悪感情

佐世保事件について、いろいろ言われているが、ようするに、高級住宅街で、いいとこの子が、こんなことを起こしたのがショックだということなのであろう。しかし、そもそも人間を何者であるなどと定義しようとする態度が、どこか不遜なのではないのか。
私は、こういった言い草が不快だ。そもそも、加害者は、まだ子供ではないか。子供である限り、

  • どんなこと

でもありうる。こういう反応をしている連中は、もしこの犯罪を犯した子供が、貧しい、貧困層の子供だったら「やっぱりね」と言うだけなのであろう。そして、ゲーテッド・コミュニニティだの、住み分けだのと差別的なことを言い出す。つまりは、彼らの「あて」が外れたってだけにすぎないのであろう。
videonews.com で神保さんもアメリカの事情を話していたが、ゲーテッド・コミュニニティなんて悪夢以外の何者でもないであろう。ゲーテッド・コミュニニティを作って、外部の人間を遮断することに生き甲斐を見出している連中って、そもそも、人が信じられないんでしょ。じゃあ、そういった人間がどうして、ゲーテッド・コミュニニティの

  • 中の人

だったら信じられるんだろうね。だって、中の人って「自分みたいな人間不信」の連中が集まってくるんでしょ。そもそも、こういうエゴの固まりのような人間が、もし、自分の回りに集まってくる人間が、自分と同じように考えていると思い始めたら怖くてしょうがないんじゃないですかね。だって、そもそも、人間を信じてないんですから。
なぜ都市が「平和」なのかって言えば、ジェイン・ジェイコブスが言ったように、自分に関係ない人の

  • 視線

が、たくさんあるから、としか言えないわけでしょう。ケインズ美人投票のようなもので、多くの人の視線があるから、簡単にトラブルを起こせない。そうした場合の、自分のコストを考えないわけにはいかない。結局、世の中には、たくさんの

  • いろいろな人

がいるから、なかには、正義感を燃やして、不正に立ち向かってくるかもしれない。なにをし始めるか分からない。だから、そういったもろもろが、犯罪者の抑止力になる。
ラノベやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の最新刊は、ヘイトスピーチ、つまり、悪感情が主題となっている。文化祭で委員長を努めながら、大きな失態をおかした相模南(さがみみなみ)が、今度は、体育祭の委員長をつとめることになる。しかし、各委員たちは、クラブ活動を理由にして体育祭の準備に非協力的な態度をとる。そもそも、学校行事は子供たちが準備をボイコットすれば、たんに行われないという結果になるにすぎない文化祭のときは、相模と一緒につるんで、さぼりの常習犯であった、遥とゆっこは、今回は、徹底して相模に反発していく。ただただ協力しない。そんなことに理由などいらない。たんに

  • 嫌い

なのだ。嫌いなことに理由はいらない。嫌だから嫌。不快だから不快。相模が成功を願ってるいる体育祭を、そう相模が願っているという理由だけで、絶対実現させたくない。つまり、

  • 感情に理由はない

というわけである。作品は、ひきがやと雪の下のアイデアによって、より大きな民主主義を使うことによって、一応の危機はだっする。しかし、である。この結果は求めていたものなのだろうか。というのは、当の相模にとって、この結果が答えだったとは、どうしても思えないかえらだ。

「相模さん、あなたの今の発言は......」
「うるさいっ!」
だが、相模に聞く気はなく、今度は雪ノ下にも同じことを言い、さっきの遥やゆっこのようにひたすらまくしたてた。
「なんでもかんでもそっちで決めて、うちの話なんて誰も聞かないし、全部わかったような顔をして何様のつもりなのよ」
ひきつけを起こしたように息を吸い、そしてなんとか声を絞り出す。
「うちだってちゃんとやっているじゃない......」
それは果して俺や雪ノ下へ向けた言葉だったのだろうか。その慟哭は俺たちだけではなく、翻して遥たちへの攻撃でもあった。
「今度はちゃんとやろうって頑張ってるじゃない! なんでわかってくれないの? 謝ったし、反省だってしたのに......」

感情は、解決しない。興味深いことに、この相模と遥やゆっこの対立の和解は描かれない。また、ひきがやの下駄箱にゴミを入れた犯人も、最後まで、あばかれない。ところが、体育祭は無事開催され、棒倒しは行われるし、下駄箱のゴミがずっと続いたという記述もない。つまり、感情は、たとえ続いても、

  • 平和

でありうる、ということでもある、ということである。結局、感情とはなんだろうか?
アニメ「残響のテロル」において、高校生の三島リサは、学校ではイジメられる日々を鬱屈として送っていたある日、自分と同年代の男の子がテロリストとして都庁を爆破する現場を目撃し、それが自分の今の

  • 現実

を打ち破る、ブレイクスルーとして受けとるようになる。彼女は、久見冬二のバイクの後ろに乗って、高速を走りながら、こんなに自分が楽しいと思ったのは高校に入って始めてだ、と言う。
大事なポイントは、その三島リサが「楽しい」と思う感情が、二人の少年は表象する「このセカイの全てを壊す」という(そこには、彼女自身が毎日受けていた、イジメという煉獄をも含んでいる)思わず、自分の口から少年に問いかけた言葉にある、ということなのであろう。
もちろん、こういった想像が物騒な危険なものであることを否定するわけではない。しかし、彼女にとって、毎日のイジメに、ただただ悩むだけであった彼女の「感情」が、たとえどんなものであれ、たとえ一瞬であれ、開放的になれたことを、だれも否定はできない。つまり、それが生きている、ということなのであろう。
アニメ「ばらかもん」において、主人公の半田は、島の住民の漁師にペンキで船に文字を書いてくれ、と依頼される。習字のプロとしてトレーニングを受けている半田は、もしも失敗したら、恥をかく、と、どうしても、最初の一筆を書くことができない。すると、その様子を見ていた、なるを始めとした子供たちが、次々と、そのペンキの中に自分の手をつっこみ、船に手形をつけていく。逆上して、怒り狂う半田は、ところが、その子供たちの手形を目立たないようにするように書かなければならないと、覚悟を決めた途端、自然と筆を走らせられてる自分に気付く。
つまり、子供たちの手形によって、自由が制限されたことによって、自分の文字の自由度が制限され、結果として「その範囲」でしか、ありえないという条件が、その範囲で、伸び伸びとやることを可能にした、というわけである。
人生は常に、人との関係において、自らを制限さらせている。しかし、そのことによって、私たちは「自由」になっているのかもしれない。少なくとも、その「感情」において...。