仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』

ハンナ・アーレントの「人間の条件」という本については、以前もとりあげたのだが、そのとき、あくまで、公的と私的の表面的な部分にだけ、議論を限定して検討した。それは、たとえそうだったとしても、現代において、公的と私的の区別を保持することが政治的に、非常に重要であることをはっきりさせるという意味において、大きな意味があると思えたからだった。
しかし、なぜ彼女にとって、こういった分類が意味があったのかという側面について、必ずしも、十分に検討できたわけではなかった。
つまり、彼女にとっての「文脈」を考慮して検討することによって、より、このことが興味深くなる、と考えられるであろう。
なぜアーレントの、ある意味において、今の欧米におけるスタンダードな思考過程とも思われる、このような考察が展開されたのかを考えるとき、明らかに大きな影響を与えているのが、ハイデッガーであろう。

「公的(パブリック)」という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないる二つの現象を意味している。第一にそれ、公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示れるということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティにくらべると、内奥の生活の最も大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらが、いわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私的化(デプリヴァタイズ)され、非個人化(デインディヴィデュアライズ)されない限りは、不確かで、影のような類いの存在にすぎない。

第一の意味というのは、「公示」とか「公開」など、情報の開示・発信に関わる意味です。アーレントはそれを哲学的に掘り下げているわけですね。つまり、情報として知られているという次元から、他者に対する「現われ appearance」、それも知覚的な「現われ」という次元へと掘り下げている、もしくはズラしているわけですね。
「現われ」というのは、通常は主観的なニュアンスを帯びた言葉ですね。誰かにとって主観的に「〜と見える」ことが、「現われ」だという風に考えるのが普通です。英語の<appear>は、<seem>とほぼ同義に使われることが多いですね。<pappearance>は、「外観」とか「仮象」といった意味もありますが、これらは、認識主体がその対象の本質をはっきり把握してない所か生じて来る幻影的なものと考えられがちです。しかし、アーレントは、「現われ」が他者か見られたり聞かれたりすることによって、「リアリティ」を獲得すると考えるわけです。「間主観性」を通して、「現われ」がリアルになるわけです。
近代哲学は、主体である自我の内面と 物質的な客体のいずれがより本質的かをめぐって議論を繰り広げてきたわけですが、アーレントはむしろ、物の人々に対する「現われ」を本質的だと見ているわけです。そういう「現われ」は、「共同幻想にすぎないのではないのか?」、という疑問を持つ人もいるそうですが、アーレントは少なくとも「公的領域」においては、全市民の視線に晒される「現われ」こそが、「リアリティ」の基盤になっていると見るわけです。

私たちは、デカルト的な作法の伝統として、私秘的に自らの「内面」を探求することで、

  • 本質
  • 真理

を発見する、と考えている。つまり、世界の最も「実体」的なものは、自らという何ものにも代えられない「主観」の唯一性だと考えがちだ(こういった「作法」は、永井均通俗的哲学本が、さかんに訴えていたテーマだったと言えるだろう)。
しかし、アーレントの場合、この状況は、完全に

  • 逆転

されている。この場合、彼女にインスピレーションを与えているのが、ハイデッガーであることは間違いない。
どういう意味か。
私が、何かを「ある」、つまり、「公的」と言うとき、それは、

  • 多くの人が見ている

という、この「構造」が与えることになる、多様な視点の「複合」の結果だと考える、ということである。
こういった考え方の例として、ウィトゲンシュタインのファミリー・リセンブランスを考えることもできるであろう。
多くの人が見ているということは、それらの見るといった表象が「共通」であることを、まったく意味していない。しかし、たとえそうだとしても、それらは、まるで「家族」がそうであるように、その「似た」側面が、複雑かつ多様に

  • 重なる

のである。つまり、アーレントは、こういった多様性が重なりあうところに、ぼんやりと浮かび上がってくる「共通」の認識に、「公的」という意味の本来性を属与しようとした、ということなのである。
(もちろん、こういった見方に満足しない人は多いのではないだろうか。例えば、私たちは、日々、他人に「通じない」感覚が自分の中にあることに、なんらかの「いらだち」を抱え続けている、と言えないこともないであろう。
映画「私の男」であれば、北海道南西沖地震で、家族を失った腐野花にとってを考えてみれば、分かりやすいかもしれない。自分を育ててくれていた家族が、自分を除いて全員で、海で溺れて

  • 一緒

に死ぬことを選んだにもかかわらず、彼女だけは「別」だから、と、彼女一人を、その家族の父親は、一人生き残らせようとした。そして、その後の腐野淳悟との二人の生活を、そもそも、私たちは

  • 想像

できるだろうか。この体験を、アーレント的な「パブリック」の範疇で扱えるのだろうか。
しかし、そういう意味で言うなら、アーレントが「プライベート」な領域を否定はしていないわけである。そして、通じない範囲の何かがあることを認めていないわけでもない。
そうではなく、たとえ、そうであったとしても、「パブリック」な領域は、もはや「真実」とか「本質」とか、そういったこととは関係がないとしても、なんらかの政治的「健全性」を目指すことなしには、未来社会を展望できない、というのが、彼女の20世紀の全体主義を同世代として体験した感覚としての、政治的なアジェンダだった、ということになるのであろう。
たしかに、私たちには、腐野花や腐野淳悟が体験としてもっていた感覚を理解することは、難しいと考えられる。しかし、だとしても、実際に私たちは「私の男」という小説や映画を見るということ「そのもの」が、そういった他者に対して、なんらかの「蓋然性」を、想定する生き方をし始めている、とも言えるわけであろう。
つまりは、こういった「感覚」こそが、アーレント的な政治的な構想だというふうに解釈できるのではないか。)
こういった考え方を継承した人として、ハーバーマスの「間主観性」であったり、廣松渉の哲学が一つの例として考えられるのかもしれないが、いずれにしろ、このように、ある意味において、アーレントの使う用語は、ことごとく、常識的な用法の「反対」になっていることが特徴であることが分かるであろう。

共通世界の条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとすべての「共通の本性」ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。

各人がそれぞれ”相互に全く関係ない場所”から”違ったもの”を見ていたのでは、リアリティは生まれません。単に雑然としたイメージが飛び交っているだけの状態でしょう。一つの空間にそれぞれに固有の場所を占める形で人々が集まっていて、同一の対象を見ていることが確かだからこそ、複数の人のパースペクティブが重ね合わされることによって、その対象のリアリティが増すわけです。テーブルに座っている人たちが、真ん中にある同じ物を見つめているようなイメージで考えればいいでしょう。

アーレントの言う「パブリック」は、私たちが常識的に考える「共通」を意味しない。むしろ、違っていることは、「パブリック」であるための必要条件でさえある。つまり、私たちが「多様」であることは、なによりもの「前提」なのであって、それを満たさないパブリックはありえないのだ。
むしろ、「共通」とは、プライベートであることの性質だと言える。なぜか。それは、プライベートな空間が少しも、孤独であることを意味しないから、である。

都市国家がまだ完全に発達していなかった初期の政治的習慣では、奴隷と仕事人とは区別されてい。奴隷というのは、敗北したかつての敵(dmoes あるいは douloi)のことであり、彼らは他の戦利品とともに勝利者の家に連れ去られ、そこで家内同居者(oiketai あるいは familiares)として、自分と主人の生活のためにあくせく働いた。仕事人の方は、私的領域の外にある公的領域の内部を自由に動いていたのである。

「労働」は、私的領域において「家」に縛りつけられた奴隷が営むことであり、「仕事」は、公的領域の中を自由に動き回ることができる「仕事人 workman」による営みであった、という対比ですね。少なくとも古代のポリスでは、そのような区分があったわけです。

そもそも、プライベートは孤独な場所ではない。そこでは、主人の「利便性」のために、奴隷がサービスを提供している場である。ここにおいて、主人が快適な生活を営めるのは、奴隷たちの勤勉なサービス提供のための奉仕によることが分かる。
なぜ、この貴族は、深い思索にふけられるのか。それは、その人の回りの世話を、奴隷がやっているから、である。この貴族が、安穏と思索にふけられるのは、回りの下世話な世話を、奴隷にやらせているからであって、そうでなかったら、そんな暇な時間を潰せるわけがない。
しかし、こう言った場合に、アーレントは、単純に、この貴族の安穏とした生活を批判しない。というのは、そもそも、人間は、こういった「動物」が日々行っている生きるために行わなければならないことから、必然的に行っている作法から、開放されることで、

  • より価値のあることに多くの時間を使えるようになること

を目指して生きている、という考えだからである。
つまり、彼女は、そういった貴族の安穏生活は、奴隷を含めた全ての人間が目指すなにものかなのであって、そう簡単に否定するわけにはいかない、と考えているわけである。
彼女は、こういった「違い」を、プラトンの「イデア」にも同様に見出そうとする。しかし、そういった場合、一般に理解されているプラトンの「イデア」と彼女の語っている内容が、まったく、正反対になっていることを理解する必要がある。

すべての肉体的感覚、快楽あるいは苦痛、欲望と満足----このようなものは、非常に「私的なもの」なので、外部の世界にたいして正確に表現することさえできず、したがってまったく物化することができない。ところで、私たちの注意を引くのは、このような肉体的感覚と精神のイメージの間に横たわっている本当の深淵である。精神のイメージは、大変容易に、また自然に、物化に役立つ。私たちはあるイメージ、たとえばベッドの「イデア」を自分の心の眼の前に思い浮かべることなしにベッドを作ることなどできない。また、ひるがえって、現実的な物について、なにかある視覚的経験に訴えることなしには、ベッドのイメージをもつことはできない。

生命維持の営みは、私的領域の闇の中に閉じ込められている、という話からすると、肉体的なものが私的であるというのは当然のことのような気もしますが、ここで注目すべきは、「肉体的感覚 bodily sensations」が、「私秘的 private」であるせいで、「物化」できないということです。近代哲学の認識論系の哲学、肉体的感覚、感性的感覚をベースにしていて、肉体が五感で感じたものが確実であるということから出発しますが、アーレントに言わせれば、肉体的感覚は個人が感じるものであり、私秘的なものなので、「世界」の中で公的に表象されない、場所を与えられないわけです。

彼女の場合、ハイデッガー流の「現われ」こそが、全ての前提になっていることを理解する必要がある。
つまり、この場合の「イデア」にしても、その前提は変わらないわけである。
(例えば、私は、プラトンの「イデア」を考えるとき、よく、数学における非ユークリッド幾何学を思い出す。私たちは平行線はどこまで行っても交わらない、ということは「自明」と考える。しかし、それは私たちが

  • 何を想定している

と考えているのかに非常に依存していることが、この非ユークリッド幾何学の例は示している。例えば、今想定しているものが、もし球面上だとすると、ここにおける「平行線」は、むしろ、その「無限遠点」においては、交わるだろうと想定する方が、非常に「自明」に思われるようになる。ここで問題が発生する。もしもそうだとすると、ここで私たちが「自明」と言った、その意味はなんなのか、ということなのである。
毎日、なんらかの「球面」を相手にして日々を送っている人にとって、その「視覚的自明性」が、どうして、非ユークリッド幾何学の方でないと言えるであろうか。そう考えたとき、私はむしろ、プラトンの言う「イデア」よりも、むしろ、数学的な意味における「モデル」や「形式」の方を、より重要視するアプローチの方がより本質的である、と感じるようになったわけである。
上記での、映画「私の男」の例で考えるなら、腐野花にとっての「自明」とは、自分「だけ」を残して、この世を去った「家族」の問題だと言えるだろう。この家族は、私たち明治以降の「日本人」にとっての「家族」の矛盾が集約されているように思われる。
日中戦争以降、日本軍は、「生きて虜囚の恥かしめを受けるなかれ」を実践することを、むしろ「敵」に求めていった。つまり、スパイとして少しでも疑われる現地住民を、家族もろとも、一人残らず、抹殺して行った。しかし、相手に一つの「ルール」を強いるということは、今度は、その刃(やいば)は、いずれ、自分たちに向けられることになる。それが、沖縄集団自決という、一種の「内戦」だったと考えられるであろう。ここにおいて、日本の「家族」は、集団自殺をする。それは「生きて虜囚の恥かしめを受けるなかれ」の実践のためであったのだが、しかし、この「自殺」は非常に奇妙な形態を帯びる。というのは、実際に自殺をしたのは「家長」である、父親だけだったからだ。他の家族は、そもそも、自殺をしていない。父親に殺されるのである。つまり、父親が家族を一人一人、首をしめるなり、刀で袈裟切りにするなりして、殺して行ったわけである。
これに対して、映画「私の男」における、腐野花のケースは、こういった日本的な「家族」の形態をより「強調」する形になっていることに注意がいる。腐野花は、淳悟と、「家族」の母親との不倫の子である。つまり、隠し子である。そうした場合、「家族」の父親は、どうしても、腐野花を「家族」の中に含めて考えられないのである。つまり、腐野花以外の「家族」は、「家族」だから、この地震による津波によって、

  • 一緒に死ぬ

ことの「幸福」に浴することを受け入れられるが、腐野花は「家族」の父親にとっては、「他人」だからこそ、むしろ逆説的に、

  • <一緒>に死なせるわけにはいかない

のだ。むしろ「他人」だからこそ、彼女一人だけは、なんとしても生きさせようとする。そして、そのことの意味に、腐野花は生涯、苦しむわけである...。)
彼女は私たちが「動物」であることから来るような、肉体的感覚は、結局は、一瞬一瞬のものであり、次々と変わっていくものであり、何も確実なことは言えない、と考える。
これと、まったく同様のこととして、資本主義的な商品を、オートメーションで作った、その商品の一つ一つは、あくまでも、その一瞬一瞬の「動物的な肉体的感覚」なのであって、そうであるがゆえに、こういったものは、一瞬一瞬で、その真理が変わっていく。
ある一瞬においては、完璧に作れたと思っても、次の一瞬では、駄作に思え、それを繰り返す。
しかし、彼女の言う、ハイデッガー流の「現われ」、つまり、パブリックにおいては、一定の「コンセンサス」が現れる、と考える。
このことは、以下の引用における、「客観」の、

  • 奇妙な使い方

に非常によく現れている。

自分の手という原始的な道具に完全に頼っている<工作人>の観点から見ると、人間は、ベンジャミン・フランクリンがいったように、「道具制作者(トゥール・メーカー)」である。ただ<労働する動物>の重荷を軽くし、その労働を機械化するだけのこの同じ道具も、もともとは、物の世界を樹立するために、<工作人>が設計し、発明したものである。そして、道具の適合性と正確さは、主観的な欲求や欲望によって決定されるのではなく、<工作人>が発明したいと思う道具の「客観的な」目的によって決定される。

ベンジャミン・フランクリン(一七〇五 -- 九〇)というのは当然、アメリカ独立宣言の起草者の一人で、雷を伴う嵐の中で凧をあげて、雷雲が電気を帯びていることを確認し、避雷針を発明した科学者でもある人のことです。自らも発明者であるフランクリンが、「道具制作者」という言い方をしたということで多少の説得力が出てきますね。
ここでも「客観的」の意味が独特ですね。「仕事」のための道具が適切であるか否かは、イデア的な「目的」との関係で「客観的」に決まるということですね。私たち何となくイデアは主観的で漠然としたものだと思っているので、イデアに適合しているのが「客観的」だというのがヘンな感じがしますが、プラトン的な「工作人」にとって「イデア」は確実に存在していて、「客観性」の根拠であるわけです。それに対して、身体に生じる欲求(needs)や欲望(wants)は、しょっちゅう変動する主観的なものにすぎないわけです。

この「人間の条件」という本において、最も多くのページを割いて考察されているのが、マルクスの労働観であると言えるだろう。
近代資本主義において、何が起きているのか。それは、科学技術による、労働のオートメーション化だと言える。つまり、奴隷の不要化である。しかし、ここで大事なポイントが三つある。

  • そのオートメーション化は、あくまでも、発展途上である、ということ。つまり、労働の不要化は、あくまで漸進的に相対的に言えるレベルを超えるものではない、ということ。
  • そのオートメーション化は、マルクスが「疎外」という言葉で検討したように、今度は逆に、人間自身が「機械」に合わせて生きる「ライフスタイル」に<適応>することを求められるような「反転」が起きていることを意味する、ということ。
  • そのオートメーション化の限りない邁進は、逆説的であるが、私たち人間が、ある意味において「全員が奴隷労働的な日々を送る」ことを結果している、という<日常>を結果してしまっているのではないか、という疑問。

私たちは、確かに、毎日を、科学技術によるオートメーション化に、深くコミットメントした日常を送るようになってきているが、しかし、そのことは、このオトメーション・テクノロジーによる「工作物」を日々、作り、メンテナンスしていく

  • 工学的技術者

であることを強いられるようになっている。つまり、現代においては、だれもが「工作人」だ、ということである。
しかも、私たちの日々の生活を、「奴隷なしに生きることを可能にする」そのオートメーション・テクノロジーは、結局は、「工作物」である限り、それは「動物的な肉体的感覚」に隷従したものでしかありえないわけで、だとするなら、このことは

に私たちの生活そのものが、この「動物的な肉体的感覚」によって、一瞬一瞬に変わる「工作物」の、その作用に、大きく、日常を揺さぶられ続ける、非常に「不安定」な形のものになることを運命づけられている、というわけである。
私たちはテクノロジーの発展と、それによる工学的商品との「動物的な肉体的感覚」を介した相互作用によって、私たち自身の「快不快」を始めとした、動物的な感情が、こういった工学的商品に、強烈に「ふり回されている」ことに、無自覚であることへの、彼女なりの危機感の表明である、と考えられる。
つまり、彼女は何を言いたいのか。
この抽象的な問いかけによって、私たち自身が、ある種の「政治的パブリックネス」へのアクセスに対しての興味の衰退が進むことの(全体主義的な意味での)危険性を、彼女は警告している、と受けとれるわけです。

これまでの話から分かるように、アーレントは、「労働」を、公的=政治的性格を欠いた営みと見ています。では、「労働」を”政治”の課題として掲げる社会主義・労働運動はどう評価すべきなのでしょうか。アーレントは微妙なスタンスを示しています。

<労働する動物>は自分を際立たせる能力を欠き、したがって活動と言論の能力を欠いている。この無能力は、古代と近代を通じ重大な奴隷反乱が驚くほど少なかったということによって確証されるように思われる。しかしそれに劣らず驚くべきことは、近代の政治において、労働運動が果たし突然の、そしてしばしば異常に生産的な役割である。一八四八年の諸革命か一九五六年のハンガリー革命まで、ヨーロッパの労働者階級は、人民の唯一の組織された部分として、したがてその指導的な部分として、近年の歴史の最も栄光る、おそらく最も期待れる一章を綴ってきた。たしかに政治的欲求と経済的欲求、政治組織と労働組合、これら二つのものの境界線は極めて曖昧であったが、この二つのものを混同してはいけない。労働者階級の利益を擁護し、そのために闘争する労働組合は、労働者階級を最終的に近代社会へ編入し、とくに労働者階級の経済的保証、社会的名声、政治権力を著しく増大させる責務を担っている。労働組合は、けっして革命的ではなかった。労働組合望んでいたのは、ただ社会が変化し、それとともにこの社会を代表している政治制度が変化することだけだったからである。そして労働者階級の政党は、多くの場合、利益政党であって、この点、他の社会階級を代表する政党となんら異ならなかた。自分を際立たせようとする努力は、めったにない。しかし決定的瞬間にだけ現われ。たとえば、革命の過程で、労働者階級、たとえ公認の党の網領やイデオロギーに指導されていなくても、近代的条件のもとで民主主義的政治を樹立することができるという自分なりの考えを突然明らかにしたような場合である。いいかえると、二つのものの境界線は、驚嘆な社会的欲求の問題ではなく、もっぱ新しい統治形態の要求の問題にあった。

意外と労働運動を肯定的に評価していますね。一八四八年の諸革命というのは、フランスの二月革命に端を発し、欧州諸国に拡がった一連の革命運動のことです。ドイツでは三月革命と呼ばれます。運動の目標は、共和制の実現、祖国統一、民族自立などいろいろですが、フランスやドイツでは社会主義・労働者運動が一定の役割を果たしました。マルクスエンゲルスの『共産党宣言』がロンドンで刊行されたのはほぼ同時期です。ハンガリー革命というのは、社会主義時代のハンガリーソ連に従属する政府に人々が反発して起こした革命的動乱で、これをソ連が軍事力で弾圧し、ソ連の衛星国家に対する横暴を象徴する事件になりました。
アーレントは、労働組合それ自体は労働者の地位向上を目指していたけれど、必ずしも革命的な政治を行おうとしていなかった、と見ているわけです。また、労働者階級の政党である社会党共産党も、単なる利益政党としか見ていなかったようですね。ここまで見てきたように、アーレントにとって社会点経済的な集団的利益に関わる問題は、「政治」的問題ではないわけです。
「自分を際立たせようとする努力は、めったにない、しかし決定的瞬間にだけ現われた A distinction appeared only in those rare and yet decisive moments 〜」という表現がカギです。<distinction>は、まさにこの第五章のテーマです。公的領域で自らを際立たせるように現われることが、個人だけでなく、労働者という集合体にとっても、「政治」的に重要であるようです。というより、公/私の領域が明確に区分され、経済活動か完全に解放された市民が存在する古代ポリスのような政治体がないところでも、「現われ」の可能性は多少あると見ているように思えます。アーレントは「革命」のような政治的出来事を、それまで光が当たないところにいた集団が、公的領域に現われて、政治的構成を変容させることだと見ているようですね。
あと、「公認の党の網領やイデオロギーに指導されていなくても if not led by official party programs and ideologies」というフレーズが何となく示唆しているように、アーレントは、共産党のような組織化・官僚化された政党は信用していないようです。

労働者階級における二つの傾向、つまり労働組合運動と人民の政治的熱望というこの富津の傾向の歴史的運命は極めて対照的であった。なぜなら、労働組合、つまりただ近代社会の諸階級の一つとして存在する限りでの労働者階級は、次々と勝利を重ねてきたのにたいし、政治的な労働運動は、政党の網領や経済的改革とは別個に自分自身の要求を思いきって提出するたびに敗北してきたからである。たとえばハンガリー革命の悲劇が世界に示したことは、ただ、あらゆる敗北、あらゆる外観にもかかわらず、このような政治的活力(エラン)はまだ死に絶えていないということだけであった。

ここでアーレントの言っている「人民の政治的熱望 the people's aspiration」というのは、文脈から分かるように、労働者の待遇の改善とか団体交渉権、社会保証などのような具体的利益の話ではなく、自らが「公的領域」に現われ、「活動」できるようになることを指しています。「労働者」という言葉を使っていますが、アーレントは、マルクスエンゲルスのように「労働者」を階級として捉えているのではなく、それまで公的領域に参入することを許されなかった人々を象徴的に表わす言葉として使っているようですね。マルクス主義は、労働者政党の導きの元で労働者が階級として団結することの重要性を説きますが、アーレントはむしろ、そういう外部の組織による統制なしに、「人民=民衆」の間に自発的に起こって来る、政治参加への願望に期待をかけているわけです。無論、組織化されていない運動でも、大抵は何らかの利益を要求するものなので、アーレントの言っているように、ちゃんと区別できるか疑問ですが。アーレント自身もそのことを分かっているので、歯切れが悪くなっているのだと思います。

上記の指摘は非常に興味深く思われる。それは、ある種の「混乱」が感じられるからである。彼女は、一方において「労働」に全ての人間が隷従していく、現代社会の政治的「危機」を訴えておきながら、他方において、

  • 労働運動

を評価せずにはいられない。しかし、私たちにしてみれば、労働と労働「運動」を区別する彼女のレトリックは、非常に理解しづらい。
なぜ、労働は否定的に語られ、労働運動は肯定的に語らずにはいられないのか。おそらく、そこには、このアーレントの野心的、政治哲学書が、なんらかの「用語的混乱」を含んでいるから、と考えられる。つまり、そういう意味で、彼女のこの哲学構想は、不完全な未完成の部分を含んだままになっている、と考えられるであろう。
なぜ彼女は、労働運動を評価するのか。それは、上記の引用にあるように、そもそもそれは「労働」とまったく関係ない、わけである。つまり、労働運動「そのもの」が、彼女に言わせれば、非常に重要な人間の「政治的公共性」の<現われ>であるから、彼女はどうしても評価せずにいられないわけである。
彼女にとって、そもそも政治とは、人々がいかにして「公的」であることを止めないか、の一点に全てが集約している、という考えだと考えられるでしょう。なぜ、そうなのか。これは言ってみれば、非常に

  • メタ・レベル

の考察であることが分かります。つまり、一つ一つの内容は、人々が「公的」である限り、きっと解決に向かいます。なぜなら、人々が「公的」であろうとしているなら、きっと、その問題はアジェンダ化されずにはいられないからです。そう考えるなら、問題は、どうやって人々が「公的」であろうとし続けさせうるのか、という問いに集約するわけです。
このように考えたとき、労働運動の否定は、どんなに「労働」そのものへの彼女の否定が存在したとしても、ありえない、ということになるわけです。
例えば、これを反原発デモとの比較で考えることもできるでしょう。この日本社会には、多くの原発を動かしたい、有象無象の連中がいます。そして、こういった連中は、マスコミを使って、多くのお金を、この「宣伝」に協力する御用学者連中に、ばらまいているのでしょう。そう考えれば、こういった連中が、反原発デモ否定のイデオロギー闘争をしかけてきている現状を理解できるかもしれません。
しかし、たとえ、そうだとしても、彼らが「反原発デモ」自体を否定できない、というようにアーレントであれば総括する、ということになるわけです。なぜなら、それは「公的な現われ」であるから、そういった「現われ」である限り、肯定しないという理屈はないから、である。
アーレントにとっての大事なポイントは、この「公的な現われ」を人々が行ないうる「人間の条件」を問い続けることだった、と言えるでしょう...。

ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義

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