有限な責任

STAP 細胞論文の共同執筆者の一人の笹井さんが、自殺をされたということで、マスコミは騒然としている。最近は体調がかなり悪かったということで、精神系の病院で薬もかなり服用されていたということで、結果としてこのような結末になったことは残念と言うしかない、ということなのであろう。
以前、このブログで高野悦子という人の日記を紹介したことがあるが、この人の場合は自殺する直前に、多量の睡眠薬を服用していたわけだが、薬の危険さについて、もう少し、社会全体が自覚する必要があることは間違いないのだが、医者は薬を売れば儲かる構造になっているだけに、その危険性について、あまり言いたがらない印象が強くある。
今回の一連の流れは、どこか、政治家や政治家の秘書の自殺と似ている印象も受ける。つまり、あまりにもえらくなった、だれも、この人に命令のできる立場の人がいない、それくらいに過去の輝かしい実績のある人の場合、彼自身に、さまざまに命令をしてくれる人がいない。つまり、最後は自分が決めないと、結果的に、なにも話は前に進まないくらいの、えらい立場まで登りつめてしまった人において、ひどく思いつめてしまって、極端な結末を迎えてしまう場合がある、ということなのであろう。あまり考えたくはないが、アベノミクスの柱の一つとしてバイオがあっただけに、なんらかの政治的なプレッシャーも感じていたのかもしれない。たしか安倍首相の前回の政権のとき、大臣の自殺があり、それをきっかけとして、政権の求心力を失っていった面があったと思うが、安倍首相の政治スタイルには、どこか失敗や弱音を許さない、絶対に結果を出させようとする、ムチャブリのところが一様にあるのであろう。それは回りを囲む人たちに、プレッシャーとなっているのかもしれない。
もしも、今回の件を、労働問題と考えるなら、かなり早くから、会社を辞めたいと言っていたにもかかわらず、何度も慰留をされ、この結果を招いたことは、社会全体に、なんらかの反省を促す側面がなかったであろうか。体調が悪いと言っている人を無理に引き止めても、生産性はあがらない。もしも彼に変われる存在がいない、ということなら、それは、すでに仕事ではないだろう。しょせん、仕事など命を賭けてまでやるものではない。むしろ、自分の代わりなんて、いくらでもいる、そうでなければ、脆弱な職場だと言わざるをえない。
おそらく、笹井さんは、あまりにも、あらゆることの責任を自分が背負おうとしすぎたのであろう。あらゆる仕事には、人それぞれの役割があり、そのノリを乗り越えて、責任を求められることはない。それが、有限責任ということであって、ドラッカーが言うように、マネージャーでさえ、自分の役割は限られている、とされる。小保方さんをかばうにしても、それには限界があり、それでよかったのだが、彼なりに、その境界は自明ではなかったのであろう。
今回の自殺を切っ掛けに、今までさまざまに明らかになってきた、生命科学業界の矛盾であり、大学システムの行きずまりは、また、タブーとなって、日本の伝統のハラキリ文化によって、政治的決着となるのだろうか。そうして、また、日本の政治は、何十年と遅れる、ということなのだろうか。
生命科学の研究者として、大学院に入っても、なかなか、就職先がない。ほかの分野にしても、せっかく大学院に入って、トレーニングを積んでも、なかなか就職先がない。こういった状況が続く日本社会のままで、本当にいいのだろうか。これを、そのままにしておいていいのだろうか。
例えば、この前紹介した記事にも書いてあったが、そんなに論文に間違いがあることは問題なのだろうか。つまり、たんに、どんどん直せばいいんじゃないのか。ヴァージョン2・〇とかいって、勝手によりよいものにしていけばいいんじゃないのか。むしろ、有名な雑誌にアクセプトされることを錦の御旗にしすぎていないか。むしろ、現代というSNSの時代に、論文というのは、あまりにも形式的すぎないか。もっと、積極的に、集合知による、品質の向上が望めるケースだってあるんじゃないだろうか。
それと同じように、教授だとか助教授だとか、あまりにも、やんごとない身分すぎないか。ネットごろつきだって、ネットに論文をアップして、読んでもらえれば、そして、それを評価されるような、古代ギリシアのオリンピックのようなアリーナがあるなら、むしろ、教授、助教授であるかどうかなんて関係ない、そういった

  • 評価システム

だって、構想しうるのではないか。いずれにしろ、生命科学であり、もっと広く、日本の大学システムであり、明らかに、金属疲労をおこしてきていて、なんらかのブレイクスルーが求められているように思われるが、それなりに、ここにはここの権力構造のようなものがあるだけに、そう簡単には前には進まないのだろう orz。