・11の被災者のために、なにをしたのだろう。
あの試合を、決定的にしていたのは、ドログバ選手という、コートジボワールの英雄であった。
私は彼が見れただけで、満足だった。彼は、以前のワールドカップで国内の内戦の終結を訴えたり、学校設立や孤児院支援の話を聞くにつけ、本当に日本が負けてよかったな、と思いましたね。
この試合は、ドログバ選手がピッチに立つことが重要だった。彼がピッチに立つことが、全てを象徴していた。実際に、コートジボワールの人たちの、彼へのリスペクトを感じられただけに、私は、あと他のことは、どうでもいいと思えたわけである。
私は、この世界中の人たちが注目している、この場で、何を言うのか。何を訴えたいことがあるのか。どんな「姿」を見せたいと思っているのか。こういった、大舞台だからこそ、問われていると思っているわけです...。